第1話

夕日が差し込む狭いアパートの一室に、小さくすすり泣く声が響く。

電気もつけず、徐々に部屋の中に伸びる夜の陰に紛れるように鏡の前に一人の少女が佇んでいた。

部屋の隅に置かれた姿見の前に立つ少女の服は、狭い賃貸アパートの一室には正直なところ、あまり似つかわしくない。

少女が着ているのは深紅の重厚感のある生地で仕立てられたいわゆるロリータ服というものだ。髪を飾る華やかなボンネットも、スカートの下に揺れる幾重にも布地を重ねたパニエも、四畳半程度の狭い和室に無理やりフローリング材を敷き洋室にした部屋ではどこか狭苦しそうに見えてしまう。

そして、何より違和感を覚えさせてしまうのはその服を纏う少女の顔が酷く寂しげに歪んでいたということだ。

少し動くだけで優雅に揺れるドレスの裾の美しさに反比例するように、少女の表情は瞬く間に歪み、思い出したように涙がまたぽろりと零れ落ちた。


「ごめんね……」


少女、楡井栞は白い手でそっとスカートの裾を握りしめ、呟いた。


「ごめんね、大切に着てあげられなくて」


栞は顔を上げると、姿見に映るドレスに向かって語り掛ける。

泣き続けたことで目は赤く腫れ、表情も酷く陰鬱だ。この美しいドレスを着るのには全く相応しくない自分の姿に、栞はそっと唇を噛みしめた。

せめて、この服を捨てる前の最後の一日くらいはこの服に相応しい堂々とした姿で居ようと思っていたのだが。どうやらその願いはかないそうにない。

このドレスに悪い所なんて一つもない、悪いのは私だけ。

何もかも私が悪かったんだ。栞は心の中で自分を責める事しか出来なかった。

もう随分と前の事になるというのに、今でも目を瞑れば、あの日の光景が瞼の裏に浮かび上がってきてしまう。

それはあの日、紫がまだ買ったばかりのこの服を着て初めて外に出かけた時の事だった。



◆◆◆



高校に入学して暫く経ったあの日、栞は買ったばかりのロリータ服を身に纏い、栞は街へと向かっていた。幼い頃から貰ったお年玉や決して多くない小遣いを貯め続け、ようやく念願のロリータ服を買う事が出来たのだ。

今までは足を運んでもただ眺めることしか出来なかったロリータ服を一着ずつ手に取り眺め続けるうちに、吸い込まれるような美しい深紅のドレスに目を奪われた。

店内に飾られた華やかな柄が施されたドレスや、鮮やかなパステルカラーの新作に比べると聊かシンプルに見えるドレスだったが、一目見た瞬間から栞の眼はそのドレスに釘付けになった。

穏やかな声で話しかけてくる店員に促され、試着室で初めて袖を通した時の感動は今でも色褪せていない。



栞がロリータ服に出会ったのは今からずっと前、まだ年齢が一桁の幼い少女だった頃だ。

今は記憶もおぼろげな父に手を引かれ出かけた先で、栞はロリータ服を身に纏う少女達に目を奪われた。休日の人で溢れる大通りの中で、彼女達はまるで絵画のように浮き上がって見えた。

休日で人の声が重なり合う喧騒が遠くに聞こえる程、栞はそのドレスから目を離すことが出来なかった。歩くたびに揺れるドレスの裾も、ふわりと膨らんだスカートもまるで本物のお姫様のようだったからだ。


「きれい」


栞の口から思わず感嘆の声が零れ落ちる。

その言葉に振り向いた少女たちは本当のお姫様のようににこりと栞へと微笑みかけた。


「わあ……」


その姿が本当に美しく気高いお姫様の様で、栞はつい先日読んだ本に登場した「マリー・アントワネット」を思い出してしまった。

美しいドレスを身に纏い、自由奔放に生きながら終わりの時まで凛とした気高い心を失わなかったフランスいう遠い国の最後の王妃様。

幼い栞はマリー・アントワネットの生き様に、そして彼女の時代の片鱗を受け継ぐロリータ服に憧れるようになるまでに時間はかからなかった。



◆◆◆



そして、それから数年後。

ついに念願のドレスを手にすることができた喜びで栞はすっかり舞い上がってしまっていたのだ。

勿論、家から出かける時は誰よりも「普通であること」を求める厳格な母親に見つからないよう何度何度も不在を確認した。

誰に迷惑をかけるつもりもなく、ただお気に入りのドレスで街を散策したかっただけだった

だが栞の耳に届いたのは、冷たいどこか嘲るような笑い声だった。


「あれ、楡井さんじゃない?」

「え、うそ……やだ、本当だ」


先ほどまで他人が話す声はただの喧騒にしか聞こえなかったはずなのに、不思議とその声だけはナイフように自分へと届いてしまった。

先程まで遊園地で配られる風船のように膨らんだ気持ちが、まるで針でさされたように空気が抜けていく感覚に栞は思わず肩を震わせた。

何も聞こえなかったふりをしてしまいたかった。

だが耳に届く聞き覚えのあるその声に、栞は反射的に顔を上げてしまった。

目に映ったのは、少し離れた場所に佇む二人の少女だ。

二人とも休日だというのに馴染みのある制服を身に纏い、学校に居る時と同じように長い黒髪をきっちりと一つに結んでいる。


まだ入学してから一月ほど、あまり人付き合いが得意ではなく部活にも入っていない栞は、クラスの人間の顔と名前がまだ一致していない。

というのも、母親の勧めの元本来自分の成績に不釣り合いな進学校に奇跡に近い偶然で合格してしまい、入学してから一月で既に栞はクラスの中でも落ちこぼれに近い成績になってしまっていた。

愛想が無く、会話もつまらない上に成績不振の落ちこぼれ。

そんな栞がクラスから浮いてしまうのにそう時間はかからなかった。勉強も人付き合いも何一つ満足できない栞に対し、クラスメイト達の態度も少しずつ冷たくなるのも仕方がないことだった。

そして、その同じクラスの人間が少し離れた場所で自分を嘲るような目で見つめていたのだ。

休日だというのに、彼女達は二人とも学校の制服を纏ったままだ。

別に校則で休日外出する際は私服が禁止されているわけではない。だが、彼女達は自主的に必ずそうしているのだ。

髪は黒髪、長さは肩口を超える場合は一つ結び。化粧は禁止、スカートの丈もしっかりと規則に定められた通りの姿で二人とも容姿は異なるはずなのに、まるで人形のように同じ顔に見えてしまう。

優秀な進学校の学生であることを誇る彼らからしてみれば、休日とはいえ本来の校則から著しく逸脱した格好をして歩いている自分が余程滑稽に見えたのだろう。

それもただ派手な格好をしているだけではない。クラスの落ちこぼれが、好奇の対象となるロリータ服を着て歩いていたのだから猶更だ。


「意外、学校ではあんなに暗いのに」

「絶対皆知らないじゃん、意外な一面ってやつ」


くすくすと笑う二つの声から逃げるように、栞は背を翻す。

遠ざかってもまるで貼りついたように聞こえてくる二つの声は消えることなく、人ごみに紛れるように響いたシャッター音に栞は気付くことが出来なかった。




翌日。

あれ程高熱が突然出てくれないかと願った日も他にないだろう。

もし風邪を引いて熱が出てくれれば堂々と学校を休めたのだが、どれだけ願っても健康な体は咳一つ出る気配も見せなかった。

何時まで経っても部屋から出てくる気配のない栞を、痺れを切らした母親は「早く学校へ行きなさい」と責め立てた。誰よりも厳しい母親が風邪程度で学校を休ませてくれるはずがない。当然、仮病などもってのほかだ。

仕方なく追い立てられるように学校へと向かった栞を待っていたのは、クラス中から向けられる好奇の視線だった。

栞が教室へ一歩入った瞬間、誰もが手にしていた携帯に向けていた視線を画面から栞へと移したのだ。

遠目からでも画面に映るその写真が何か、栞にはすぐわかってしまった。


(……あの、写真)


画面に映っていたのは、あの深紅のロリータ服を着た紫の姿だった。顔を青白くさせ、引き攣った表情をおさめたその写真を男女問わずクラスのほぼ全員が面白いものを見るように眺めていた。


「なあ、楡井。こういう服ってどこで売ってるんだよ」

「意外な趣味って誰でもあるよねぇ」

「私だったらあんな恰好絶対無理」


くすくすと、どこか馬鹿にするような笑いの波が徐々にクラス中へと広がっていく。笑いの中心に昨日聞いた、クラスメイトの少女の声があった。

間違いなく、彼女がクラスのグループラインにあの写真を投稿したのだろう。

ただ好きな服を着ただけで、劣等感を感じる必要なんてない。内心では分かっていても、顔を上げる事が出来ない。

向けられる好奇の視線と笑い声に栞の身体はがくがくと震え始める。

もうこれ以上、この場所にいることは出来なかった。


あの日、結局どうやって家まで帰ったのか、今はもうよく覚えていない。

転がるように家へたどり着き、仕事から帰ってきた母親が呼ぶ声を無視して栞は布団の中で目を瞑り続けた。

夜が明けても、昨晩聞いた笑い声が耳鳴りのように響き続け栞は布団から出る事すらできなくなった。母親の声に応えて学校に向かおうとしても、扉の前から足は動かずそのまま襲う腹痛に蹲ってしまう。

意識を失う様に倒れた自分に、流石の母親も違和感に気付いたのだろう。

開かずの扉と化してしまったドア越しに響く、母親の何処か諦めたように学校へ連絡をいれる声に栞は布団の中で蹲ることしか出来なかった。



◆◆◆



あれから栞は一度も学校へ行けていない。

所謂、不登校児という存在になってしまったのだ。


きっと彼らは責められれば何食わぬ顔でこういうに違いない。

他愛のない冗談だったのだ、と。栞の脳裏に澱のようにこびりついた笑い声はいまだ消えないままだというのに。

だが、栞が何より許せなかったのは自分自身だ。

幼かったあの日、自分が見たロリータ服の少女たちは本当のお姫様のように輝いて見えた。きっと彼女達も偏見の眼差しを向けられたことが一度もないはずがない。けれど、彼女達は本当に凛とした姿で、それこそ栞の憧れるマリー・アントワネットのようにその服を身にまとっていた。

栞自身、幼い頃憧れた彼女のように生きてみたかった。激動の時代の中で自由奔放に生き、どんな逆境に立たされても一度も膝を折る事が無かった彼女のように、胸を張って生きてみたかった。

だが現実の栞は正反対だ。

何をするにも自信がなく人の顔色を伺ってばかり。

憧れを重ねてようやく手に入れたあのロリータ服ですら、あの日から誰にも見つからないように押入れの奥へと仕舞ったままだった。


「……ごめんね」


栞はもう一度自分が着ているドレスへと語りかける。この服と出会った時は輝見て見えたドレスも、今はどこか色褪せたように感じてしまう。


(最後に、もう一度だけ着てみようと思ったけど)


鏡の中の自分は相変わらず陰鬱とした表情で、幼い頃憧れた姿とは雲泥の差だった。その姿を前に、栞は決心したように首を振り、そっと壁に掛けられている制服へと目を向けた。


(……これで最後。もうおしまい。だって仕方がない)


これ以上自分の中の憧れを汚してしまう前に、このドレスとお別れをしなければ。

好きな物を好きと胸を張って言う事も出来ない私が、この服を着る資格なんてきっとない。

校則通りに制服を着て、恰好だけは優等生のふりをして、聞こえてくる嘲笑に耳を塞げばきっと何もかも元通り。


これでこのドレスともお別れなのだと、そう思った瞬間だった。

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