第3話

マリーと名乗る少女を受け入れたことに栞が後悔するまで一時間とかからなかった。

自分の事をマリー・アントワネットだと思い込んでいる、少々痛々しいだけの少女だと思っていたのだが、その振る舞いは栞にとってあまりに規格外だったからだ。

本当にこの世界の事を何も知らない、数百年前の人間のように見るもの全てに驚いて見せるのだ。


「シオリ!この箱の中は一体どうなっているの?まるで氷室だわ!」

「冷蔵庫を勝手に開けないで!」


とりあえず夕食に買い置きの冷凍パスタを食べさせようとすれば、凍ったままのそれを口に運んでしまい「冷たい」と悲鳴を上げられてしまう。

慌てて電子レンジで温めれば、一体どういう仕組みになっているのかと、温めている途中にも関わらず何度も扉を開けようとするのを止める羽目になった。


「ねえ、シオリ!この石鹸まるで水のようだわ、それにすごく泡が出るの!」

「やだ、シャワーを振り回さないで……シャンプーはそんなに出さなくて良いから!」


一人では到底着脱不可能なデザインのドレスを、なんとか悪戦苦闘の末脱がせ浴室へマリーを放り入れれば今度は楽し気な声が響いてくる。慌てて何事かと扉を開ければ、あわや大惨事寸前の浴室が栞の眼に飛び込んできた。

まさかこの年になって、そう年齢が変わらない少女の髪を洗う事になるとは思わなかった。

テレビを前に、一体どうして箱の中に世界が映っているのかと首を傾げるマリーの髪を梳かす頃には栞は完全に満身創痍の状態になってしまっていた。

本当はあのロリータ服を塵袋に入れて捨てにいくつもりだったのだが、破天荒な行動ばかりとるマリーのせいで部屋の中で脱いだままの状態になってしまっている。


「本当にここは私のいた世界ではないのね……」


マリーはぽつりと声を漏らす。

ようやく夢ではない事を実感した、とでもいうようなその言葉に、既に疲れ切っている栞は眉を顰めることしか出来ない。栞がマリーに着せたのは、栞が中学の頃に着ていた体操服のジャージなのだが、どうやらそれすら彼女にとっては珍しいらしい。


「この世界では、女性がズボンをはいても良いのね」


ドライヤー音に、マリーが呟いた声はかき消されてしまい栞の耳には届かなかった。


「何か言った?」


一度ドライヤーを止め、声を掛けてきた栞に何でもないとマリーは慌てて首を横に振る。


「いいえ、勝手に温かい風が出て髪が乾くなんて便利ね」


氷を入れていないのに冷たいままの箱も、凍った食料を入れれば温かい料理に変えてしまう不思議な箱も、湯を沸かしていないのに温かいままの浴室も何もかもが初めて目にするものばかりだった。 

豪奢を尽くしたフランスが誇るかのベルサイユの宮殿ですら、ここまで便利なものは一度として見たことが無い。


「そうだ……寝る場所が無い」


困ったような栞の声にマリーはふと顔を上げる。

確かに今いる部屋には寝台とは呼べないような小さな寝床が一つあるだけだ。

その場所は部屋の主である栞の眠る場所なのだろう。其処を奪ってしまっては栞が眠る場所がなくなってしまう。


「どうしよう、母さんが帰ってくるから他の場所は貸せないし」

「シオリ、私あそこが良いわ」

「あそこって……押入れだよ」


マリーが指を挿した先にある場所に、栞は眉を顰めた。

元々和室だったこの部屋にある押入れには、昔使っていた布団が仕舞われているだけで、殆どものは入っていない。

実際栞が先日までロリータ服を隠していたのもこの押入れの奥なのだ。

仮に虚言だとしても王妃を語る少女が、押入れで眠るのはどうなのかと悩む栞を横目に、マリーは押入れの上段に身体を滑り込ませてしまう。


「私、小さい頃はお転婆だったのよ。庭にいくつも隠れ家を作っていたから懐かしいわ」

「貴方がそれで良いなら、別にいいけど」

「貴方だなんて。お友達だもの、名前で呼んで頂戴」

「……なんて呼べば良いの?」


相手が自分の事をマリー・アントワネットだと思っているならなんと呼ぶのが正解なのだろう。

王妃様、マリー・アントワネット様?


(……なんて、ばかみたい)


呆れたような笑いを浮かべかけた栞に、マリーは細い指を唇に運ぶと名案だとでも異様に微笑んだ。


「マリーで良いわ、ただのマリー」

「そう、じゃあただのマリー。マリーが良いならそこで眠って頂戴」


栞の嫌味を含んだ言葉に気付いていないのか、本当の秘密基地を貰った子供の様にはしゃぎながら、マリーは押入れへと細い体を押し込んだ。

そして思い出したように顔を出すと、ようや自分のベッドへ潜り込もうとする栞に声を掛ける。


「シオリ、ありがとう」

「別に……」


一晩だけのつもりだから、という真意は隠されたままの言葉にマリーはそっと顔を綻ばせ、ごろりと少しばかり埃臭い布団に身体を預けた。

どういう仕組みになっているのか分からないが、ランプが灯っているわけでもないのに部屋を照らしていた明りが消える。

いつまでも明るいこの世界では夜が無いのかもしれないと思っていたが、どうやら同じように夜の闇は訪れるらしい。

馴染みのある闇にマリーは静かに息を吐き胸の前で祈るように手を組んだ。


(……嗚呼、神様)


処刑台まであと僅かな距離しか残されていなかったあの時、マリーの意識は暗転した。

処刑を前に意識を失ってしまったのかと思ったが、目を覚ました先に居たのは涙を流し震える一人の少女だった。

驚きで目を見開く少女だったが、驚いたのはマリーも同じだった。

鏡に映った自分の姿は処刑を目前に控えたみすぼらしい女の姿ではなく、かつて王妃として誰もが羨望の眼差しを向けた頃の姿だったからだ。

最初は夢を見ているのかと思った。

だが、どうやらこの世界は夢ではなく、王妃マリー・アントワネットが存在しない世界のようだ。

そもそも文明が全く別物なのだ。栞が教えてくれた道具のどれもが、ベルサイユですら一度も見たことが無いほど便利なものばかりあった。


(……きっと神様があの時願いをかなえて下さったに違いないわ)


マリーは処刑台の前で、こう願ったのだ。


(誰も私の事を知らないどこか別の場所で、もう一度人生をやり直したい)


哀れな王妃の最後の願いを、神が聞き届けてくれたのだろう。

そう思えば、自分がいた場所とは異なる世界に飛ばされたことも、この世界で何の不自由なく言葉が話せることも納得が行くというものだ。

ならば、これは自分に与えられた最後の機会なのだ。


(私はこの世界で、新しい人生を始めるの)


この世界で新しい人生を始めるのだと、マリーは強く心に誓い瞼を閉じる。

久しぶりに感じる穏やかな眠気に、マリーはすぐに意識を手放した。



◆◆◆



すうすうと押入れから響いてきた寝息に耳を聳てながら、栞は一人溜息を吐く。

一体どうしてこんなことになってしまったのか分からない。

だが騒がしい一日は今日だけだ。

明日、マリーを街に連れ出して其処に置き去りにしてしまえば良い。

自分をマリー・アントワネットだと思い込み、何処からやってきたのかもわからない少女の面倒など荷が重すぎる。


そして家に戻ってきたら、今度こそあのロリータ服を捨てに行かなければ。



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