第2話
「……え?」
思わず栞は鏡の中に映るその姿に息を飲んだ。
先ほどまでそこに映っていたのは、確かにロリータ服を身に纏った暗い表情の自分自身だったはずだ。
だが、今鏡に映っているのは栞の姿ではなかった。
プラチナブロンドを結い上げた、蒼い瞳の少女がまるで窓の向こう側からこちらを覗き込むように栞の事をみつめていたのだ。
「……っ、何?」
まるで夢を見ているかのような光景に、栞は思わず目を瞬かせた。
だが、次の瞬間、突然目の前で弾けた閃光に栞は思わず目を閉じる。
既に窓の外は夜の闇が落ち始めていたというのに、太陽が落ちてきたような眩しさに目を開けていることが出来なかったのだ。
思わず部屋の中で尻餅をついてしまった栞の耳に、部屋の中から聞こえるはずのない少女の声が響く。
「……ねえ。貴方、大丈夫?」
まるで春風を思い出させるような、穏やかで優しい声。
その声に応えるように栞は閉じていた瞼をおずおずと開き、そのまま言葉を失った。
目の前に、先程鏡の向こう側にいた少女が佇んでいた。
髪を高く結い上げ、栞が身に纏うドレスより遥かに重厚感のある美しいドレスを身にまとった少女がこちらに向けて手を差し伸べていたのだ。
「え、あ……貴方、誰?」
ようやく動いた口から漏れた言葉は、あまりにも在り来たりなものだった。
鏡の中から少女が出てきたとでもいうのだろうか。
夢でも見ているのかと、栞は慌てて少女の背後にある鏡に視線を向けるが、鏡は何の変哲もない姿見として栞と見知らぬ謎の少女を無機質に映し出すだけだ。
だが、少女は栞から声をかけられたことに「心底驚いた」とでもいうように、何度かぱちぱちと目を瞬かせた後、微笑を浮かべこう名乗りを上げたのだ。
「本来なら私から声を掛けるべきなのだけど」
そう言うと、少女はわざとらしく小さな咳払いをすると、背筋をまっすぐに伸ばし口を開いた。
「私……私はフランス王妃、マリー・アントワネットです。ところで」
かつて栄華を誇ったフランスのロココの女王と同じ名を、あまり栞とさほど年齢の変わらない少女は当然であるかのように名乗って見せた。そして辺りをぐるりと見回すと、呆然としたまま床に座り込む栞に初めて違和感に気が付いたとでもいうようにこう問いかけた。
「ところで此処は一体何処かしら?」
◆◆◆
「……は?」
栞の口から漏れた声が聞こえていないのか、少女は物珍しそうにきょろきょろと辺りを見渡し、鏡に映る自身の姿に一瞬「信じられない」とでもいうかのように目を瞬かせた。
(今……この子、なんて言ったの?)
栞の聞き間違いでなければ、彼女は自ら「マリー・アントワネット」だと名乗りを上げたはずだ。
マリー・アントワネット。
その名前をこの世界で知らない人間の方がおそらく少ないだろう。
今から二百年以上前にオーストリアからフランスの王妃となるべき嫁ぎ、激動の歴史の中で断頭台の露と消えたフランス最後の王妃。
勿論歴史上類を見ない有名人ではあるが、栞は特にその女性に思い入れがあった。
ロココ文化の女王とも言われた彼女は、他者の追随を許さない優れた美的センスを持ち、規則だらけのベルサイユの中で大輪の花のように咲き続けた。
もちろんその先にあったものが、断頭台という悲劇の運命だったとしても最後の時まで己の意志をまげることなく散ったその姿に栞は憧れを覚えていたのだ。
何にも捕らわれず、自分が信じるものを心から愛し自由に生きることを誇るその姿はまさに「自分にとっての理想の姿」だったからだ。
だが、あくまでそれは本当のマリー・アントワネットの話だ。
少なくとも突然部屋に不法侵入してきたドレスを纏った怪しい少女のことではない。そもそも、こんなに日本語が流暢に話せるフランス王妃がいて堪るものか。
栞は少女の手を取ることなく、一人で立ち上がると突然部屋に現れた不審者の少女をじろりと睨みつけた。
「一体何処から入ってきたの」
「私にも分からないの、これは夢ではないのよね……?なら、此処はベルサイユではないのかしら?」
「冗談はやめてよ……そんなこと」
有り得ない、と栞は盛大に溜息を吐いて見せた。
これが夢で有って欲しいと思っているのはむしろこちらの方だ。そして、此処がベルサイユであるはずがない。
彼女が何を言っているかまるで理解が出来ないが、ここは西暦二千年を超えた日本の首都東京で、その上ベルサイユの宮殿とは雲泥の差の狭い借家の一室なのだ。
そんなこと一目見ればわかるではないか。
きっとこの少女は頭のねじが一つ二つ外れ、自分の事をかつてのフランス王妃だと思い込んでいる可笑しな少女に違いない。
どうしてそんな少女が突然部屋に現れたのかは分からないが、自分に出来る事は一つだけ。さっさと彼女を部屋から追い出すことだ。
だが、少女はまるで状況が理解できていないとでも言うように、どこか怯えた空気を滲ませながら興味深げに栞の部屋にきょろきょろと目を走らせている。
その上、何を思ったか机の上に置かれたままの携帯に手を伸ばしたので、栞は慌てて声を荒げた。
「ちょっと、触らないで。勝手に部屋に入ってきてそれは失礼だわ、早く出て行ってよ」
「失礼、珍しいものばかりだったから。お言葉通り失礼したいのだけど、馬車を呼んで下さるかしら?」
「は……馬車?馬車って冗談でしょ?」
文明が発達し自動車もエコロジーに電動化が進んでいる時代にまさか馬車とは。
だがマリーは冗談を言っているように見えず、至極真剣な眼差しを栞へと向けてくる。
本来この部屋の主は栞で、あくまで相手は招兼ねざる客人のはずなのにどうにも調子が狂ってしまう。
本来の栞は相手の目を見て話すことが何よりも苦手な、引っ込み思案な性格のはずなのだが。
「はあ……全くもう」
先ほど感傷に浸っていた気分は何処へいってしまったのか。
あと少しすれば栞の母親が仕事を終えて帰ってくる。それまでにこの意味不明な少女を家から追い出さなければいけない。
そう思い、栞は半ば無理やりマリーの手を掴んだ。
「……っ」
その瞬間、マリーの目にさっと恐怖の色が滲む。まるでつい先ほどまで命を脅かす程の恐怖に苛まれていたような、そんな絶望に近い色が彼女の眼を彩ったのだ。
「ご、ごめん」
とても演技とは思えないその様子に栞は慌てて手を離す。
そのまま気まずさからマリーの眼から視線を外し、彼女のドレスへと目を向けた。
(……このドレス)
自分の着ているロリータ服と比べても、あまりにも豪奢なそのドレスは栞の素人目から見てもとても値段が付けられないようなものであるのは一目瞭然だった。
「あの……」
先程に比べると何処か覇気のない声が栞の耳に届き、顔を上げれば少しばかり顔を青ざめたマリーと目が合った。
「あの、貴方は先ほど此処がベルサイユではないと言いましたね。ではここは一体何処なのでしょう……」
先ほどまでさっさと部屋から不審者を追い出してやろうと意気込んでいた栞だが、何かに怯え震える姿に栞の心は萎んでいってしまう。
この少女が本当に自分の事をマリー・アントワネットだと思い込んでいるならば……もし此処が本来の歴史でマリーが処刑され、その後の世界だと伝えたらどうなってしまうのだろう。
馬鹿らしい心配だ、と思うが栞の口から出たのは自分でも意外な言葉だった。
「ベルサイユなんて知らないわ。ここは東京だもの」
「……トーキョー?」
まさか日本の首都を知らないなんて事、この現代において本当にあるのだろうか。おそらく世界でも日本の首都東京は有名な地名の一つだろう。
だが、マリーはその名前に聞き覚えがないのか首を捻るだけだ。
「ベルサイユなんて知らない。マリー・アントワネットなんていう王妃も知らない」
当然全て一時凌ぎの嘘ではあるのだが。何を言っているのか分からないと困り果てたように首を傾げて見せれば、栞の言葉にマリーの白い頬が紅潮していく。
まるで先ほどまで彼女を襲っていた見えない恐怖が消えていくように、マリーの顔に生気が戻ってくる。
「本当に……?貴方は王妃マリー・アントワネットの事をご存じないのね?」
まるで知らない事を願うかのようなマリーの言葉に、栞は気圧されるように頷いた。
「ねえ、貴女!お名前は?」
「えっ、私?」
突然絹のような手で両手を包み込まれ、栞は声を驚きに声を漏らす。
「し、栞……楡井栞」
「シオリ、とても良い名前だわ!」
まるで冬が終わり、春がやってきたことを喜ぶような弾んだ声で、マリーはもう一度栞と名前を呟いた。そして栞の着る服に目を向け、もう一度弾んだ声を漏らす。
「貴方のドレス、とっても素敵だわ。この世界にもこんな素敵なドレスがあるのね」
「いや、この服は……」
もう捨てるつもりなのだ、という言葉を紡ぐ前にマリーは栞へと微笑みかけた。
「神様が私をこの世界に連れてきてくださったの」
罪なき私がもう一度人生を歩み直せる様に、と何処か芝居がかった台詞で両手を組むマリーを栞は呆然と見つめる事しか出来なかった。
「ねえ、シオリ。きっと私達がこうやって出会ったのも運命だと思うの」
「……え?」
果たして不法侵入の末の出会いを運命と呼んでよいのだろうか、という栞の問は口から漏れる事はなかった。
「こんなに素敵なドレスを着ている貴方となら、この世界できっとお友達になれるはずだわ」
まるでこれから新しい人生が始まるのだ、と言わんばかりの声を弾ませるマリーに栞は内心頭を抱えてしまう。つまり遠回しにマリーは自分に助けを求めているのだろう。
今栞がすべきことは、一刻でも早く彼女を部屋から追い出すことだ。
本来であれば確実なのは警察に連絡し彼女を引き取ってもらうのが一番なのだろう。
だが、もし家に警察がくれば近隣の住民が野次馬根性で何があったのかと顔を出すに違いない。噂好きの近隣住民の目に栞とマリーの姿が止まれば、明日には噂が付近一体に広がってしまうだろう。
もし噂が学校へと届けば平穏な学生生活など二度と送る事は適わなくなってしまう。
かといって、彼女を部屋から追い出したところで行く当てのない彼女は家の前で立ち尽くしてしまうはずだ。
もしその姿を厳格な母親に見つかり、その上「栞さんの友人です」など告げられれば、どうなるか分かったものではない。
「……はあ」
迂闊に名乗ってしまったことを悔いてももう遅い。もうすぐ母親が帰宅することを考えれば、無理に追い出すよりも気を許したふりをして、一晩部屋に匿った方が良い。明日の事は明日考えれば良いだろう。
「……分かったわよ」
渋々と頷く栞を前に、マリーは嬉しそうに顔を綻ばせた。
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