第4話
路面電車の終点のほど近く、市街地の端に位置するところに、国立大学医学部に併設されて大学病院はある。広い敷地のほとんどを広葉樹の木々に囲まれる。その中に赤レンガの古めかしい建物や最近増床したノッポビルも建っている。
…プル…プル…堀越が病院内の駐車場に駐め携帯をかける。
「あっもしもし…はい堀越です…はい近くに寄ったんで…はい、薬を受け取りに来ました…はい…はい、大丈夫ですか?はい、では。」
市川は横で固まったように動かない。
「市川君、どうする?君も一緒に来るかい?ここで待っててもいいんだけど…」
今、堀越さんが会う人が…
「わ、私も行きます!」
「そう…分かった。くれぐれも失礼のない様にね。」
堀越の目が彼女に最後の確認を行った。
「…はい、大丈夫です。」
どこまでも続く薄暗い廊下と湿気臭い空気。真っ昼間だというのに外光は入ってこず、非常口の緑の案内板だけがボワンと光っている。 昔の大学病院でも最も初期に建てられた一画。建物は隈笹に覆われうっそうとしていた。入り口の扉を開けた時、浦島太郎の玉手箱を思わせるかび臭い霧が二人を出迎えた。
二人は人気のない廊下をコツコツと足音を響かせて進んでゆく。突き当たっては階段を昇る。階段は続いておらず廊下を行ったり来たりして昇ってゆく。まるで迷路のようだ。
「こんなに複雑だと患者さんも大変ですね。」
市川が堀越の後ろに付きながら誰となくいった。
「ここは研究棟だから患者が来る事はないんだよ。」
行けども行けども同じような風景に、市川はくらくらとしてくる。外気が吸いたい。窓はなく、上階に行けば行くほど空気が薄く胸がむせかえる。
「さあ着いたよ。」
最上階…6Fの突き当たり、その部屋はあった。[臨床薬研究室・室長・田所正]
扉の上部15㎝程の切り取った磨りガラスが、部屋の照明で鈍い光を放っていた。
コンコン…
「やあやあ…」
「先生、堀越です。」
何かガラスが触れ合うような音がして扉ががやりと開いた。
「はい、どうも、いや~わざわざ出向いて来てもらうこともなかったのに。」
「いえいえ…先生あっての大森病院ですから。」
「ははは、大森『病院』…ね…、それより治験患者の様子はどう?」
「はい、今の所順調に行ってます。」
「頼みますよ、まだまだデータ不足ですからね~ははは。」
窓がなく剥き出しの蛍光灯が辛うじて室内を映し出す。10畳程の広さの部屋の隅は光が行き届かず影が四隅をカットしている。研究室にありがちな散らばった資料やファイルの山はなく、それらは中央の実験机の横に置かれた本棚に整然と片付けられている。しかし逆にそれが部屋の感情を消し去っている。
市川は部屋に入った途端、強烈な刺激臭にたじろいだ。実験机の上には十数個の試験管から液体がチューブを伝って、横の三角フラスコで反応している。またそこからさらに分かれて伸びているチューブの先から時折紫色の煙が上がっている。換気扇は回っているが、処理しきれず室内に漂っている。
「いや、今も実験中で手が離せなくって…。
そうでなければ下まで降りていけたんだけどね…」
「いえ、こちらこそ忙しい時に来てしまって、研究の方進んでいるみたいですね。」
「うん?いやまあね…もう全ての課程を統合したサンプルは出来ているんだが…後は治験のデータからどれだけ楽に…という所の精度を上げられるかどうかだね…」
中央に立つ白衣に身に纏った人物は、話ながらも実験の手を休める事なく動いている。堀越はそこから片手二本分空けて立ち、市川は堀越の背に半ば恐れるように身を潜め、肩越しにその男を見やった。
30後半から40半ば、細身の長身、頬骨の突き出た能面のような顔。丸形の眼鏡をかけ、それが実験机のパソコンのモニターの光で青白く反射を繰り返している。
男が実験の手を止めこちらに振り向いた。市川と目があった。ちょいと首を傾け堀越に尋ねる仕草をした。
「えー…、うちで雇った看護婦でして…」
そう…と男は言い、ニコリと笑って市川に手を差し伸べた。市川も反射的に手を握った。手の皮にすり切れが多く、非常にガサガサした感触がした。
「よろしく…。これで今日から君も協力者だね。」
その後、堀越と市川は男から段ボール一箱分の薬を受け取り堀越が持つと、行きと同じく6Fから1Fの迷路のような階段をひたすら下っていった。男は実験から手が離せないからと、研究室横の薬品庫で二人と別れそそくさと研究室に戻っていった。
市川は下りの階段になんとか足を運ばせながらもただただ頭が呆然としていた。…私はどうしてこんなとこに居るのだろう…?目の前の階段がだんだんと平面的になるような錯覚を起こす。おもわず段を踏み外しそうになり、弾みで前にいた堀越に軽く当たってしまう。
「すいません…。うっかりしてて…」
堀越は後ろ目でちらっと市川を見たがすぐに前に向き直った。
「まあ…、ショックを受けているのはわかるが…。気を付けてくれよ。《命》より大切な薬を抱えているんだからね。」
それだけ言うと堀越はまたすたすたと歩き始めた。
市川は堀越の《命》という言葉にビクンと反応する。命…生きる…死…「安楽死」…命を奪う薬…。
「やあやあ、うれしいな~。こんな汚い部屋に女性が来てくれるなんて…何年ぶりかな?〈お客さん〉としてならたまにいらっしゃるけど…。でもまあ、若い女性が好き好んで来るような所じゃないと思うけど…ねえ、堀越さん?」
「そう…ですね。実は田所さん、私が彼女を誘ったんです。私の知らない間に大森さんが看護婦なんて雇ってしまって…。しかし、彼女もこの治験に関わった以上、本当の所を知った方がいいと思いまして。」
男は片手を机にもたせ、ため息を漏らした。
「…大森さんも何を考えてるんだろうね。事情を知らない人を巻き込んで…。それに看護婦なんて雇うような規模の治験じゃないでしょ。…あのじじいは何も考えてないな…まあしかし…」
男は品定めするかのように市川を下から上までなめるように見やる。
「堀越さんのいうように関わった以上は本当の事を知る権利がある。いや、知ってもらわなくちゃあならない。」
男は市川に近づき一枚の名刺を差し出した。
〈○○大学付属病院第一研究棟601号室室長 田所正〉
市川は受け取った名刺をただ黙って見つめる。「まあ名刺を見たって何も分かりゃしないがね…。私が何をしているかを知っているのは、ここにいる堀越さんと大森医師、そしてこの大学病院のごくごく一部の人間しか知らない。君はこの治験は何の治験だと聞いているのかい?」
「私はただ…、頭痛薬の治験であるとしか。」
市川はどこか不思議な笑みを浮かべる田所の雰囲気に圧倒される。私は覗いてはいけない世界に来てしまったんだと、その思考が動悸が上がると共に色濃くなってゆく。
「そう、それはあながち間違った事じゃない。今の治験のデータを応用すれば、確かに新しい頭痛薬にもたぶん有効だろう。…しかしそれだけじゃあない…。私が作ろうとしているのは、究極の安楽死薬です。」
田所は何事もないようにさらっといった。
反対に市川の顔は蒼白となりショックを隠しきれないのが明白だった。…安楽死薬…聞いたことはある…確か末期患者を苦痛から解放するために使われる薬…しかし…市川は思わず声が出た。
「でも、日本ではまだ許可されていない!」
「そうだよ…。だから表だって活動できない。勘違いしないでもらいたいのだが、別に私は人をただ殺したいと思ってこの薬を開発してるんじゃあない。君も知ってるとは思うが、安楽死薬は一部の国ではすでに承認されている。別にこの国が遅れているとかは思わないが…。考え方の問題だからね…。しかし現には安楽死薬を求めている人はこの国にもいる。それも思った以上に多くの人がだ。一般的に用いられる末期患者、さらに末期ではないにしろ病気で苦しむ人、もっといえば他の何らかの事情の自殺志願者もだ。」
「しかし、そんなことしたら自殺幇助に触れますよ。」
市川は田所に向かって低く呟いた。田所は市川に視線を合わせたままなお続ける。
「ああ、もちろん分かっているよ。私だって何も積極的に法を破りたいとは思わんよ。ただ一部の自殺志願者も含めて、本人がとうに自殺することを覚悟しているのに、現状では逆に生きろと励ます事しか許されていない。それが今の日本の法律だ。私はこの医療技術が進んだ現代で、志願者をなるべく楽に死に導くのも一つの方法だと思っている。私には私なりの信念がある。他人に受け入れられる事はないだろうがね…。」
市川は間を置き深く息を吸い込んだ。
「…あなたは間違っている。命は…命は…そんな簡単に割り切れるもんじゃない…。私の母だって…最期の最期まで死に抗って懸命に生きた。あなたは何も分かってない。残される遺族の悲しみの事など…。死をビジネスにしようなんて絶対に許される事じゃない。」
市川は堪えきれずに流れ出た涙を指で拭った。「それは違う…」
泣き出してしまった市川を気遣ってか、田所は声のトーンを落とした。
「それは違う…。私は間違っても安楽死薬をビジネスにしようとは思っていない。結果的にそういう側面を持ってしまうかもしれないが、意図してる訳じゃあない。それだけは分かって欲しい。金儲けがしたいなら他にも色んな分野があるさ。君はさっき残された遺族の悲しみって言ったけれど、じゃあ生きるのが苦しくってしょうがない人の苦しみは誰が分かってあげるの?私はその人達の力になりたい。そのためなら自分が極悪人にされていいと思っている。…でもまだ捕まる訳にはいかない。まだ道半ばだからね。だから君にもしばらく協力して欲しい。理解してもらおうとは思わないが…」
田所はそこまで言うと、実験机脇のパイプ椅子に深く座り込んだ。
堀越と市川は階段を下りきり元来た入り口に戻ってきた。堀越は段ボールを抱えていたので、市川が今にも朽ちそうな扉をキキィと開けた。白い光線が二人を包み堰を切ったかのように蝉の鳴き声が耳に反響した。網膜のホワイトバランス調整が、次第に光りの塊から夏の日常を視界に映し出した。
市川が時計を見ると二時だった。まだ一番暑い時間。この研究棟に何時間もいたような気がしたのに実際には一時間も経ってなかった。来たときと何も変わらない景色に、市川はさっきは悪いジョーダンではなかったのかと思ってしまう程だった。いやそう思いたい。ごく日常の時間の経過の中であの出来事だけが浮きすぎている。そうだ二人が口裏を合わせて私を驚かそうとしているのだ。そう信じ込みたいような、しかし足下からくるフワフワとした不安感で相変わらず市川は歩いている心地がしなかった。
駐車場にあるワゴンのトランクに堀越が薬の段ボールを積む。二人は車に乗り込み堀越はすぐさまクーラーをつけた。車内の温度はものの一時間でサウナ状態になっていたが、それは市川の心を温めるように心地良い温度にさえ感じた。しかしその車内の温度変化が紛れもなく先程の時間経過が本物であった事をも証明していた。
高橋は治験薬を投与されてからの3日ばかり、殆どの時間を眠らされていた。脳波の形状を示す波は安定した波形を描いている。
「どんな様子だ…。」
外から治験事務所に帰ってきた大森が、高橋の傍らでデータを取る堀越に尋ねた。
「ええ、異常ありません。特に苦しんでいる様子もありません。ただ試した薬にもよりますが、レム睡眠からノンレム睡眠に切り替わるスピードが少し早いのかその過程で顔をしかめる様子もありますね…。」
「まあ個体差もあるからな…。その過程が逆に遅すぎると次の過程にも影響が出てしまうから調整は難しいんだ。また田所先生に報告だな。」
「はい」
「それより昨日今日と市川君の姿が見えんが…」
「それなら市川から連絡がありまして、体調が優れないのでしばらく休ませて欲しいと…」
「気楽なもんだな、自分がしている仕事の本当の実態も知らないで…。まあ彼女にはただこちらの言うとおり気楽に看護婦の仕事をしてもらえればそれでいいんだが…まさか君…この前二人で田所さんに会いに行った時に市川君に何か言ったんじゃあ…」
「…いえ私は何も…」
「それならいいが…よし、薬別のノンレム睡眠の反応時間を表にまとめておいて。」
「…はい分かりました。」
市川はその日からも堀越の緊急の呼び出しがあるまで治験事務所に姿を見せなかった。
高橋の容体は治験契約期間の一週間も目前に迫る6日目に突然急変した。
高橋の状態チェックは他の病院との兼ね合いで留守にしがちな大森の代わりに、事務員の堀越が泊まり込みで行っていた。薬の特性から一つの薬の作用を見るのに最長で十時間程かかる事もあるためだった。
堀越は長時間勤務の疲れから、高橋の眠るベッドの傍らでつい眠りこけていた。堀越をたたき起こしたのは、高橋の容体の異常を知らせる緊急ブザーだった。
高橋はすぐさま田所のいる大学病院に搬送された。田所の研究を知る大学上層部の人間の力が働いたのか、高橋は病院最上階の特別個室に極秘に収容された。搬送されたのが真夜中であったため、病院内に人が少なく比較的スムーズな搬送、処置に入れた。
「いったい何が起こったんだ。」
田所は堀越に向かっていつもの落ち着き払った様子から一変し、めずらしく興奮気味に声を震わせた。
「分かりません…。気がついたら緊急ブザーが鳴ってて…脈拍が低下してて…僕にも何が何だか…」
「ふぅ…まあ君に言っても仕方がないことだな…大森医師はどうした?」
「大森先生は今日は別の内科の方での勤務がありまして…しかしこの時間はどのみち私ひとりで見ていましたが…」
「そうか…、悪いが大森医師もすぐに呼び出してくれ…」
「はい、もう呼びました。今向かってると思います。」
大学病院の薄暗い廊下に高橋を処置している医師たちが慌ただしく行き交う。そのひとりの医師と田所が言葉を交わしている。
「どうやら命に別状は無いようだね…ただ意識はまだ戻ってないらしい。」
田所は堀越にそう口早く伝えた。
「やはり私の責任です…。私がもっと気をつけて見ていれば…」
「まだ原因は分からないが、何か突発的な反応らしい。薬に対して何かしらのアレルギー反応が起こったのかもしれん…。」
「そういえば、被験者は病歴に小児喘息を患っていたと…」
「小児喘息?大森医師からは何も報告は受けていなかったが…それならそうとなぜ?」
「おそらく、その発作がもう10年位起きてなかったと被験者が言ったのを聞いて大森先生が大丈夫だと…。被験者がなかなか見つからなくて大森先生焦ってましたから…」
「うーん…」
田所は自分の大森への圧力が原因の一つになったのかと考えたのか、それきり口を閉ざした。
大森医師はそれから一時間程してようやく病院に駆けつけた。
「田所先生…すいません、私がいない時間に何か被験者に異常が出たようで…」
近くまで来ると、大森からは微かにアルコール臭が漂ってくる。病院のそれではない。さっきまでどこかで飲んでいたようだった。田所はその大森の様子を見て呆れたのか口を開こうともしなかった。代わりに堀越が事の成り行きを大森に伝えた。大森はそれを聞くやいなや堀越を責めだした。酔っているせいなのかやたら声が大きい。通りすぎる医師たちがこちらを振り向く。見かねた田所が二人を高橋のいる病室に連れ込んだ。
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