第6話

市川の携帯電話にかけながら、そういえば女に電話するのはいつぶりだろうと思った。 高校の時、好きな女の電話番号を友達から聞き出しかけたところまではよかったが、案の定うまく話せず、何度もかけるうちに完全に嫌われてしまった。

 今になって思えば、モテることとは自分をうまく演じる能力かもしれない。もちろんある程度のルックスは必要だろうが、自分なりの確立したキャラクターを持つことが大事なのではないか?笑いのセンスを磨いたり、時には下ネタを言っておちゃらけてみたり、時には真剣な姿を見せてみたり…。自分なりに他人に受け入れやすいキャラクターを必死で作る。人の外見に注目がいくように、中身の性格に関しても所詮表面上のものしか見えてこない。計算高く意識して作り上げたキャラクターの裏側はとても汚いものもあると思うが、それでも人は皆、外見も中身もきれいに整っているほうを選んでゆく。もちろんそれが悪いとは言えないし、賢い人はそれを存分に活用し、どんなに馬鹿な奴でも大なり小なり意識せずともしている事だろう。

 恋愛において、そうやって自分を高く見せたり、あるいは逆に低く見せたりして、相手と付き合うためのある意味手段として心の駆け引きがあるのだろうが…。そしてそれが恋愛のひとつの醍醐味なのかもしれないが…。 高橋はそこまで考えて吐き気にも似た苛立ちを感じた。どうして人はそんな面倒くさいことをするのだろう?いやしなければならないのか?それはより素敵な人と付き合う為だろう…と心の中から声が聞こえたような気がした。

 そうなのだろうか?じゃあ俺には一生恋愛なんていう面倒なもんはゴメンだな…。もっと素の部分で恋愛が出来れば素敵なのに…。おいおいそれは都合の良すぎる話だろうってな…。

 まあ別に今から俺は市川に恋愛をしに行くんじゃない。ただ話の薬を手に入れるために彼女を利用するのだから…。それでも自分が何年ぶりかに女をデートに誘うような感じでちょっと可笑しかった。


 市川との待ち合わせはターミナル駅前。地元ではウニと呼ばれる大きな噴水がシンボルになっていた。

 彼女はこの治験の事を誰かに話したくてしょうがなかったのだろう。いったん口を閉ざしていたものが外れると、堰を切ったように高橋にしゃべり出した。彼女のプロ意識の低さには笑えるが、そのおかげでとんでもない情報が平凡な人生を送っていた俺に入ってきた。

《究極の安楽試薬…》

 それは今の高橋にとって一億ほどの値打ちがあるように思えた。今俺が恐れているもの…。死への恐怖ではなく、死までの苦痛に対する恐怖…。今それに対する答えが見つかったのだ。それさえ手に入れば…。高橋は自分でも驚くほど大胆な計画を思いついた。


 市川は約束の時間より少し遅れてターミナル駅に姿を現した。市川は真っ白なワンピースに薄い緑のカーディガンを羽織り、それこそデートか何かと勘違いしているんじゃないかと思う格好だったが、高橋は気にしないようにした。まあ女なんてのは、何処へでもお洒落に気を配るもんなんだろう。

 しかし自分が治験の時のままのTシャツにジーパンなのは彼女に対して少し申し訳ない気分になった。


 高橋は飲み屋やレストランなどの場所には全く詳しくなかったが、いつも大学のサークルの幹事で使っていた居酒屋へ彼女を誘うことにした。サークルの飲みの2次会用に使っているアメリカンスタイルな居酒屋で、100席以上あってよほどの事でない限り土日でも予約がとれることから定番のお店として重宝していた。

 半地下の店内は照明を落とし、その代わりにいたるところに吊されたネオン灯が薄く暗がりを紫に染めている。

 今日は平日だったっけ…?治験で長く眠っていたために完全に曜日の感覚がなくなっている。店内には見渡しても2、3組のカップルがいちゃついている程度だった。

 高橋はサークルで使ういつもの大テーブルではなく、半分ガラスの壁で仕切られた4人掛けのテーブルに市川と座った。大テーブルの時にカップルが座っている光景が遠い世界のように感じていた。何だか不思議だった。

 スタッフが注文を聞きに来たので、市川に何か食べるかと尋ねたが首を振った。とりあえず高橋はホットコーヒーと、この店人気の具は少ないが大きさだけはあるイタリアンピザを頼んだ。

「すいませんね…、あんまりこういうお店詳しくなくて。ここ位しかあてがなかったから…」

「いえ私こそ、こんな話を被験者のあなたに話してしまって…。でもおかげで気持ちが少し楽になりました。私自身こんな事に直面して訳がわからなくなってて…」

 彼女は今も頭が混乱した状態が続いているのだろう。膝の上に置いた固く握りしめた両手が、わなわなと小刻みに震えている。

 高橋もやはり市川から話を聞いた時はショックだった。しかしそれと同時に治験事務所での市川の青ざめた表情を見ながら、自分が何だか分からない興奮に包まれてゆくのが分かった。

 それは今の自分の欲求を叶えてくれるもの…死への苦痛に対する恐怖を打ち砕いてくれるものを見つけた喜び?

 しかしそれだけではない。生とは逆のベクトルだとしても、これから自分のやるべき事がはっきり見えた事に胸が高鳴ったのだと思った。

「私は何があっても人は自分の命を自分で終わらすような事はあってはならないと思うんです…。人には運命があってそれを自分できめちゃいけないと…だから私は何とかこの治験を終わらせたいと…ヒック…」

 市川は高橋の前で熱弁を振るっている。最初は拒んでいたアルコールもいったん注文してしまうと、飲まずにはやってられないとばかりにがぶ飲みに近いペースで飲み出した。一時間たった頃には、グラスを5杯空けて酩酊状態に近くなっていた。

「高橋さんもやっぱり安楽死薬なんて認めないですよね?ねえ、聞いてます?ヒック…」「ええもちろん…」

 市川からどうやって情報を聞きだそうかと色々思案していたが、この状態なら取り越し苦労に終わりそうだ…。ただ客が少ないとはいえ市川の声がやたらでかいので、周りの人間に会話が聞こえるんじゃないかとヒヤヒヤする。

「でも僕思うんですけど…今市川さんが警察に乗り込んで行っても誰も信用しないんじゃないんですか?ほら証拠って奴がないと…さっき市川さんが言ってた試作薬っていうのでもあれば別ですけど…」

 まだ完全な代物ではないのかもしれないが、完成品なんて待ってられない。俺は今すぐそれが欲しいんだ!

「試作薬なら…多分…治験事務所に保管してると思うけど…この前堀越さんが大学の研究所から段ボール一箱分の薬を運んでたから…その中に試作薬も…」

 試作薬はあの治験事務所にある…。その情報さえ分かっただけで高橋には十分だった。「でも…、もしそれを警察に持って行ったら…間違いなく私の仕業だと疑われる…。そうしたら私どんな目に遭うか…。正直怖いんです。堀越さんは脅すような事はしないと言っていたけれど、口封じに、こ…殺されるんじゃないかと…」

市川はそう言って唇を噛みしめ、またわなわなと体を震わした。

 彼女に俺がしてやれることは何もないように思えた。俺がこれからその試作薬を盗み出せば、その言葉通り彼女に迷惑が及ぶ事になる。

 本当に俺はそれをするつもりなのか?今せめて俺が彼女に出来ることは何だろうと思った。日付が変わり彼女の頬の涙が乾くまで彼女の愚痴に耳を傾けることが、高橋のせめてもの償いのつもりだった。


 店の外に出ると、路地を通り抜ける車の排気ガスを含んだ生ぬるい風が高橋の体を包んだ。夜露を含んだ水気の多い空気のせいなのか、かなり遠方を行き交う人々の熱気や体臭まで鼻の中に混じってくる。

 市川はもはや高橋の支えなしでは歩けない程の泥酔状態で、高橋にもたれかかりながら肩にかけたバッグを振り回している。路肩すれすれにオープンジープラングラーが派手にラップ系の音楽を大音量を流しながらノロノロと走っている。市川はそれに向かって「バカヤロー」と叫んだ。幸い音楽の方が大きかったのかジープはそのまま過ぎていった。

 15分程かけてようやくターミナル駅に戻ってきた。ウニの周りのコンクリートの囲いに市川は腰掛け、気持ち悪そうに上体を屈めている。高橋は駅構内のコンビニでミネラルウォーターを買い市川に渡した。市川はそれをぐぐっと口に含み、代わりに深いため息を吐き出した。

「大丈夫ですか?」

「ええ、ありがとう…」

聞くと彼女は原付でここまで来ているという。もちろんこの状態では運転できるはずもない。 とりあえず地下の駐輪場が1時に閉まるというので急いでそれを一緒に取りに行き、高橋もウニの近くに駐めていた自分の自転車を押して市川と合流した。

 市川は一人で帰れると言い張ってスクーターに乗ろうとするが、やはりこの状態では引き留める他ない。それに高橋はこのまま市川に帰られるわけにもいかなかった。

「とりあえず、しばらく家の方向に向かって歩きましょうよ。」

 市川は最初渋っていたがやはり不安になったのだろう、高橋の提案を受け入れて横をフラフラとハンドルを揺らしながら付いてくる。市川の家は治験事務所をさらに北へ進んだ、郊外の市営団地にあるらしかった。彼女の家が治験事務所と反対方向ならどうしようかと思ったが、ちょうど同方向だった。

 二人は新幹線高架下の狭い歩道をてくてくと歩く。横の山陽本線を長い長い貨物列車が、ターミナル駅にスピードを落としながらゴンゴンと鉄路を踏みつけて入ってくる。まばらに積まれたコンテナの隙間から、線路によって隔たれた市街地の西部がコマ送りの静止画の様に途切れ途切れに映っては消える。

 ターミナル駅を出て5分も歩くと人混みも絶えた。まるで空気のバリアから外れたみたいに暖かい空気がひやりとしたものに変わり、Tシャツの中に入り込み肌を刺した。

「高橋さんて真面目なんですね…」

市川がふらふらしながら高橋の方を見やった。「えっ…」

脈絡のない質問に思わず高橋も市川の方を振り返る。

「だって…普通、女性がこんな状態だったらどっか休んでくとか誘いそうなものに…」

「いや俺は…」

確かに普通はそうなのかもな…。ただ高橋にはそれは遠いドラマの世界での出来事でしかありえなかった。同年代の市川が言うように、皆そういった駆け引きをしながら世の中を謳歌しているのだろうか?皆はいつそんなに大人になったのだろう…?そして俺はいつからその成長を疎ましく感じるようになっていったのだろうか…?

「俺は…単に…その…、女の口説き方を知らないだけなんですよ…」

高橋はガラにもなく本音をそのまま口に出して言ってみた。相手は酩酊してるし何を言っても覚えていないだろう。それにこの女ともう会う機会もない。そんな気持ちが働いたのかも知れなかった。

「ヘー、でも…それってある意味素敵なんじゃないんですか?純粋ってゆーか?女性を大切にしてる感じが…」

市川があまりにも高橋を持ち上げるので、もしかして誘っているのかとチラッと思ったりしたが、市川も俺と同じ様に思った事をそのまま口に出しているだけのようだった。

「私も今年で22になるし、それなりに色々あったけど…高橋さんみたいな純粋な人には巡り会えなかったな…。死んだ母さんが男を見る目だけはつけろって言ってたけど…まさかこんな事になるとはね…。」

「こんな事って?」

「堀越さんから聞いたんですけど…大森さんが私を看護婦として採用したのって、私のことがタイプだったかららしんですよ。でもそんなの気をつけようがないですよね~」

市川はそう言って苦笑いした。

「へ~、あの先生がね~」

U字ヘアーのキャラクターにはそのセクハラ行為はまあ似合っていると言えた。

「あーあ、本当訳わかんない…どうして私ばっかりこんな目に…。ついこの間母さんを亡くしたばっかりだっていうのに…」

市川はやけくそのように、歩道脇に立つ街灯のポールに肩にかけたバッグを振り回しぶつけた。鞄の金具が当たりカーンと乾いた音をたてる。

 市川のお母さんの話はさっきの居酒屋でチラッとは聞いた。彼女にとって母親はとても大切な存在だったのだろう…。そしてその存在を無くしても母のような病気の人を助けるんだという意志を持ち、そして逆にその意志によって何とか母を亡くしたつらい気持ちを奮いたたせてきたのかもしれない。そんな市川にとって今回の事がどれだけショックなのかは、俺みたいな奴でも理解することができた。マスコミ風に言えば過酷な運命を懸命に生きる少女とでもするだろうか…?


 人はなぜ偶然である時の流れを運命と呼びたがるのだろう…。それは生きている事に意味を持たせたいから?人は元からありもしない自分の生きている意味を探ろうとする。生きている事自体に意味なんて存在しないのに…。

 しかし意味はなくても意義はある。要はその人がどう生きていくかが大事が大事なのであって、生まれてきた存在の出所に格段の意味があるわけじゃない。だから自分の運命なんて考えるのは馬鹿げたことだ…。そう…自分が今に至った経緯には偶然も必然もあるだろうが、簡潔に言えば《サイコロを振って何かの目が出た》それだけの事だ。次に振って出る目とは基本的に関係があるわけじゃない。……そうだ。そんな事は頭ではとうに分かっている。そして俺も市川もまだまだこれからの人生なんだ。もう一度サイコロを振ればいいじゃないか!


…「高橋さんは…、自分の想いを簡単に断ち切ってすぐに前に進めます?」

市川は先程までの酔いが嘘だったかのように冷めた顔を高橋に向けた。

「私が看護婦になったのは、母のような目に誰も遭わしたくないから…ううんそれだけじゃない。遺された人…過去の私をもう見たくないから…。」

いつしか二人は幹線道路を外れ、水路脇にある細い路地を歩いていた。

「私はその想いを忘れたくない。でも堀越さんは世の中きれい事だけじゃやっていけないって言った。私にはこの想いこそ全てで、それを無くしたら私は私でいられなくなる気がするのに…それとも私の考えがやっぱり甘いのかな?」

 そう…考え出すといつも頭が混乱して俺は訳が分からなくなる。子供の頃、転校時代…いつも俺は耐えてきた。大人になれば好きなように生きれる。自分の考え方で自分の思うように生きれるって…。けれど大人になって情報が入るにつれ世の中は俺の中でどんどん汚くなっていった。

 きれい事で何とか覆ってはいるけど、やっぱり汚くて、底なしに汚くて…。

 個人は理想を持つけれど、人々は建前を言うけれど…システムは現実を突きつけ、結局生ぬるくバランスの良い温度に適応する奴が生き残ってゆく。彼らこそが大人なのだろうか?彼らこそが正しいのだろうか?

 俺には彼らに対抗できるだけの知恵も体力もない。今の俺を動かしているのは純粋な気持ち…。死にたいという欲求。死にたいという人を楽に死なせてあげるといった、他の人間にはできない間違った使命感。それだけだった。

 理屈では分かっている。サイコロを振り直せばいいって…。何度も何度も振り直せばいいって。しかし今の俺の念いは何処に行く?今の俺にはこの気持ちを捨て去る事なんてできない。やはり過去は捨て去れない。ここまでのベクトルはずっとずっと繋がってきたものだから…。

「市川さん、君は大丈夫だよ。そんなきれいで純粋な気持ちを持っているなら…。奴らが大人で正しいとしても。俺たちがバカだとしても…。」

 市川は虚ろな眼差しではあったが、何かを納得したように深く頷いた。彼女もまたひとつの決断をしたのだろうか?この問題を告発することは彼女にとって大きなリスクだ。仕事は失うだろうし、彼女の話通り自身の身に危険が及ぶ可能性もある。

 …それでも市川の純粋な想いは高橋には眩しい程だった。それは紛れもなく生へのベクトルだからだ。俺のベクトルはそれとほぼ真直角に交差する。

 市川が今まで人間関係や恋でうまく世の中を渡ってきたように、今度の事もきっとうまくやっていくだろう。高橋はいつしかまた敗北感で溢れた目で市川を見ていた。 

 皆いつからそんな大人になったのだろう?

そして俺はいつからその成長を疎ましく思うようになったのだろう?

 自分に本当の勇気がないのも分かっている。本当に生き抜く努力の前に怯えているのも分かっている。

 …高橋は自分の今目指しているベクトルの行く先に巨大な空虚感を感じ、目を瞑り息を呑んだ。そんな事は分かっていたはずなのに。 それでも…高橋はもう引き返す事は無理だと分かった。自分の今や大部分を占める純粋な死への欲求は、決してサイコロを振ることを許さない。この気持ちはもう俺自身であり俺の全てなのだ。もう考えるのはやめよう…。気持ちが無い限り生へは戻れない。これが俺の望んでいる純粋な気持ちなんだ。

 高橋の心は僅かに残された生へのベクトルに細かく揺れながらも…覚悟をした。



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