第7話


「い、嫌よ、絶対嫌」


一体マリーはどういうつもりなのか。

栞は自分が泣いていた事も忘れ、慌ててマリーの元へと駆け寄るとその腕を力任せにその腕を掴んだ。マリーの顔に驚きの色が滲むが、それを気に留める余裕は栞に残されていなかった。


「あら、どうして?シオリは本当はこのお洋服が大好きなのよね。だって出会った時も同じ名前が入ったお洋服を着ていたもの」


マリーの言葉に、朝霧は少しばかり驚いたように目を瞬かせた。

栞の態度からロリータ服に興味がある少女だとは思っていたが、まさか自身がデザインしたドレスを持っているとは想像していなかったのだ。

マリーの視線の先には、撮影のためにいたるところに置かれた「Lénaëlle 」というブランドロゴの入った袋が置かれている。其処に入っている文字は確かに栞の服に縫い付けられていたタグに入っていたものと同じだった。


「それは、でも……」


朝霧の前で栞は言葉を詰まらせる。

そんなことは無い、マリーの見間違いだと否定しようとした言葉は喉の奥に引っ掛かり、声になる前に消えて行ってしまう。

嘘などつけるはずがない。自分の事が好きになれなくても、あの服は、あのロリータ服だけは自分が確かに心の底から大切にしていた一着だったからだ。

きっと彼女は先ほど自分が言った言葉を気にかけてくれているのだろう。少しでもマリーのように振舞えたら、確かにそう言ったのは自分だ。


(……駄目、無理よ)


撮影の時のマリーのようにロリータ服を身に纏いこの街を歩くことが出来たらどれだけ楽しい事だろう。好きな物を堂々と顔を上げて好きだと胸を張れたら、どれだけ誇らしいだろうか。

だが、栞にとってそれがどれだけ難しい事が自分が一番よく分かっている。

ロリータ服は凛と前を向ける女の子が着るべきものなのだ。それこそマリーのような女の子が。きっとロリータ服に一番ふさわしくないのは、栞自身に間違いない。


「私なんかが着たら、ドレスがかわいそうだわ」

「そんなことは無いわ、シオリはとても素敵な女の子だもの」


疑う余地もない、というようにマリーは白い傷一つない手で栞の手を握りしめた。


「私は絶対にシオリの事を否定したりしないわ。出会った時、あのドレスを着ていた貴方は本当に素敵だったもの」

「……でも」


栞はマリーの先にいる朝霧へと顔を向ける。先ほど朝霧から向けられた言葉が、まだ栞の中で抜けない棘のように刺さったままだ。

マリーの勝手な提案に朝霧はきっと気を悪くするに違いない。怯えたような栞の空気に気付いたのか、マリーは頬を膨らませ背後に佇む朝霧を睨みつけた。

先ほどまでの威厳は一体どこに行ってしまったのか。不満げに頬を膨らませた少女の視線に、朝霧は少しばかり気まずげに頭を掻くと栞に向かって小さく頭を下げた。


「……ごめんね、さっきはあくまで撮影の時の話だよ。普段着てもらうための服は当然着てくれる人に楽しんでもらうために作ってる」


君が買ってくれた服も、勿論その一つだよと朝霧は栞にむかって静かに微笑んだ。


「女の子を泣かせてしまったのだから、当然貸してくださるわよね」


嫌とは言わせないと迫るマリーの気迫に、朝霧は降参とばかりの手を上げ頷いた。


「力になれるのなら、勿論喜んで」

「ほら、シオリ。此処にはあなたが好きなものを笑う人なんて一人もいないのよ。だから少しだけ勇気をだして」


それに、とマリーは栞の手を取るとそっと耳元で囁いた。


「私のお誘いを断るなんて、本当はとっても勿体ないことなのよ」


マリーの言葉に栞は思わず目を瞬かせた。

確かにここがもし彼女が生きた時代のフランスであれば、マリーの誘いを断る人間など誰一人としていないだろう。フランス王妃として貴婦人の頂点に君臨していた彼女に声を掛けられるものは誰一人としていなかった。

どれだけ高貴な女性も、マリーが声を掛けて初めて言葉を返すことが許されたのだ。

あの時代、マリーからの寵愛を求めて多くの貴族たちが奔走した。

それを考えれば、フランス王妃から声を掛けられただけでなく、誘われることは時代が時代であれば間違いなくこの上ない名誉に違いない。


「……でも」


マリーの手を握り貸せば、もしかしたら今までとは少しだけでも違う世界が見えるのではないか。そんな小さな期待の光が、栞の胸の中に小さく灯る。

彼女との出会いが、私の事を何か変えてくれるのではないかと僅かな期待が胸を過る。

だがそれでも、「もし誰かに見られて笑われてしまったら」という恐怖が栞の足を竦めてしまう。


「……良かったら僕から一つ提案があるんだけれど」


マリーと栞の間に落ちてしまった沈黙を破ったのは朝霧の声だった。


「もし君が今のままの自分を好きになる事が出来ないなら、少しばかり手伝いをしてあげようか」


近くに控えていたスタイリストたちに目配せをし、朝霧は悪戯めいた笑みを浮かべ栞に向かって片目をつぶって見せた。


「お忍びで出かけるなら、仮面は必要だろう」




◆◆◆




「……これ、私?」


鏡に映ったその姿に栞は思わず息をのんだ。鏡の中にいる少女の姿が自分のものだと到底信じる事ができなかったのだ。

今まで顔を隠すように中途半端な長さに伸びてしまっていた髪は丁寧に整えられ、白いヘッドドレスの飾りが黒髪の上でまるで夜空の星のように煌めいている。

先ほどまで泣いていたせいで、すっかり赤くはれてしまっていた眼も丁寧に化粧を施されすっかり別人のようになってしまっていた。

確かめるように両手を機械のように動かし、鏡の中の少女も同じ動きをしたことでようやく此処にいるのが「楡井栞」なのだと実感する。


「これはまだ撮影でも外に出してないドレスなの。朝霧さん、服の事になると厳しいけど普段は優しい人だから」


嫌いにならないであげてね、と最後の仕上げに口紅を塗ってくれた女性が優しく微笑んだ。

朝霧の指示に従い、本来の仕事を終えた撮影スタッフ達が全力で栞のことをスタイルセットしてくれたのだ。

さあできた、という女性の言葉に背中を押され栞は石畳へと一歩足を踏み出した。

足音に気付き振り返ったマリーは、青空のような瞳に栞の姿を映すと花のような笑みを浮かべて見せる。

ドレスを纏ったマリーはまるで其処がまるでベルサイユ宮殿の広間であるかのように恭しくお辞儀をすると、栞へと手を差し伸べた。


「さあ、行きましょう」


栞は伸ばされた手を眺め、僅かに迷いを見せた後そっとその手を握り返した。

決して不安が無いわけではない。少しでもあの時の事を思い出せばきっと身体は恐怖で震えはじめてしまうだろう。

だがそれでも、今は伸ばされたその手を信じてみようと思えたのだ。




◆◆◆




「あら、朝霧さん。ついていくんですか?」

「うん、まあ。世間知らずなお姫様たちが無茶しないようにお目付け役が必要だろ?」



そう言うと、朝霧は残されたスタッフ達に緩く片手を上げると遠ざかっていく二つの背中を追いかけた。




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