第7話

 ヴィオレットは、夢を見ていた。自分はベッドに横になっていて、側で幼いアンネマリーがわんわんと泣いている。

 幼い頃、風邪を引いたときの記憶だった。熱に浮かされ記憶は曖昧だが、ずっと手を握ってくれて心強かった。


「…………」


 一瞬ピクッと目蓋を震わせてから、ヴィオレットはゆっくりと目蓋を開けた。その瞬間、視界に不安げなアンネマリーの顔が飛び込んでくる。少し目が赤く腫れていることから、泣いていたのだろうとわかった。


「ヴィオレット!」


 アンネマリーの声に答えようと口を動かすが、喉が渇いて上手く声がでない。そこに、エルガーが水を持ってくる。


「身体、起こしますよ」


 エルガーの手が背中に回ると、ヴィオレットは自分の無事を実感した。ヴィオレットはエルガーから受け取った水で喉を潤す。


「ヴィオレット、無事で良かった。大丈夫? 痛いところはない?」

「アンネマリー様、私は大丈夫です」

「良かった」


 アンネマリーはヴィオレットを強く抱き締める。ヴィオレットもまた、アンネマリーを強く抱き返した。


 少ししてアンネマリーが離れると、ヴィオレットはエルガーの視線に気が付いた。


「その……すみませんでした」

「構いません。目を覚ましたばかりで申し訳ないのですが、確認を取らせてください。貴方を襲ったのはブレン・フューラーで間違いありませんね?」


 エルガーの仕事を増やしてしまったことで失望されていないかと不安になっていたが、いつも通りの彼でヴィオレットはホッとする。しかしアンネマリーはその態度に怒りを露わにする。


「エルガー! 先にヴィオレットに掛ける言葉があるでしょう!」

「アスター、貴方が無事で良かった。それで、ブレン・フューラーで間違いありませんね?」

「はい」

「わかりました。また体力が戻り次第、調書を作成します。暫く休んでいてください」

「……はい」


 仕事に戻るとエルガーが退室してからも、アンネマリーは怒っていた。


「エルガーったら、信じられないわ。ああ、ヴィオレット……貴方が無事で本当に良かった」

「デュッケさんとエルガーさんのお陰です」

「ヴィオレットもよく頑張ったわ。あんな怖い目に遭っても、お父様が死なずに済む方法を探してくれた」


 そう言ってアンネマリーはヴィオレットの手を握る。その瞬間、ヴィオレットは違和感を覚えた。


「……アンネマリー様の手、冷たいですね」

「あっ。ごめんなさい」

「いいえ。さっきまで握って頂いていたような気がしたのですが、夢だったみたいです」

「もう少し、握っていても良いかしら?」

「はい、アンネマリー様」


 それから、アンネマリーは使用人に呼ばれるまでヴィオレットの側を離れなかった。あの日、風邪引きのヴィオレットの側で泣いていたときもそうだった。ただ昔と違って、帰りたくないと駄々をこねることはなくなった。今の彼女は、王女としての立ち居振る舞いを覚えている。とても素敵な王女になった。

 ヴィオレットは笑顔でアンネマリーを見送ると、改めて今回の事件を思い返す。彼女の笑顔が再び失われる様な事態にならなくて良かった。そして、これからも彼女の笑顔を守りたいと思った。



 *  *



 あれから数日が経ち、調書を取るために王城に滞在していたデュッケも帰ることになった。今回の功績で再び王城に勤めることとなったらしい。その為に、一度フューラー邸に荷物を取りに帰るという。

 ヴィオレットとエルガーは、そんな彼女の見送りに王城を出ていた。


「デュッケさん、本当にありがとうございました」

「私、何もわからなかったです。でも、きっとシュヴァルツ様に見せた方が良いんだなって思いました! アスターさんのお父さんに、話した内容も言った方が良いと言われたので全部言いました!」


 話によると、デュッケの話でマンドレイクを知ったエルガーは、すぐに陛下に毒を盛ったらしい。ヴィオレットはてっきりアンネマリーには事前に話を通したのかと思っていたが、そんなことはなく、アンネマリーは当時倒れた陛下を見て本当にショックを受けたという。ブレンを欺くために毒の特性を明かさなかったと言うが、その場で兵士に取り押さえられたというのはかなり無茶をしたものだと思う。

 そんなエルガーもようやく事後処理が落ち着き、デュッケに対して、素直に感謝の意を述べた。


「貴方のお陰で助かりました。貴方をフューラー邸に送り込んでいて良かったです」

「そこまで考えていたんですか!?」

「まさか。もしもの時に役に立つと思っただけです」

「アスターさん、やっぱりこの人ろくでなしだと思います!」

「そんなことはありませんし、また王城で働くことになったのですから言葉遣いには気をつけないと駄目ですよ」


 ヴィオレットにたしなめられたデュッケは頬を膨らませる。そしてその表情のまま、バッグの中から一枚の紙を取り出した。それは、あの時書いた誓約書だった。


「アスターさん! この誓約書ってまだ効果ありますか? この高いお花だけでも別けてください! 頑張った私にご褒美が無いのはおかしいと思います!」

「貴方は何を言っているのですか? 王城勤めに戻ることが褒美でしょう。それに、あの極限状態で書いた誓約書に効力を持たせるというのは……」

「私はアスターさんに聞いてるんです!」

「構いませんよ。デュッケさんは命の恩人ですから」

「やったー! 私、アスターさんのお家に行ってきます!」


 瞬く間に上機嫌になったデュッケはフューラー邸へ向かうはずだった馬車の行き先を変更して貰う。御者は戸惑ったが、ヴィオレットの後押しでアスター邸の方へと走り出した。


「……良かったのですか?」

「はい」

「そうですか。これからは、あまり彼女を甘やかさないようにしてくださいね」

「気をつけます」


 馬車が完全に見えなくなってから、二人は王城へと戻る。

 雪を踏みしめて歩きながら、ヴィオレットはエルガーに今回のことを感謝した。


「貴方が機転の利く人で助かりました」

「いえ、要領の悪い部下で申し訳ありません……」

「貴方ほどの人はいません。貴方は替えが効かない。だから、もう少し自分を大切にしてください」

「……はい」


 ヴィオレットはこれからもエルガーの側にいられることがわかって嬉しくなった。今までと同じように、これからも日々を過ごせるのだ。




 夜、資料室で書類を整理していたヴィオレットが帰りを考え始めた頃にデュッケは王城に戻ってきた。

 彼女は資料室に、薔薇の花束を持ってやってきた。


「アスターさん、お待たせしました! これ、どうぞ!」


 彼女は笑顔で花束を差し出す。ヴィオレットはその薔薇に見覚えがあった。自分が育てていたものだ。


「デュッケさん?」

「私、シュヴァルツ様に薔薇を贈るの忘れてたので、どうせならアスターさんから渡してください! 贈るなら多い方が良いと思ったので、アスターさんのお屋敷の人に手伝って貰いました!」


 デュッケの言葉にヴィオレットはカァッと熱くなる。彼女の口ぶりからすると、屋敷の誰かに、薔薇の贈り物をするからと言ってブーケにして貰ったのだろう。薔薇の本数が十二本であることを考えると、エルガーに渡すということまで伝わっているかもしれない。

 十二本の薔薇は、思いを伝えるときに贈るものだ。


「ど、どうしてこの本数なんですか?」

「あ、やっぱりもっと大きい方が良かったですよね? でもお屋敷の人が、思いを伝えるときには、この大きさが良いんですって言ってたので」


 やはり、屋敷の人間はわかってやっている。急に帰りたくなくなったヴィオレットは、とりあえずデュッケから薔薇の花束を受け取った。


「ありがとうございます、デュッケさん。また今度、彼に渡したいと思います」

「そうしてください! 呼んでおきましたから!」

「…………へ?」


 気持ちを整理する間もなく、扉がノックされる。


「シュヴァルツです」

「あ、どうぞ!」


 デュッケの返事を聞いて、エルガーが扉を開けて入ってくる。満足げなデュッケは、「シュヴァルツ様、アスターさんのお話ちゃんと聞いてくださいね」と言い残して部屋を後にした。

 部屋にエルガーと二人っきりにされたヴィオレットは戸惑い視線を泳がせる。


「どうしました?」

「す、すみません。あのとき誓約書に、この薔薇のことも書いていたのです」

「なるほど。人から受け取った財産で当人に贈り物をするとは……」

「ち、違います。私、薔薇は、贈って欲しいとお願いしていたのです!」


 ヴィオレットは、全身の熱を顔に集める。黒髪の隙間から、薔薇のように赤く色づいた耳が覗いた。


「その……貴方に」


 渾身の告白だった。


 しかし、エルガーはヴィオレットを見つめたまま何も言わない。ヴィオレットは慌てて理由を取り繕う。


「あの、今までお世話になってきたので最期くらいと思って……」

「生きているではありませんか」

「……はい」


 もう何も言うまいと、ヴィオレットは俯いて唇を噛みしめた。その様子を見て、エルガーは溜め息を吐いた。


「受け取らないとは言っていません。差し出されていないものを手から奪い取るのは違うでしょう?」

「あっ。す、すみません」


 ヴィオレットは慌てて花束を差し出す。するとエルガーは、あっさりと受け取った。


「ありがとうございます」

「あ、あの……これからもお側に置いてください」

「ええ。これからも貴方の力を貸してください。貴方の様に優秀な部下を持てて「な、まえ」――えっ?」


 ヴィオレットはエルガーの言葉を遮る。募らせていた思いが、溢れてくる。部下で構わない。ただ、そのままの関係で良いから、せめて昔のように名前を呼んで欲しかった。


「名前で、呼んで欲しいです……昔みたいに」

「ヴィオレット」

「はい……」


 名前で呼ばれるのは久しぶりのことだった。好きな人に名前を呼んで貰うだけで、こんなにも胸がいっぱいになってしまう。そして、じわりと涙が込み上げてくる。


「貴方は昔の思い出に浸っているようですね。あんな写真まで身につけて」

「あんな写真? ……あっ」


 ヴィオレットは、目覚めた後にエルガーの写真がバッグの中に戻っていたことを思い出す。あの写真は下着に挟んでいた筈だ。無くしていなかったことに安堵したが、バッグの中にあったということは、誰かがいれてくれたということだ。そのことを失念していた。


「あ、あのっ……」

「ヴィオレット、今の私は貴方の目にどう映っているのですか?」

「……王家を支える、素晴らしい宮中伯だと思います」

「優秀な部下を持ったからです。これからも私についてきてくれますか?」

「はい」

「ありがとう」


 エルガーはこれからもよろしくと言うかのように手を差し出し、握手を求めた。ヴィオレットはその手を握り返して気が付く。この温かさを知っている。


「あっ……」

「どうかしましたか?」

「私、目覚める前に誰かに手を握って貰っていた気がしたのです……」

「そうですか」

「シュヴァルツ様、ですか?」

「……申し訳ありません。女性の手に妄りに触れるべきではありませんでしたね」

「いいえ。シュヴァルツ様の手、温かくて安心しました。ありがとうございました」


 ヴィオレットはそう言って、愛おしそうに両手でエルガーの手を包み込む。そして、少しだけ力を込めると声を振り絞った。


「……シュヴァルツ様、私、貴方をお慕いしています」

「…………」


 エルガーは何も言わず、ヴィオレットに握られた手を引いた。呆気なく振り切られた手を下ろせもしないまま、ヴィオレットはジッと自分の手を見つめる。


 そんな彼女の目の前に、薔薇の花。エルガーが受け取った花束から一輪引き抜いて差し出したのだ。ヴィオレットは弾かれた様に顔を上げる。これは、プロポーズに男性から薔薇の花束を受け取った女性がする行動だ。その行動の意味は――貴方の思いを受け入れます。


「あっ……」


 予想だにしなかったエルガーの行動に、ヴィオレットは真っ赤な顔で口をぱくぱくとさせる。


「……これは逆だと、どうなるのですか?」

「わ、わかりません……」

「貴方はどうなりたいのですか?」

「…………」


 しばらく考えたエルガーは、自分の素直な気持ちを言葉にする。


「すみません。これ以上、どうしたら良いのかわかりません。この様な感情を持っていれば、いずれ仕事に支障をきたすと思っていました。今回の件も、私のせいで貴方が巻き込まれた」

「…………」

「私のせいです」

「……貴方は、本当はどうしたいのですか?」

「名前を、昔の様に――」

「エルガーさん……」


 ヴィオレットはエルガーの名前を呼んで、その後に続ける。


「エルガーさん、貴方が好きです。この思いは変わりません。ずっと貴方が好きでした」


 真っ直ぐな思いを向けられて言葉に詰まったエルガーは、言葉で伝える代わりにヴィオレットを抱き締める。彼女が持っていた薔薇の花弁が散ろうと構わなかった。


「エルガーさん……」


 エルガーは、ヴィオレットが腕の中で微笑むのがわかった。その瞬間、彼女の気持ちが身体の中に雪崩込んで来て、自分の中にあった気持ちを唇まで押し上げる。


「私も、貴方を愛しています」


 小さな声だった。それでも、ヴィオレットには届いていた。


「ヴィオレット」


 エルガーが名前を呼べば、ヴィオレットは潤んだ瞳で見つめ返す。彼女は薔薇を持つ手でエルガーのシャツを掴んで背伸びをした。近付いてくる彼女に吸い寄せられ、エルガーも唇を近付けた。

 その時、扉の方から声が上がった。


『ひ、姫様、今はダメです!』

『どうして? わたくし、ヴィオレットに用事があるのだけれど……』


 扉の向こうからデュッケとアンネマリーの声が聞こえて、抱き合っていた二人は慌てて離れる。

 そして、ヴィオレットはノックされる前に扉を開けた。


「あっ、アスターさん……」

「何をなさっているのですか? アンネマリー様、デュッケさんまで」

「私、ヴィオレットに用があって探してたの。そしたらデュッケさんが扉の前にいて……」


 ヴィオレットはデュッケを見る。その目は冷たい。デュッケは視線から逃げる様に、アンネマリーの背中に隠れた。


「ヴィオレット、もう身体は大丈夫?」

「はい」

「良かった。あら? それ、お見舞いの花? 綺麗ね」


 部屋の奥に薔薇の花束を見つけたアンネマリーは中に入る。すると黙っていたエルガーが口を開いた。


「アンネマリー様、これは私が貰った物です」

「きゃっ――エルガー、いたのね」


 エルガーの存在に気付いていなかったアンネマリーは驚いて固まった後、落ち着いて、そして再び固まった。二人が一緒にいることは何も珍しいことではない。しかし、エルガーが花を貰うだなんて、恐らく卒業式以来ない。そして、十一本の花束となぜか一本だけ薔薇を持っているヴィオレット。

 王女だと言うと、世間知らずだと思い込んでいる人間が一定数いるが、アンネマリーはそうではない。小説も劇も好きだ。よって、この状況を彼女は知っている。


「デュッケさん、そういうことだったの!?」

「だから止めたじゃないですか!」

「やだ、ごめんなさい!」


 アンネマリーは慌てて後ずさる。そして、申し訳なさそうに笑ってエルガーに話しかけた。


「あのね、エルガー」

「はい」

「前に、頂いた物は周りに自慢しなさいとヴィオレットに言われたの」


 あの時の言葉はそういう意味ではないと声を上げるヴィオレットだが、アンネマリーは気にせず続ける。


「わたくしは大切な友人達が結ばれたことが嬉しくて皆に言ってしまいそうだけれど、エルガーのために我慢するわ。素敵な贈り物を貰ったのは貴方なのだから、自慢するのは貴方の特権よ」

「アンネマリー様! 変なこと言わないでください!」

「うふふっ。二人とも、お幸せにね! デュッケさん、お邪魔にならないよう退散しましょう」

「邪魔したのは姫様ですよぅっ」

「ごめんなさいっ」


 反省しているとは思えない明るい声音で謝ったアンネマリーは、デュッケの背中を押して部屋から出る。

 ぱたん。

 扉が閉じて静けさが戻ると、ヴィオレットとエルガーは同時に溜め息を吐いた。


「……あの人はなんてタイミングで来るんですか」


 再び大きな溜め息を吐いたエルガー。ヴィオレットはそっと彼の袖を引く。


「……口付けは、タイミングが良くないと駄目ですか?」


 二人の唇がそっと重なった。

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