第5話


「どうしてあのドレスを着ないの?」


この世界が自由だというのなら、何故栞はあのドレスを着ないのか。マリーの純粋な問いは栞の胸に棘のようにささったままだ。

マリーは今もあの店も前で、自分が戻ってくるのを待っているだろうか。

だが、栞があそこに戻ることは無い。

罪悪感が胸を過るが、自分には関係のないことだ。むしろ此処まで良く世話を焼いてあげたと褒められても良い位だ。


(……あんな子がマリー・アントワネットなわけ、ないじゃない)


だが、何故か昨日から時折彼女が見せるどこか物憂げな表情と、この世界が彼女の知らない異世界だと思い込んでからの希望に満ちた表情が栞の中に影を落とす。

まさか、もしかして本当に?

そんな疑心が僅かに首を持ち上げるが、栞は「もう二度と会う事が無い相手なのだ」と首を振った。

マリーを置いてきた今、早くこの街から離れなければいけないのに何故か足が鉛のように重く中々先へと動かない。駅にも行けず、彷徨い歩く間に栞はどうやら大通りから一歩奥に入った裏路地に迷い込んでしまっていたらしい。

大通りの喧騒は聞こえるものの、人気の少ないその場所はまるで別世界の様で栞はそっと息をのんだ。


(こんな場所あったんだ……)


何度もこの街には来ているはずなのに、気が付かなかった。此処にいれば、マリーに見つかることも無いだろう。

暫く此処で時間を潰し、夕方になった頃に家に帰れば良い。そんなことを考えながら、石畳の小道を歩き始めた瞬間だった。


「嘘でしょ、間に合わないって!」

「もう撮影始まるのよ。今から代役なんて見つけられないわ」


先ほどまでの穏やかな空気を裂くように、緊張感のある声が響き渡る。どうやら此処からは見えないが、少し先の広場からその声は聞こえてくるようだ。

一体何が起きているのかと、石畳を足早に歩き広場をそっと覗き込む。


「……っ」


思わず漏れかけた悲鳴を飲み込み、栞はその場へと蹲る。覗き込んだ其処に置かれていたのは、間違いなくロリータ服だった。しかも、その服は栞が初めて買ったあのブランド、Lénaëlleのものなのだ。


(……なんで、どうして?)


ひゅ、と息を飲む栞の耳に先ほどと同じ慌てたような女性の声が響く。

断片的な言葉しか聞こえてこないが、どうやら広場に集う人々を見る限りここではこれから何かの撮影が行われる予定だったのだろう。

カメラマンらしき男性や、メイクをする女性たちは既に準備が整っているというのに、置かれたドレスを着るべきモデルがまだ到着していないのだ。

女性からは、まだ焦りを滲ませる声が響くが埒が明かないと悟ったのか、盛大な溜め息と共に電話がきれた。


(私には関係ない、早く……)


早く此処から去らなければ、そう焦ったことが災いしたのだろう。

慣れない石畳に足を取られ、栞はその場で思わず身体をよろけさせてしまった。幸い転ぶことは無かったが、手に持っていた鞄から落ちた財布や携帯が地面に落ちる無様な音が響き渡る。

幾対もの視線が自分に注がれているのを感じながら、栞は必死に地面に散らばったものを掻き集めようと手を伸ばした。


「あ、ご……ごめんなさい」


急いで逃げようとする栞の肩を女性が掴む。


「ちょっと待って、貴女年齢は?身長……3サイズも問題なさそう」


まるで品定めでもするように無遠慮に身体に視線をむけられ、栞は思わず顔を伏せる。いくらこういった状況に慣れていない栞でも、女性が次に言う言葉は難なく想像がついてしまった。


「ねえ、貴女。一度だけで良いの、私達を助けると思ってこの服を着てくれないかしら」


ほらやっぱり、と栞は途方に暮れてしまう。

もしこれが同い年の女の子であれば、喜んでその服を着ていた事だろう。偶然とはいえ、服のモデルを頼まれることなど滅多にある機会ではない。

女性が栞の身体に合わせてきたのは、撮影用というだけあって栞が家に置いてきたロリータ服とは比べ物にならないほど豪奢なものだ。

母に隠れるようにして読んだロリータ雑誌の巻頭を飾るような、季節を代表する新作なのだろう。一度どれくらいの値段がするものなのかと調べ、到底手が出ない値段に言葉を失ったのを覚えている。

だが、目の前でふわりと揺れるドレスを前に、栞はせり上がってくる胃液を抑えるのに必死だった。 

そのドレスを心の底から綺麗だと思う自分がいる一方で、もしそのドレスを着た姿を誰かに見られてしまったらと想像し怯える自分がいるのだ。


「……無、り」

「申し訳ないけど、彼女には無理だよ」


藁をも縋るような女性の頼みを断るのは流石に気が引けるが、無理だと断ろうとした栞の言葉を遮る声が響く。顔を上げれば、女性の背後に佇む穏やかな表情を浮かべた男性と目が合った。

明るい癖のある髪を一つ結びにした男は、誰もが緊迫した空気を漂わせる中で、一人だけ飄々とした焦りすら感じさせない空気を纏っている。だが、僅かに細められたその目はまっすぐに栞を見詰めていた。


「でも朝霧さん、もう時間がないし……この子なら」

「うん、顔もサイズも問題ない。そこらのモデルよりスタイルも良いかもしれないけど。でもそういう問題じゃないんだ」


にこり、と朝霧と呼ばれた青年は穏やかな笑みのまま口を開く。


「君はロリータ服って知ってる?」


突然問われた言葉に、栞は無意識に頷いてしまう。


「そう、なら話は早いな。この服のテーマはね、王女の凱旋。それをテーマに俺がデザインしたんだ」


その言葉に、栞は驚いたように目を瞬かせた。 

そういえば、初めて男の顔を見た時に何処かで見たことがあったような気がしたのだが、今思い出した。

朝霧純。彼は確かこのブランド、Lénaëlleのドレスを担うデザイナーだったはずだ。

まだ年は若いものの、斬新なデザインをすることで有名で何度か雑誌のインタビューで取り上げられていたのを栞は目にしていた。 


「勿論誰でも自由に好きな服を着る権利はある。少なくとも俺も誰かに楽しんでもらうために服を作っている。でもそれを着て何かを表現するとなれば話は別だ」


理由はわかるだろう、と続けられた言葉に栞は静かに息をのむ。

何故突然現れた彼にここまで酷いことを言われなければいけないのかと腹立たしい気持ちもあるが、それ以上に朝霧が言葉の裏側に込めたもの分かってしまったからだ。


(……見抜かれた)


栞が自分に自信を持てていないことを、彼は一目会っただけで見抜いてしまったのだ。

くしゃりと顔を歪めその場を後にしようとした栞は、背後にいた誰かにぶつかってしまう。よろけた栞を掴んだのは、見覚えのある白い手だった。


「シオリ、どうしたの?何故そんなに泣きそうなの?」


聞き覚えのある声に顔を上げれば、栞の眼に飛び込んできたのはこの場にいるはずのない少女だった。

栞がいないことに気付き、クレープを持ったまま栞の姿を探して駆けまわっていたのだろう。


「マリー……」


何か言わなければ、そう思うのに栞の口から言葉が続くことは無かった。


「ねえ、何があったの?」


俯いたまま口を開くことが無い栞に痺れを切らし、マリーは目の前に立つ男へと問いかけた。



◆◆◆



「……まあ」


男から話の顛末を聞いたマリーは、栞の背を気遣う様に撫でると凛とした表情で朝霧を仰ぎ見る。


「それなら、そのドレス私が着るわ」

「……君が?」


突然少女から提案された言葉に、流石の朝霧も思わず眉をひそめた。

確かに目の前の少女の外見は悪くはない。髪は美しいプラチナブロンドだが、決して背が高いわけでもスタイルが際立って良いわけでもない。

クレープを手にしたまま、ワンピース姿で佇む姿は異国の少女であることを除けばいたって普通の女の子だ。

おそらく豪奢なドレスに着られてしまうのが関の山だろう、そう朝霧が首を振ろうとした瞬間だった。


「王女の凱旋がテーマなのでしょう、なら私なら誰よりもその服を着こなせるはずよ」


まるでこの世に自分が着こなせない服など存在しないとでもいうような、少女の目に宿った意思の強さに朝霧は息を飲む。そんな朝霧を試すように、マリーは不敵に微笑んで見せた。


「嘘だと思うなら、着せてごらんなさいな」


マリーの言葉に促されるように、次々に準備が進んでいく様子を栞はただ茫然と眺めることしかできなかった。

先程肩を並べて歩いていた時はまるで子供のようだったというのに、今のマリーはまるで本物の一国の王妃のようだ。

化粧を施される時も、髪を整えられる時も、ドレスを着せられる時ですら「誰かにそうされることが当たり前」のように振舞うのだ。

それでいて、その動き一つ一つが決して嫌味に感じられない。そうされることが当たり前であるように振舞うその動きは、あくまで優美で美しい。

全ての準備が整い、立ち上がったマリーを前にその場にいた誰もが言葉を失う事になった。カメラの前に、先ほどまでワンピース着てクレープを頬張っていた少女は其処にはもういなかった。


絹のような美しい髪が、幾重にも重ねられたレースが静かに揺れる。

だが目を奪われたのは前髪から覗くマリーの美しい瞳だ。宝石のような青い瞳には見る者から言葉を奪う程の強い力があった。

彼女が一歩歩くだけで膝をつきたくなるような威厳を、その場にいる誰もがまだ幼さを残す少女から感じていたのだ。

シャッターを切らなければいけないカメラマンだけでなく、朝霧までもが呆けたままになってしまっている。


「……いかがかしら?」


まるで謁見の間で臣下に問いかけるように、マリーは厳かに口を開いた。

空気を震わせるその凛とした言葉に栞は息を飲む。間違いなく此処は原宿にあるただの広場のはずなのに、まるで宮殿で王妃に声をかけらたような、そんな錯覚を覚えてしまったからだ。


(……王妃、マリー・アントワネット)


昨晩から何度か心を過った疑念が栞の中で確信へと変わった瞬間だった。


マリーの言葉にようやくその場の時が動きだす。

我に返った朝霧は、感嘆の溜息を漏らすと納得したように頷いた。


「失言を詫びるよ。さあ、撮影を始めよう」

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