第4話
翌日。
どんな悲劇が起きても、必ず夜が明けるように栞達にも朝が訪れた。
栞の携帯は必ず毎朝決まった時間になるようにセットされている。そう設定したのは自分なのだが、今日ばかりは朦朧とした意識で内心小さく悪態を吐いた。
(…夢、だったらよかったのに)
栞の一日は必ずこの言葉から始まる。
学校から逃げ帰ったあの日から、この部屋に逃げて閉じこもり続けた日々も全て夢だったら良かったのにと思いながら目を覚まし続けてきた。
だが、今日ばかりは「夢であれ」と思ったことは全く別の事だ。
疲れの抜けない身体を起こし見慣れた天井から押入れへと視線を移すと、僅かに開いた押入の隙間から見える美しいプラチナブロンドの髪が目に入った。その上、ご丁寧にすうすうと高貴さを感じさせるほど穏やかな寝息が聞こえてくる。
「あー……夢じゃなかった」
頬でも抓れば覚めてくれるかと思ったが、慣れないことをしたせいで体に残る疲れも「夢ではないのだ」ということに追い打ちをかけてきた。
だが、夢でなかった以上いつまでもベッドの中でぐずぐずはしていられない。栞は寝ぼけ眼のまま部屋をでると、家の中に母親の気配がないことを確認する。
今日は休日だが、平日休日問わず働き続ける母は殆ど家にいることがない。どうやら今日も早朝から仕事に出かけてしまっているようだ。
「……良かった」
普段であれば母親が必死に働き続ける横で、学校にすら通えていない自分に僅かな罪悪感を覚えてしまうのだが。今日だけは母の不在に安堵で胸をなでおろした。
昨晩眠る前に色々と考えたが、栞はマリーを街へと連れ出すことを決めていた。
どう考えても自分をマリー・アントワネットだと思い込んでいる身元不明の少女の世話など、荷が重すぎる。
街で一人彷徨っていれば、おそらく警察が保護ししかるべき対応をしてくれるはずだ。
「……大丈夫、ただ少し出かけるだけだもの」
だが、そのためには家を出て街に出なければならない。
今日はきっと大丈夫、普通の服を着て出かけるだけだから。
栞は自分に言い聞かせるように震える手をそっと握りしめた。
◆◆◆
「まあ、シオリ。こんなに裾が短い服なんてはしたないわ!」
「何言ってるの、この位普通……いや、この世界ではこれは普通なんだってば」
栞は自分の持っている中で、一番マリーに似合う服を着せたつもりだった。
栞の私服と言えばあのロリータ服が例外なだけで、その殆どが母親が選んだ黒やグレーの地味目な色ばかりのものだ。
その中でもマリーに着せたのは、栞の手持ちの中では珍しい薄紫の生地を使い、袖や裾にフリルが付いた可愛らしいものだったのだが。
どうやらマリーが気にしているのは服ではなく、服の丈のことのようだ。
(……ああ、そういえば)
栞はふと以前読んだ本の事を思い出す。
今と倫理観が異なる、マリー・アントワネットが実際生きた時代では女性にとって最大のタブーは足を見せることだったのだ。胸よりも足を見せる事を恥じらったというのだから、現代とは随分恥じらう場所が異なるものだと不思議に思ったのを覚えている。
とはいえ、それは本物のマリー・アントワネットの場合だ。
「随分徹底してるんだから」
マリーに聞こえない程度の小声で栞は小さく文句を言い、マリーへと向き直った。
「だから、この世界ではそれが普通なの。女の子だってパンツを履いていいし、スカートもその短さで良いの」
「……まあ」
驚いたようにマリーは目を瞬かせ、まだ恥ずかしさは残るものの「ここは違う世界なのよね」と何やら小声でつぶやき、ゆっくりと頷いた。
「でも、それなら栞はどうして昨日のドレスを着ないの?折角のお出かけなのでしょう?」
ぐ、とマリーの言葉に栞は言葉を詰まらせる。
「あ、あれはもういいの……ほら。朝ごはん食べたらさっさと出かけるよ」
「ふふ、楽しみだわ。お友達とこうして出かけるのは本当に久しぶりだから。ねえ、シオリ。朝ごはんはクロワッサンとカフェオレが良いと思うのだけど」
「残念だけど家には半額の食パンと牛乳しかないから、それで我慢して」
マリーは「食パン」は初めて食べるけれど楽しみだわ、とにこやかに呟いた。
◆◆◆
「まあ、まあ!」
今日何度目かになるマリーの歓声が響く。その隣で栞はぐったりと肩を落とし、ようやく街についたことに安堵の息を漏らした。
電車に乗って街へ出かけるだけのはずが、まさかこんなに疲れる事になるとは思わなかった。それもそのはずだ。
家を一歩出た瞬間から、マリーは見るもの全てに驚きと感嘆の声を漏らし、電信柱や自動販売機を指さしては「あれは何?これは何?」と子供の様な質問を栞にぶつけ続けた。
その上、電車に乗る瞬間など興奮が頂点に達してしまったのか「馬がいないのに動く馬車だなんて、本当にここは私の知らない世界なのね!」と声高に騒ぐものだから、栞は慌ててその口を手で押さえたほどだ。
兎にも角にも、なんとか無事に原宿の街に辿り着くころには昼前の時間になってしまっていた。
東京屈指の観光地でもある原宿の、その上休日となれば想定以上の人出になるのは当然のことだ。押しつぶされるような人の波にももまれながらも、マリーはきらきらと輝く目を栞へと向けた。
「パリもとても活気のある街だったけれど、此処はそれ以上ね。すごいわ!」
ぱたぱたと駆けていくマリーを栞は慌てて追いかけた。
出会った時の肖像画のように高く結い上げていた髪を解いているせいか、今の彼女は随分と幼く見える。動くたびにふわふわと揺れる美しいプラチナブロンドの髪を見失わないよう、栞は必死に追いかけた。
「待って、マリー!待ってったら」
ふと道の端で立ち止まるマリーに、今度は一体何に目を奪われているのだと栞は荒い息を吐きながら隣へと並ぶ。
「ねえ、シオリ。この通りの店は何を売っているの?」
「何って、この辺りは全部洋服よ。原宿の竹下通りっていったらそれしかないもの」
「……これが全部、ドレスの店なの」
マリーはぽかんと口を開け、通りに連なる店へと視線を移し目を瞬かせた。
竹下通りに連なるアパレルの店は栞にとっては決して珍しい光景ではないが、マリー・アントワネットだと自称する少女にとっては珍しい景色なのだろうか。
ぼんやりと通りを行きかう人々を見詰めるマリーの手を引き、栞はようやく自分がこの街にマリーを連れてきた理由を思い出した。
先ほどは咄嗟に彼女の背中を追いかけてしまったが、本当は彼女をこの街に置き去りにする予定だったのだ。
「ほら、マリー……そろそろお昼だからお腹空いたでしょう。あっちにクレープがあるからご馳走してあげる」
「え、ええ……」
買い物袋を手に下げた少女達の姿を見送りながら、マリーは栞の背中を追いかけた。
マリーは相当の甘党なのか、みるだけで胸焼けがするようクリームたっぷりのクレープを頬張りながら、まだ興味深げに通りを行きかう人々を眺め続けている。
「さっきから、何がそんなに面白いの?」
「まあ、シオリ。だってこの世界の人たちは皆とても自由だわ!シオリが教えてくれたけれど本当に女性はその……足を出しても誰も怒らないし」
この街に来るまで余程気にしていたのだろう。
マリーは恥ずかし気に足を動かして見せた。
「女性が男性と同じパンツを履いているし。この世界では堅苦しい決まりがないのね。素晴らしいわ!」
「……此処では当たり前のことだけど」
「なら、それなら何故シオリはあのドレスを着ないの?」
おそらく悪気はなかったのだろう。
だが、マリーの言葉は栞の心に棘のように深く突き刺ささる。
何故かと問われれば、それは栞自身の問題だ。
「……私、ちょっと手を洗ってくる」
「分かった、此処で待っているわね。行ってらっしゃい」
栞の事を疑う様子もなく、マリーは微笑んだまま手に持つクレープへともう一度口を運ぶ。
その姿を一度だけ振り返り、栞はマリーに気付かれないようそっと人ごみの中へと姿を消した。
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