第5話

 あれから何度か、首から提げたロケットの写真も入れ替えた。道路の脇には、溶けきらない雪が残る様になった。本格的な冬の訪れだ。エルガーの部屋の窓も、外の寒さに内側が水滴で曇ってしまっている。

 ヴィオレットは外の寒さを想像して、部屋を後にする前に手を摺り合わせる。


「今日は一段と冷えますね。シュヴァルツ様、今晩は温かくしてお休みになってください」

「ええ。貴方も大事にしてください」

「はい。では、今日はこれで失礼します。おやすみなさい」


 ヴィオレットはエルガーに頭を下げて、彼の書斎を後にしようとする。エルガーは少し迷ってから、彼女がドアノブに手を掛けた瞬間に呼び止めた。


「待ってください。少し話があります」

「なんでしょうか?」


 ヴィオレットはドアノブから手を離し、エルガーの方を振り返る。彼はいつも以上に難しい顔をしていた。

「すみません、聞きにくいことなのですが――」

「はい」

「……今、恋仲の男性はいますか?」


 予想だにしなかった台詞に、ヴィオレットの口からは間の抜けた声が漏れ出した。そしてその言葉を飲み込んだ時、顔がかぁっと熱くなるのがわかった。以前読んだ小説によく似たシーンだった。素直になれない主人公の男性が、ようやくの思いでヒロインに告白するシーンだ。

 急速に動き出す心臓に気が付かないフリをして、ヴィオレットは恋人はいないと答える。すると、エルガーは難しい顔のまま話を続けた。


「今日、業務終了後にブレン・フューラーから貴方を貸して欲しいと言われました」


 再び、ヴィオレットから間の抜けた声が出た。


「貴方は私のものではありませんが、確認して欲しいと言われました。どうしますか?」


 あれだけうるさかった鼓動が、一気になりを潜めた。ヴィオレットは小さく肩を落としてから、彼の言葉を考える。ブレンの意図はわからないが、今後のことを考えて近付くに越したことはないだろう。


「…………」

「貴方の意思を尊重しますよ。彼は家の事情で恋人のフリをしてくれる女性を探しているようです」

「…………お手伝いさせて頂きますと、伝えてくださいますか?」

「わかりました」

「では、失礼します」

「お疲れ様でした」


 シュヴァルツ邸を出たヴィオレットが盛大に溜め息を吐くと、息は凍えて白くなった。今晩は一段と寒くなると聞いていたが、予想以上に寒さが身に染みる。ヴィオレットは身体を縮こめて、両手を摺り合わせながら帰った。



 *   *



 ヴィオレットが身に纏う紺青のドレスは、月の光が優しく照らす闇夜の水面を思わせる。決して多くの視線を集める訳ではないが、煌びやかなパーティー会場の中で神秘的な魅力を放っていた。


「悪くないドレスだ。腕の良い仕立屋だな」

「フューラー様にそう言って頂けたと知ったら彼も喜ぶと思います」


 その何気ない返答に、ブレンは顔を顰めた。その反応にヴィオレットは戸惑う。するとブレンは溜め息交じりに、今日は恋人の役なのだからと言った。

 そう、今晩がブレンの恋人を頼まれた日だ。親族が芸術関係で結果を残し、組まれた祝いの席だという。このパーティーに結婚をしつこく勧めてくる親族も出席するからと言う理由で、ブレンは恋人役を頼んできた。


「ごめんなさい、ブレンさん。こんなに大きなパーティーは初めてで緊張してしまっています」

「幼少からアンネマリー様の側にいる君がか?」

「パーティー会場から逃げ出したアンネマリー様を探すのが私の役目でしたから」

「今の彼女からは想像できないな」

「アンネマリー様は素敵な王女になられました」


 ヴィオレットはアンネマリーとの思い出を振り返る。なぜか彼女のいそうな場所はすぐにわかったし、すぐに見つけられた。ただ、見つからないフリも何度もしたので、かくれんぼの勝敗は五分である。

 昔を懐かしむヴィオレットの表情は穏やかで慈愛に満ちている。


「君はアンネマリー様やシュヴァルツの話になると表情が変わるな」

「そうでしょうか?」

「ああ。君に尽くされているシュヴァルツが男に恨まれるのも道理だな」


 実際のところ、エルガーが嫌われる最大の原因は人当たりが致命的に悪いことだ。笑顔もなく、相手を気遣うこともない。元々、感情をあまり露わにしない人間ではあったが、相手を思う気持ちは見え隠れしていた。しかしヴィオレットが部下となってからというもの、近しい人からもそれが見えなくなっていた。

 だからこそ、ヴィオレットはブレンが続けた言葉に驚いた。


「一緒にいると、シュヴァルツが君を気に入る理由がわかる」


 仕事を任される以上、嫌われていないとはわかっていた。しかし、気に入られているという実感はない。


「私にはその表情をする意味がわからない。君の様に、要領の良い従順な女を嫌う男などいないだろう。シュヴァルツも例に漏れない。なぜシュヴァルツが君を自分の女にしていないのかわからない」

「シュヴァルツ様は昔馴染みですから、異性として気に入られている訳ではないと思います」


 ヴィオレットは自分で言っておきながら、少しだけ寂しくなる。ブレンはそうやって僅かに生じたヴィオレットの心の隙間を見逃さなかった。


「酷い男だ。向こうはともかく、君は、彼のことを異性として気に入っているのではないか? 毎晩の様に屋敷に通っているそうじゃないか」

「それは仕事の話をしているだけです。なぜそうなるのですか……」

「業務の振り返りなど、帰宅前に執務室で済ませれば良いだけだろう? それをわざわざ屋敷に赴くだなんて、そういう仲だと噂されても仕方ないように思うが」

「噂……」

「知らないのか? 君がなぜあの鉄面皮をと思う人間は、王城に少なくない」

「…………」


 今まで自分の噂は、幼い頃からアンネマリーの遊び相手となって秘書官にまでなったことへの嫉妬しかないと思っていた。ヴィオレットはどうにも恥ずかしくなって、お手洗いに行くふりをしてブレンの側を離れる。早足に遠ざかる彼女の背中を見て、ブレンはニヤリと口角をつり上げた。




 会場の至る所で人に捕まってブレンの元へ帰れなくなってしまっていたヴィオレットは、諦めて人気の無い場所で壁に背中を預ける。行儀が悪いとわかっていたが、少し疲れてしまった。


「……ふぅ」


 暫く、ぼんやりと宙を見つめていた。


 ふと、足音が耳に入ってヴィオレットはハッとする。音の方を見れば、ブレンがグラスを手にこちらへ歩み寄ってくる所だった。


「も、申し訳ありません!」

「こちらこそ、申し訳ない。君を探している間に温くなってしまったかもしれない」

「私、お酒はもう飲み過ぎてしまって……」

「そう言うと思ったから、酒ではないものを持って来た。私も少し飲み過ぎた」


 差し出されたグラスを受け取ろうと手を伸ばした瞬間、ヴィオレットは違和感に気が付く。ブレンのグラスと差し出されたグラスの中身は同じ色をしていると言うのに、差し出された方だけ表面に泡が浮かんでいる。


「あっ」


 嫌な予感がしたヴィオレットは受け取ろうとして、わざと手を滑らせる。落ちたグラスは高価な絨毯のお陰で、ヒビが少し入るだけで済んだ。


「すみませんっ」

「…………」

「弁償します」

「泡立ちを見ていたのか?」


 予感が当たったヴィオレットは身震いする。このタイミングで飲み物の泡立ちに言及するということは、そういうことだとしか考えられない。

 ヴィオレットはジリジリと後ずさる。しかし、数歩進んだところで何かにぶつかった。


「やれ」


 ブレンが顎で指図した瞬間、ヴィオレットの後頭部に激痛が走る。そのまま前のめりに倒れると、頭上から、屋敷に連れ帰るよう指示するブレンの声とそれに答える男の声が降ってきた。


「……君は聡く極めて優秀だが、演技は舞台女優に劣るな」


 その言葉が聞こえたのを最後に、ヴィオレットの意識は消失した。

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