第7話

市街地の東端を流れる一級河川を越える大橋まで歩いてきた。ターミナル駅からゆっくり休み休み歩いてきたので一時間半ほど経っていた。

 市川はまだ少しふらついていたが幾分酔いも醒めた様子だった。

「今日はありがとうごさいました。被験者の高橋さんにこんな話をしてしまって本当に申し訳なかったって思ってます。でもおかげで何だか勇気が出ました。もう酔いもかなり醒めたので後は一人でも帰れます。」

高橋に心地よい笑顔を残し市川は立ち去ろうとしていた。治験事務所はこの橋を渡りきってすぐの所にある。

 今、この瞬間が全ての決断の時だった。覚悟は決めたんだ。もう迷う事はないはずだ。

「市川さん、ちょっと待って下さい。」

 振り向いた市川の顔に少し曇りができたのが分かった。いかに自分が険しい顔をしていたのかが、市川を通して高橋自身にも見えるようだった。


 真夜中の治験事務所は街灯に面した壁のみが白く反射し不気味なオーラを醸し出していた。しかしここには妖怪も化け物も存在しない。あるのはただの薬、俺の心の闇に答えてくれる究極の安楽死薬…。それを今俺は掴みかけている。恐れることはない。俺が恐れるのは死への恐怖ではなく、死までの苦痛に対する恐怖…。

 市川と並ぶように、暗闇の中ほんのわずかに見える二階への外階段を慎重に上がる。高橋は自分の足が思うように動かないほどにひどく震えていることに気がついた。当たり前かもしれない。これから行うのは犯罪かつ、今までの人生でリスクを自分一人で背負って何かしたことなどなかったのだから…。

 これから俺は自分を家族知人はおろか、社会からも切り離してゆく。そして最終的に自分からも切り離す。これほどの思いをし結果俺には何も残らない。俺は今から何を得に行こうというのか?本当の自由?生まれたと同時に切り離されたもの?決して振り返って見てはいけないもの…。許してくれ。もう俺は疲れたんだよ。

 市川が携帯のライトを使って2Fの入り口の鍵をガチャリと回した。

 市川には治験事務所に忘れ物をしたと言ってある。手早く済まさなければならない。

「市川さんは下で待ってて下さい。僕が鍵閉めて下りますんで。すぐに戻ってきます。」

市川は何ら疑うことなく高橋に鍵を渡した。市川が階段を下りるのを確認して高橋は扉を閉めた。引き延ばせても10分…。一気に血の気が引く。やるしかない。あらかじめ用意しておいた軍手をはめる。いずればれるにしても少しでも時間は稼いでおく必要がある。

 念を押して部屋の電気はつけずに携帯のライトで行動する。2Fの奥の部屋の鍵は高橋が目撃したとおり、診察机の二段目の引き出しに入っていた。セキュリティーの甘さに感謝する。

(…試験薬は治験事務所のどこにあるんですか?)

(2Fの奥に堀越さんが運んでたと思いますが…なぜそんなこと聞くんですか?)

(もし警察に通報する場合、試作品の場所が曖昧だと情報に欠けると思ったので…)

 市川は本当に警察に通報するだろうか?もしそうなったなら奴らが捕まるのが先か?俺が先か?頭は少し未来の行く末を案じながらも手先はするすると動いてゆく。見えない力が体を動かしているようだった。この究極に緊迫した状況がそうさせているのだろうか?

 鍵の束から一つずつ慎重に奥の部屋の鍵穴に挿してゆく。そのうちのひとつがガチャリと穴に噛み合わさった。

 3畳程のせまいスペースは、パソコンと壁に薄い本棚がある以外に何も見当たらない。高橋は部屋に窓がないことを確かめると、手元にあった部屋の明かりのスイッチを押した。明かりをつけると部屋はより縮まって見えた。 市川が言っていた段ボールなんて見当たらない。高橋は地団駄を踏み殺すように足の指先に力をいれた。ないじゃないか…。どこかに移されたのか?いや少し冷静になれ。これは全て市川から聞いただけの話じゃないか。あのヘボ看護婦の話をまともに受けた俺がバカだったんだ。高橋は怒り半分と安堵の気持ちが半分こみ上がってくるのが分かった。足の親指に入れた力がふにゃふにゃと砕ける。

バカなマネはこれで終わりだ。そう心の声が叫ぶのと同時だった。その場でへなへなと座り込んだ高橋の視界にそれは映った。

 パソコンを置いた机の下、立っているときは椅子のせいで隠れていたが、奥に一つの段ボール箱が押し込まれていた。

 高橋は息をするのも忘れその場で凍り付いた。心臓だけがバクバクと音を立てている。

恐る恐る近づくと段ボールには小さなネーム用シールで『リーチ・コバネート薬』と書かれていた。

 リーチ・コバネート…これがあの薬の名前なのだろうか?周りを見たが他に段ボールはない。安堵と緊張のジェットコースターのような落差に高橋はゼーゼーと荒い息を吐き出した。堰を切ったかのように冷たい汗が額からポタポタ落ちる。携帯を見るともう5分が経とうとしていた。

 どうする?段ボールを開けてみるか?しかしそうしたってこれが本当にあの薬なのか確認できない。高橋の頭は知らず知らずのうちに最後の逃げ道を探していた。

 高橋はふっと上のパソコンを見上げた。…これに何か情報が入っているかも知れない。震える指先で電源のスイッチを押した。起動画面になり、ハードディスクがカチャカチャと音を立てる。高橋は立ち上がり、目を見開いたままでそれを待った。

―パスワードを入力して下さい―

画面の中央に小さなウインドウが出現し、部外者の侵入を拒んだ。パスワード…くそっ…時間がない。高橋は思いつくままにキーボードを叩いた。

―OMORI― ―〈OMORI〉― ―HORIKOSHI―

まさかと思ったが市川の名も打った。どれも反応しない。誰かのフルネームか?それならもうお手上げだ。それか…この薬の開発者の名前…そういえば市川がその人物について何か言っていたような…しまった名前を聞いておくべきだった。今更後悔しても始まらない。 高橋はそこで深いため息を漏らした。汗は止まらず額から吹き出し、キーボードの溝に落ちる。暑い訳じゃない。ただ体中の血管が拡張しているのが分かる。時計を見る。もうすぐ7分が経とうとしている。作戦は失敗だ。すぐ引き返そう。いや段ボールだけでも持ち帰ろう。頭の中で瀬戸際の攻防が繰り返される。

 高橋はもう一度段ボールを見た。リーチ・コバネート薬。この治験はこの薬を作る為に行われているのか?そう考えた途端勝手に指が動いた。リーチ…届くか?コバネート…聞いた事ない。それに近い単語は…COVENANT…カバナント…契約する…コバネートと読めなくもない…。契約に届く…。契約に達する…。reach・covenant…

指がキーボードをそう叩いた瞬間、ロックが解除された。契約…。この安楽死薬があらかじめ契約された人たちの為に作られたものだとしたら…。俺と同じ事をやろうとしている奴らがいる。高橋は堀越や大森の背後にもっと大きな組織の影を感じ背筋がゾッとした。

 ハッと我に返る。時間がない。もういつ市川が二階に上がってきてもおかしくなかった。今の高橋を動かしているのは意志ではない。何よりも切迫した時間だった。デスクトップに貼られているリンクに目をやる。幸い画面上の方にリーチ・コバネート薬についてというファイルがあった。しかしこれに目を通している時間はない。高橋は机の上にあるフロッピーディスクの中であまり使われてなさそうな一枚を取ると、ハードディスクに押し込んだ。これをコピーして…。待てよ…。契約者の名簿もこのパソコンのどこかに…。高橋はファイル検索欄に(名簿)と打ち込んでそれらしきファイルを探した。顧客名簿一覧…。これか…。残念ながら中を見る時間はない。急いでそれら2つをダブルクリックしてフロッピーにコピーした。今にも市川の足音が聞こえてきそうな気がした。

 段ボールを抱えるとパソコンのシャットダウンを待つ間もなく、部屋の明かりを切り、鍵を閉め、引き出しに鍵束を突っ込んだ。

 段ボールを体で隠すように慎重に扉を開けた。下で市川は気怠そうに、バイクにもたれ掛かり缶コーヒーを飲んでいた。俺を待っている間に買ったのだろう。市川に気づかれないように段ボールを扉横の踊り場に置いた。下からは見えないはずだ。

 呪われた館に封印をかける思いで、カチャリと扉の鍵を回した

 階段を下り市川に鍵を返す。

「ずいぶんかかりましたね。忘れ物ありました?」

「すいません…。探したんですけど…。なかったですね。僕の気のせいだったみたいです。それに途中でトイレも借りたんで…」

「それで遅かったんですね。なんかえらく汗かいてますね。こんなに涼しいのに。それに…軍手?」

 高橋は自分の手を見て、目を瞑りたくなった。軍手を外すのを忘れている。冬ならともかくこの真夏に軍手は、何か作業していないかぎり変な趣味という域を越えている。

「あっ…えーと…」

 言葉が出てこない。頭が真っ白になった。辻褄を合わせようもなかった。市川は黙ってこちらを見続け、二人の間に数秒の沈黙が生まれた。

 やばい何か気づかれたか?こうなったら素直に薬を盗み出した事を打ち明けて、試験薬を俺が警察に届ける気だったと言ってごまかすしか…。

 彼女は急にハッと何かに気づいたようにこちらを見た。

「夏に手袋なんて、高橋さんってよっぽど寒がりなんですね。」そう言ってクスクスと笑った。

 相手の思わぬ反応にあっけにとられた高橋は、苦笑いしか返すことができなかった。助かった。市川が天然で良かった。

 

 その後市川を自宅近くまで一緒に送り届け、高橋は直ぐさま治験事務所に自転車を走らせた。事務所の前に着き外階段の上の方を見た。 「あっ…」と高橋は声をあげた。どうして気づかなかったのだろう?今高橋が立っている場所と向きは、ちょうどさっき市川が立っていたそのままだった。市川が天然だとばかり思って安心した先程の言葉だったが…。

 彼女…俺のやった事に気がついててあんな発言を…?もしそうなら市川は俺の行動をどう捉えたのだろうか?しかし今となってはそれを確かめるすべはない。もうゲームは進み出したのだ。

 事務所隣のアパートに設置された街灯が、階段に置いた段ボールを斜めから照らしていた。影が元の大きさの10倍ほどにも膨れ上がって見えていた。



 アパートに帰ってすぐに、今はワープロとしても使っていないボロボロのパソコンに盗み出したフロッピーを挿入した。リーチ・コバネート薬は黒だった。安楽試薬だった。顧客名簿には何百の名前が並んでいた。そこにはその人の住所勤務先の他に、年収そしてこの薬を契約する理由までが書かれてあった。

 不思議な事にその年収の幅は様々で、何億という金持ちから収入0の者までいた。ビジネスなら金持ちばかりが並んでそうなものだが…。

 そして一番興味を引いたのが安楽死の理由だった。病気…死亡保険金目的…自殺志願…。…じさつしがん…!

 この組織は俺がやろうとしている事をビジネスにしようとしている。なら俺が無償のボランティアでこの究極の安楽試薬を本当に死にたい人に配ってやる。高橋はすぐさま、自分の住所に近い人たちをリストアップし始めた。

 今まで闇の入り口で彷徨っていた心…。揺らいでいた高橋の心は、ゆっくりと闇の深い所に落ちていった…。



 第一のターゲットとの会う日が3日後に決まった。もう組織の連中は安楽試薬がなくなっていることに気づいただろう。高橋は自宅アパートにいても一時も心安らげなかった。 無性に誰かに会いたくなった。誰に…? 

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