第3話
面接の後、色々あると面倒だし、その日はスーパーのバイトは入れてなかった。といっても治験のバイトに受かればすぐにでも辞めるつもりだ。
アパートに帰ると部屋はいつものごとく噎せ返るような熱気とタバコのヤニの臭いで充満していた。引っ越ししてからずっと手入れをしていないクーラーをつけると、フィルターについた埃のせいででクシャクシャと昔のロボットのようなうなり声をあげて始動した。 高橋はカーテンを閉め切り部屋をまた闇に切り替える。しかしこおんぼろアパートは音のプライバシーを知らないみたいで、前の公園からは夏休みの子供が駆け回る声がキャーキャー聞こえてくる。高橋は耳栓をして音をシャットアウトした。しかしそれでも微かに聞こえてくる、いやもう耳の中の残音かもしれないその声を、高橋の耳はそのまま眠りにつくまで拾い続けた。
ウトウトしながら幼少期の頃を思い出す。
父親の背中はいつも遠くに見えていた。高橋が中学に上がる頃まで父親はあまり家に帰ってこなかった。母親はそんな父親をいつも愚痴り私の青春はどこに行ったのかと嘆いていた。いつの日か、父親が所属する会社のサッカーチームの試合に連れられて、社宅近くの河川敷のサッカーグラウンドに行った事があった。どうして俺を連れて行ったのだろう。話し相手もなく高橋は近くに転がっていたサッカーボールを黙々とけり続けた。グラウンドの中央で仲間に指示を出す父親は、やはり遠い存在の人だった。
小学校を三度、中学校は二度転校。高橋は転校するたびに自分のキャラクターを失っていった。もともと人馴染みするほうではなかった。それでも…あの学校でずっと居られたらと思う事は今でもある。中学校ではいじめに遭った。人の心の痛みを知らない純粋な少年たちにとって人馴染みしない新参者は、恰好の餌食だったのだろう。クラスの協和のためそれは高橋の心をぐちゃぐちゃに引き裂いた。本当に自殺するのだったらあの頃だったのかも知れないな。俺はその頃からまだ立ち直れていない。立ち直れていないから自殺する。そうなのだろうか…?
浅い夢の中で昔の闇の根源を一つずつ探っていくうちに、何かストーリー性のある一つの答えが見つかったような気がする。だけど・・・所詮それは結果論だろう?今の自分の状態から過去の出来事をこじつけているに過ぎない・・・運命なんて・・・あるはずもない・・・。それでも、何度も何度も記憶の断片を思い出しては現在と過去を繋ぎ合わせる。高橋は必死に自分というものを探していた。
そして夜が過ぎ、朝が来て、世間は賑やかさを取り戻す。前の公園ではまた元気に子供が遊んでいた。
「まるで昨日の続きのようだな…」
高橋は寝ぐせの付きまくった髪をとりあえず水で洗い、顔を洗って外へ出た。コンビニで胃を満たすための食を買い、帰りに何気に郵便受けを見ると、親書と書かれた封筒が一通ポツンと入っていた。治験バイトからだった。
「あなた様の今の状態を見させて頂いた所、条件に充分当てはまりましたのであなた様を採用したいと思います。後日の日にちにまた面接事務所にご来所下さい。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大森製薬技研」
その日の夜、スーパーのバイトで木倉と顔を合わせた。休憩中に同じになったので話しかけた。
「木倉さん、例のバイト受かりましたよ。」
「おっ、そうかー良かったなぁ…がっぽり稼げるぜ!」
「あのぉ~、一つ疑問に思ったんですけど…
そんな割のいいバイトなら、どうして続けなかったんですか?」
木倉は、んっ?という顔をし、ほぼ灰になったハイライトを灰皿に押し付けた。
「ははっ、俺もやりたかったんだけどさ…。
なんか一回あのバイトを受けると、また受けるのにある程度期間を置かなきゃならねえみたいだからな…」
「そうなんですか…」
「つー訳で泣く泣くお前に譲った訳だ。あそこの変な事務員が誰か紹介してくれっつーからさ。」
木倉は次のタバコに火をつけ豪快に煙を吐き出しながら笑う。
「で、なんで俺なんですか?」
「何だろうな、気まぐれだよ気まぐれ。俺も友達いないからさ、あんたと同じで。で何となくあんたが俺と同じ匂いがしたから…」
「同じって…?」
「俺みたいにならないように気をつけろよ…。
…さてと…仕事だ仕事、まっ金が入ったら、
何かうまいもんでもご馳走してくれや…」
木倉はどうして木倉が自分と似ているなどと言ったのだろうか?性格も外見も特に似ているとは思わないが…。確かに友達はいないが…。案外木倉も寂しい人なのかもしれない。
そして高橋は3日後の昼、再びあの面接事務所へ向かった。
今日は平日という事もあってか、面接事務所近くの女子大の出入りは、この前来た時よりも幾分多い気がした。
「高橋さん、どうぞ、ではさっそく治験の方に入りますがよろしいですか?」
「ええ…」
「では、その前にこちらの契約書にサインを頂けますか?」
その内容には、この治験の内容を他人に話さないことの秘密義務が書かれていた。薬を作る上での秘密はライバル会社との競争においては当たり前かもしれない。特に不信感を持つこともなくサインをした。
「高橋さんには、ここで一週間程の投薬試験を受けて頂きます。その間、外部との連絡が取れませんがよろしいですか?」
特に連絡を取る相手もいないが…
「一週間、まるまるここでいるって事なんですか?」
事務員は仏頂面を崩す事無く、続けて答える。
「そうですね。今回の試験はある程度連続的に投薬し、データを試験から取るものですので…。何か不都合がおありでしたら…」
「いえいえ、それは大丈夫なんですが…あの聞きにくいんですけど、報酬はいくら位頂けるのでしょうか?」
事務員の顔は一瞬ニヤッとしたかのように見えたが、眼鏡をずり上げるとまた平静を保つ…
「治験に協力して頂いた方には、負担軽減費という名目で…まあお金を支払っているのですが、今回は一週間続けての試験となりますので二十万円となります。」
「二十万…そんな大金を…」
「ええ…高橋さんは何も気にする事はありませんよ。開発費は全て製薬会社から出ておりますので…」
…一週間で二十万…ざっと一日3万。世の中にはおいしい話が稀にあると聞くが…このバイトはまさにそれに当てはまりそうだが…やはり怪しすぎる。しかし、金さえ手に入ればそれでいい…最悪死んでしまっても、それはそれで構わないのだから…
「そうですか…いやあまりのお金だったものですから。そういえば、これは何の薬の開発なのですか?この前は教えてもらえなかったですけど…」
「そうでしたね、それは二階の診察室に行ってお話ししますよ。詳しい話は大森医師から行いますので。」
医師の名前は大森というのか…
「そういえば、お名前を聞いていなかった様な…」
「あっ…それは大変失礼致しました。私、事務員をしております、堀越と申します。ここの治験主治医が大森、看護師が市川と言います。」
堀越と高橋はこの前と同じくいったん外へ出て、壁に貼り付けられた錆びた階段を上る。
ホント…非常階段みたいだな…。高橋は前から気になってる事を言ってしまった。
「あの看護婦さん、採血の時かなり不慣れな感じがしたんですけど…大丈夫なんですかね?」
言った後で余計な事を言ってしまったなと思った。
「ははっ心配ありませんよ。確かにまだ看護婦になって日は浅いみたいですが、まあ採血は意外に難しいみたいですしね~。」
堀越はそう言って軽く受け流し、二階の診察室の扉を開いた。
「大森先生、高橋さんがみえました。」
大森は、奥に置かれたデスクに座っていた。
U字禿げの頭を少しだけこちらに向け、軽く
会釈した。高橋は堀越に促され、大森の前の椅子に座らされる。大森が手にした書類から目を離し高橋に話しかけた。
「高橋さん、このたびは当病院の治験に参加頂き誠にありがとうございます。さっそくこれから日程と注意事項を・・・」
なんだか、ツアーの添乗員のセールストークみたいな台詞だなと思った。治験もビジネスみたいなもんなのか・・・、それにしてはあまりにも知られていない業界だが・・・。
「先生、先に高橋さんにこの薬の内容について説明した方が…」
堀越が大森にそっと囁く。大森と堀越は数秒、意思疎通を図るように顔を見合わせややあって大森が再び口を開いた。
「そうだね…高橋さん、これは頭痛の新薬の治験でして…。この前も申しましたが、第一相の段階なので健康体に投薬する必要があるのです。投薬してそれで本当に効き目があるのか、害はないのかなどを採血や脳波を計ったりして調べます。」
「もし害が出た場合は…」
「害というのは、副作用の事ですね…。ご心配なく、第一相の治験ではごく少量の薬を投与しての臨床ですので、人体に対する危険性は皆無です。ですが万が一、副作用が後遺症となって残ってしまった場合には、製薬会社から全額治療費が下りるのでご安心ください。」
後遺症…副作用であっさり死ぬならまだしも…後遺症が残ってしまったら面倒くさいじゃないか。高橋の顔が曇ったのが分かったのか堀越が慌てて補足する。
「高橋さん、心配ないですよ。第一相の治験では健康体に投薬する事から、特に安全面には国の方から厳しく指導されています。当病院でもこれまで副作用が残った事例はないですし…」
大森も無言でうなずく。
「それではさっそく採血に移りましょう…」
堀越がさっさと高橋を促す。採血はこの前もやったと思うが…、きっとまた別の検査なのだろう。診察室の奥の扉が開き、新人看護婦のニセロリ市川が入ってきた。
「それでは高橋さん、今度は痛くないように採血しますので腕をめくって下さいね。」
先程の会話を聞かれたのかと思って堀越の方をちらりと見たが、堀越は相変わらずすました表情をしていた。採血の方は…見事に期待を裏切った。
その後もこの前来た時のような検査を2、3受けさせられ、
「それでは高橋さん、これから脳波も測定していきます。そしてそのまま引き続き薬の臨床の方へ入って行きますので…」
高橋は備え付けのベッドに寝かされ、頭に先っぽが吸盤のようなものが付いた器具をいっぱい付けられる。器具は測定器のようなものに繋がっている。脳波を測定するのだろう…。ピッピッピッ…
「よし、データ異常なし…高橋さん、脳波は異常なしです。いや実に健康な脳波ですよ。」
大森にお世辞を言われても今まで脳波なんて測った事もないから、どうも返しようがない。「それでは、これから臨床の方に入っていきます…。」
大森はそういうと、今度は二セロリに任せず自ら割と太い注射針を高橋の腕に突き刺した。 脳波を測る機械がメトロノームのようにピッピッピッ…とリズムを刻む。これが俺の脳の波動リズムなのだろうか?その音を聴いているうちに高橋の意識はだんだんと深い所へ落ちていった。
「…ノンレム睡眠に入りました…。」
「早いな…何分だ。」
「3分46秒です。」
「間違いなく薬の効果が出ているな…。やはり直接血管に入れたのが大きいか…かなり量は抑えてはいるが…」
「経口型にした方が良かったのではないでしょうか?」
堀越が脳波計を確認しながら大森を仰ぎ見る。「試作品はできているが…あれをそのまま投与したところで意味がないだろう…。経口型に比べて多少危険ではあるが、より正確なデータを取るにはこっちの方がいい。結果も早く出るしな…。」
「しかし副作用が出ては後々面倒な事にはなりませんか?」
「多少の副作用が出ても…」
大森は残り少ない髪の毛を器用にU字型に整える。
「…仕方ないだろう…。計画からだいぶ遅れている。田所さんに顔を合わすこっちの身にもなってくれよ。それに契約書にも副作用の事はちゃんと触れてあるわけだしな…ハッハッ」
「しかし…」
「大丈夫だよ…ずいぶん薬の量は抑えてあるんだ、心配ない。」
二人から一歩下がって、二セロリ看護婦市川が緊張した面持ちで突っ立っていた。
「あっ…市川君まだ居たのかね。とりあえず治験は一段落ついたよ。お茶でも入れてくれるかね。堀越君は何にする?」
「あの私、新米で何も分からないんですけど:::副作用がどうとか…治験って安全に行われるものなんですよね…」
市川は顔を紅潮させ、大森に少し喰ってかかる勢いで突っかかった。大森はまたも髪をU字型に整えながら…多分もうそれが癖になってしまっているのだろう。
「市川君…はは…いや何、少しでも確実なデータを取りたいという話だから…もちろん被験者には十分安全を考慮した薬の量を投与している。君は何も心配する必要はないんだよ。さーさ、突っ立ってないでお仕事お仕事、堀越君は珈琲かい?」
大森は市川の質問を軽く受け流し堀越の方へ向き直った。
「じゃあ私は珈琲頂きます…」
堀越もそれに応じる。
それでも市川はまだ動こうとせず、大森に突っかかろうとしている。
「先生、そういやお茶っ葉切れていました。よし…市川君、一緒に買いに行こうか…。」「えっでも…。…それにお茶っ葉くらい一人で買いに行けますよ。」
「いやいや、他にも色々買うものもあるんだよ。君の原付にはあまり積めないだろう?先生…切れかけてる薬もあるんで、田所先生のところにも寄ってきます。」
「そうか…それは助かるよ…しかし堀越君、じゃあ君一人でいいんじゃないか?別に市川君を連れて行かなくても…」
「少しは彼女にも仕事をさせないと…ほら市川君行くよ。」
堀越は大森の言葉を半ば遮るように外へ出た。突っかかり体勢に入っていた市川だったが、急に取り残された形になり、
「…じゃあ、私も行ってきますので…」と言い、すぐに堀越を追った。
堀越は、建物の裏側にある駐車場から手早く車を路地に回した。
同時に市川が階段から降りてきてウインドウ越しに堀越に何か言ったが、堀越は手で早く乗れと合図し、市川が乗り込むやいなや車を発進させた。
営業車の白いワゴンは女子大の前の狭い路地を女子大生をかわしながらも結構なスピードで駆け抜ける。
「堀越さん!」
「…何?」
「あっ、危ないですよ、そんなにスピード出したら。」
車はS字コーナーのように障害物を右に左に俊敏に避けていく。そのたび市川の体も大きく振られた。
「何言ってんだよ…。危ないのは君の方だろう。」
「…どういう事ですか…?」
「さっき君が先生に言った発言だよ…。」
「あれは、私はただ…」
「ただ…?」
「…ただ、堀越さんと大森先生の会話を聞いていたら、被験者さんにとって危ない事をやっているように聞こえて…。だって治験は安全に行われるものであって、人体実験じゃないんですよ!」
車は路地を抜け国道5×線に合流した。ターミナル駅側の片側4車線ある太い跨線橋を越え市街地に入る。路面電車が渋滞する車列を横目に悠々と車線を独占して進んでゆく。堀越の車も有無を言わさずそこに押し込まれる。
「こんなに混んでるとは思わなかったな、裏道から迂回した方が早かったか…」
市川の言葉に堀越は答えず膠着した車の列同様、車内も重い空気に包まれる。
「堀越さん!」
もう一度市川が切り出した。
「私、確かにまだまだ未熟な看護婦ですけど、それでも他の多くの医師や看護婦のように人を助けたい、人の力になりたいと思ってこの分野に就いたんです。例えそれが治験という分野でも…。だからいくら新米といえど、人の命を軽んじる行為があるとしたらそれは絶対に見過ごす事はできない…」
市川は言いたい事を言い切ったのか、口を堅く閉ざし窓の外に顔を向けた。
市街地のメインストリートには昭和半ばに建てられたビルやデパートが軒を連ねる。近頃の郊外の大型店舗によって何軒かの商業店舗はビルから撤退し、それはこの地域の社会問題になっている。
その空き店舗の前では、将来のメジャーデビューを夢見るストリートミュージシャンたちが、真っ昼間から多数の人通りに歌を思い思いに届けている。
「君が看護婦を志したのは、確か若くして癌で亡くなったお母さんの事がきっかけだと聞いたけど…。」
堀越が独り言みたく呟いた。市川は答えず、車の中に微かに聞こえてくるミュージシャンの声をなぞっていた。
「人は誰もが夢や希望そして信念を持って社会に入ってくる。だけど…それをずっと持ち続けて生きていく事はとても難しいことだ…。大勢の人…日本人だけで一億数千の人だかりが狭い所に寄り固まって生きていくには暗黙のルールが必要だからね…。きれい事だけでなく汚い事をやっていく必要があるのさ…。」
市川はキっと目を尖らせ堀越の方に振り返った。
「それじゃあやっぱり…」
「君も薄々気づいていたはずだよ。ただの治験事業ではないとね…。大体この不景気に希望通りの職種に就ける事自体を喜ばなくっちゃ…それに君には普通の看護婦よりもずっといい給料を払っているじゃないか…その事にも疑問を抱いていたんじゃないのかね?」
市川は堀越の言葉に思わず言葉を詰まらせる。確かに何か変だとは前から思っていた。大体この病院を知ったのだって、看護婦学校の先生の知人だという人からの紹介だった。学校の成績が特に良いわけでもなく、実習でもへまばかりする私をなぜ採用したのだろう。看護婦になれたことでしばらくはその疑問は忘れていたけれど…
「…じゃあそのお金は、…口止め料という事ですか?」
「君の考え方次第だよ。ただ少し特別な治験をやっている、だから給料が高いんだとね…。」
いつしか堀越の車は主要道が交わる交差点に辿り着いていた。グリーンの矢印が信号脇に表示され、路面電車は一足先に動き出した。
「一体大森先生は何を…何をやろうとしているんですか?」
「正しくは大森先生ではなく…これから会いに行く人だがね…。でもこれからの話はあまりにも重い話だから、君に言うのをためらってきたけどね…、でもこれも僕の役目なんだろうなぁ…。おっと青だ。」
車が路面電車の鉄路を跨ぎ大きく右折する。大学病院に着いたのは、それから10分ほどしてからだった。
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