第6話
「マリー……」
「シオリ、突然いなくなるから心配していたのよ!良かった、もう迷子にならないでね」
先程の威厳は何処にいってしまったというのか。撮影用を終えたマリーは幼い少女のように顔を綻ばせ栞の手を取った。おそらく純粋な彼女は自分が栞に置いていかれたことにすら気付いていないのだろう。
「ねえ、マリー」
「どうしたの、シオリ」
「私、マリーに昨日言ったよね。この世界はマリーのいた世界じゃなくて、王妃マリー・アントワネットなんて存在していないって」
「ええ、確かに言っていたわね」
思い出すように頷くマリーに、栞は問いかける。
「なら、どうしてそんなに強くいられるの?だって此処にはあなたを知ってる人は誰もいないんだよ」
彼女にとって、今いるこの世界は自分の住んでいた世界とは全く違う、それこそ名の通り「異世界」のはずだ。だが、孤独であるはずのこの場所で彼女は歴史の通り大輪の花ように咲き誇ってみせた。
「……誰も知らない場所に来たいと願ったのは私だもの」
聞こえない程小さな声で呟かれた言葉の後に、マリーは微笑みながら自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「それに、例えこの世界が私の知らない世界だったとしても、私が私であることは変わらないもの」
例え世界が変わったとしても、自分を偽る必要はないのだと少女は微笑んだ。その目の奥に宿る悲し気な色に、栞はそっと目を伏せる。
もう疑う必要ない。
この少女は栞の知る、過去に断頭台に散った悲劇の王妃「マリー・アントワネット」なのだ。
◇◇◇
「シオリ、シオリどうしたの?泣かないで」
マリーにそう声を掛けられて、栞は初めて自分が泣いていることに気が付いた。
泣くつもりなど無かったのに、目から零れる涙は止まる事が無い。
(……神様は意地悪だ)
何故今、よりによって全てを捨てる事を決意した自分の前に彼女を呼んだというのだろう。もしこれを運命の悪戯というのであれば、余程神様というのは趣味が悪いに違いない。
だって、これではあまりに自分が惨めではないか。
栞は頬を零れ落ちる涙を乱暴に袖で拭いあげた。憧れというのはあくまで遠い存在であるから憧れで居られるのだ。
本来生きるはずではない見知らぬ世界へ一人放り出されてなお、「自分」という存在を信じ前を向けるマリーと、何処にも居場所がなく自分が好きなものにさえ胸を張って好きとすらいえない私。
マリーの隣に立つと、自分という存在が彼女に憧れる事すら烏滸がましいと思えるほどに小さく卑屈なものに思えてしまう。
涙で滲んだ視界にぼんやりと朝霧の背中が映る。先程自分に向けられた朝霧の視線を思い出し、栞はそっと唇を噛みしめた。
(あの人は、気付いていたんだ)
栞という人間が自分自身を好きではないことに、きっと彼は気付いていた。
ロリータ服は自分が好きなものを好きだと言える、そんな素敵な女の子たちの為のお洋服だ。それこそ、マリーのように生きる事のできる女の子のためのもの。
そのロリータ服を生み出すデザイナーだからこそ、彼はモデルとして自分があの服に相応しくないといったのだ。
『理由はわかるだろう?』
問いかけられたその答えは栞自身が一番分かっている。自分自身を認め好きでいる事が出来ない人間に、誰かに夢や希望を与える役割を担えるわけがない。
それが自分の作った大切な服であれば猶更だ。
「少しだけでも、マリーみたいになれたら良かったのに」
栞は涙でぐしゃぐしゃになった顔でマリーに向かえって笑って見せる。
ほんの十分の一、いや百分の一でも彼女のように自分を貫き通すことが出来たなら。本当に少しだけでも自分を信じる事が出来ていたら何かが変わっていたのだろうか。
その言葉を最後に俯いてしまった栞に、マリーはただ寄り添うことしかできなかった。
◇◇◇
(困ったわ、こういう時どうしたら良いのかしら)
かつてまだ自分が王妃であったころ、マリーは今の栞のように涙を流す婦人たちを両の指では到底たりない程目にしてきた。
最も共に過ごした時間の長いポリニャック夫人を筆頭に、数えきれない程の貴婦人たちがマリーを頼った。
彼女達の悩みと言えばその大抵が財産の事、対立する貴族の事、夫の地位と今にして思えばあまりにも身勝手なことばかりだった。
それでも狼狽し涙を浮かべる婦人がマリーの元を訪れる度、マリーは彼女達に手を差し伸べ続けた。彼女達の夫や家族に臨まれた地位を与え、報酬を与え「これで大丈夫ね」と微笑みを返す。
そうすれば、涙目でマリーを縋った彼女達は誰もが「ありがとうございます、王妃様」と穏やかに笑みを返してくれたのだ。
心の隅に浮かぶ僅かな後ろめたさも、その笑顔を見れば消えてしまうような気がしていた。
(あの時は、彼女達をお友達だと思っていたけれど)
困っている友人達を救えていると思っていたのだが、彼女達が見ていたのはマリー自身ではなく王妃という存在が持つ権力と財力だけだったのだ。
事実、あれだけマリーを頼り縋ってきた彼女達は革命が始まるや否や誰もが我先にと宮殿から逃げ出した。
待って、一人にしないでと声なき声で訴えても、何もかも失った王妃という肩書だけが残ったマリーを振り返る者などいなかった。
(あの時は、誰か一人でも私の元に戻って来てくれるのではないかと思っていたけれど)
結局、彼女達が友人などではなかったと思い知ったのは家族と共に薄暗いダンプル塔に閉じ込められてからのことだった。
(今の私は何も持っていない。宝石もドレスも)
かつては掃いて捨てる程あった何もかもを、今のマリーは持っていない。
(今の私は只のマリーだもの……ね)
かつて自分が一国の王妃であったことを知っている人間はこの世界の何処にもいない。
マリーは身に纏う華やかなドレスへと視線を落とす。かつて自分が纏っていた宮廷衣装にどこか似たこの「ロリータ服」というドレスも自分で仕立てたものではない。先ほど食べたクレープという甘い菓子ですら、何も持っていない自分のために栞が買ってくれたものだった。
王妃であった頃は何もかも自由にできたというのに、今のマリーでは何かを与える事で栞を励ますことは出来ない。
(……何も持っていない、今の私にできる事)
せめて何かないものかと、ぐるりと辺りを見回したマリーの目に、撮影現場に掛けられたもう一着の白いドレスに目がとまる。丁寧にしまわれるそのドレスを前にマリーは慌てて仕事を続ける女性の元へと駆け寄った。
「ねえ、貴女。そのドレスを私に貸して下さらない?」
突然の提案に、撤収準備を進めていた撮影スタッフの女性は思わず手を止めぽかんと口を開いてしまう。
突然現れて撮影の窮地を救ってくれた少女ではあるが、流石にドレスを勝手に貸すわけにはいかない。さて、どうしたものかと困ったように視線を彷徨わせ、近くの椅子に腰を下ろす男へ助けを求めるように声をかけた。
「朝霧さん、どうします?」
その声に、液晶端末に視線を向けていた男が顔を上げる。
「……うーん、貸しても良いけど。それもまだ出回っていないドレスだからなぁ。理由次第かな」
どうして?と朝霧は猫のような笑みを浮かべマリーへと問いかける。
「栞と一緒にこの服を着て、街に遊びに行きたいのよ」
想定外の答えに朝霧は思わず目を見開いたまま固まってしまう。
だが誰よりも驚いたのは、一体何が始まるのかと赤くなってしまった目を擦りながらマリーの背中を見送っていた栞だった。
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