◆11

 二人きりになると、静かすぎて現実味がなくなったように思う。それくらい、先ほどの出来事は異常だった。

 アデルはジーンにそっとささやいた。


「ジーンはやっぱり、探偵に向いていたわね」


 事件は解決した。嬉しいのに、ジーンとの別れが迫っていると思うと声に悲しさが滲んでしまう。

 アデルの心はこんなに明確に表現しているのに、受け取る気のないジーンには伝わらない。


「いいや、僕には向いていない。二度と御免だ」


 素っ気なく背中を向けるから、アデルはジーンの制服の背中に額をつけた。


「向いていないと言うけれど、あんなに毒に詳しいのはどうして? あれだと、探偵か警察になりたかったみたいよ?」

「そんなものになりたいと思ったことはない。飲まされたくないから、毒の特性は知っておいた方がよかっただけだ」


 ジーンは毒殺される恐れでもあるかのようなことを言う。

 どういう意味だろうかと首を傾げかけた途端、すぐ近くで声がした。


「あら、お邪魔をしてしまってごめんなさいね」


 驚いて振り返ると、そこにいたのはカヴァデール夫人だった。アデルは見られても困らないが、ジーンは大いに困るらしい。サッとアデルから距離を取った。


 思えば、カヴァデール夫人とは初対面の時もこのフロアだったから、部屋が近いらしい。そう考えたけれど、遺体を安置していた部屋の近くに無関係の客人を泊めるだろうか。


 その疑問が浮かんだ時、すでに遅かった。カヴァデール夫人はバッグから小さなピストルを取り出し、銃口をアデルに向けていた。


「さて、ちょっとそこのお部屋でお話しましょうか。ミスター・アッシュフィールド?」


 誰のことだ、とアデルは声も出ないほどに半ばパニックを起こした。それ以前に、カヴァデール夫人は一体何者なのだろう。

 ジーンはというと、自分の方が銃で撃たれたような痛々しい顔をした。


「あんた、誰だ?」

「部屋の外で立ち話だなんて無作法でしょう? 中でお話ししたいわ」

「昨日、窓からこっちを狙っていたのはあんたか。じゃあ、狙いはアデルじゃなくて僕だったわけだ」

「そうよ。マンチェスターに移り住んだくらいで完全に隠れたつもりだったのかしら?」


 カヴァデール夫人が一歩、また一歩と前に出て、ピストルの銃口がアデルのこめかみにピタリとついた。気が遠くなりそうだ。


 まさか非日常の続きがあるとは思わなかった。

 今日のことはあまりにも現実離れしていて、アデルは全部夢ではないかと受け入れがたい気分になるが、銃口の冷たさで現実に引き戻される。


 冷や汗を掻きながら、アデルは祈るように手を組んだ。

 言われるがままにジーンが部屋に入ると、カヴァデール夫人は威張って指示を出す。


「もっと窓際に行ってくださらない?」


 ジーンは厳しい面持ちのまま従った。

 カヴァデール夫人もアデルと一緒に部屋の中に入り、後ろ手で扉を閉めた――かと思ったが、少し空いている。完全に閉めてしまわないのは、自分が逃げるためだろうか。三人も入ると部屋が狭く感じられた。


 カヴァデール夫人はアデルのこめかみに銃をグリグリと押しつけ、ジーンになまめかしいほどの声で言う。


「さてと。そこから飛び降りるか、銃で頭を打ち抜くか、どちらがいいかしら?」

「この窓は転落防止のために、人が出られるほど開かないようになっている」


 そんなことを正直に言わなくてもいいだろうに。

 カヴァデール夫人はフン、と息を鳴らした。


「じゃあ、スペアの銃を貸してあげましょう。言っておくけれど、わたしを撃ったらこの娘を盾にするだけよ。見殺しにしてでもあなたは助かりたいのかしら?」

「な、なな、なんだってジーンを殺そうとするのっ!」


 アデルは極度の緊張で喘息のような呼吸をしながら言った。しかし、カヴァデール夫人は面倒くさそうに、アデルに押しつけている銃に力を込める。そこには慈悲などなく、エマとカヴァデール夫人は同種の人間に思えた。


「邪魔だからよ」

「へっ」

「彼に死んでほしい人が大勢いるの」

「そ、そんなぁっ」


 愛想はないし、口も悪い。けれど、ジーンはホテルで真面目に働くフットマンだ。命を狙われるなんて、面倒な客を相手にそこまで失礼な態度を取ったのだろうか。

 それでも、これはやりすぎだ。


「さ、手早くお願いね。わたしは忙しいの」


 カヴァデール夫人はバッグから回転式拳銃リボルバーを出し、それを床に落とすとジーンの方へ蹴った。


「弾は一発しか込めていないわ」


 ジーンは緩慢な動作で拳銃を拾い、それをじっと見つめた。時間を稼いでいるつもりだろうか。

 けれど、警察はエマを連れ、デリックの遺体を運び出した。すぐに戻っては来ない気がする。


 それとも、ホテルの誰かが気づいて駆けつけてくれるかもしれないという希望を捨てていないのか。アデルは眩暈がして倒れそうだった。

 それでも、目覚めた時にジーンが生きていないなんていうことは、絶対にあってはならない。


 アデルは死にたいと思ったことはないし、これからも生きていたい。だからといって、ジーンが死んだのではこの先の人生に幕が下りたようなものなのだ。


 これからも一緒に生きたい。

 あの仏頂面がたくさんの笑顔に変わる瞬間を見ていたい。


「わ、私を人質にしても駄目。ジーンには私のことは好きじゃないって言われたもの」


 これをカヴァデール夫人が信じるかどうかはわからない。でも、事実だ。

 ジーンは、アデルのことを好きではない。少なくとも、命と引き換えにするほどには。


 そこではた、と気づく。

 この場合、死ぬのはアデルの方で、それも失恋がおまけについてくる。なんて無残な最期だろう。


 考えただけで泣けてきた。

 ボロボロと泣き始めたアデルに、ジーンは心底困ったような表情を見せた。


「嫌いというほどじゃないと受け取ってもいいのかって、自分で言ったくせに」


 そうして、拳銃を自分に向ける。銃口をこめかみに当てながら、妙に穏やかな笑みを見せた。涙でぼやけるからそう見えるだけだろうか。


「あんたよりも、僕自身の方がよっぽど好きじゃない」


 それはどういう意味なのだろう。

 そんなにも自分自身を嫌っているのか。もしくは、自分自身よりもアデルの方が大事だと思えるようになってくれたとか。


 ひねくれたジーンだから、わかりやすい答えはくれない。だから、アデルはまたしても勝手に解釈するしかなかった。しゃくり上げながら呼びかける。


「ねえ、それって、私のことが誰よりも一番大事って意味?」

「……あんたのそういう都合よく解釈するところ、尊敬するよ」


 最後まで皮肉なことを言う。ジーンらしい。

 しかし、カヴァデール夫人はこのやり取りにイライラが募ったらしい。アデルは拳銃を握った手で頭を殴られた。痛くて涙が止まった。


「早くしなさい!」


 ジーンはこんな時でもため息をついていた。


「そいつは殺すなよ」

「ええ、目的はあなただけだもの。ベラベラ喋らないのなら生かしてあげるわ」


 こんな人の言うことはひとつも信じられない。ジーンが信じたとも思えないのに、どうしてだか反論しなかった。


「――というわけだ。アデル、このことは忘れろ」


 無茶を言う。忘れられるわけがない。

 嫌、と小さく呻いただけで、アデルには何もできることがない。


 ――本当にそうだろうか。

 このまま立ち尽くして守られて、それで喪う。そんな自分で満足か。


 今までなら、男性に命がけで守られたら、嘆きつつも少し嬉しい気持ちもあったかもしれない。

 でも、ジーンにはそんなことをしてほしくない。絶対に。


 アデルは首を動かせないながらにカヴァデール夫人をキッと睨みつけ、覚悟を決めて夫人の握る拳銃に両手で組みついた。


「なっ、この――っ」


 悪鬼のような形相のカヴァデール夫人だが、アデルも必死だ。銃口が天井に向き、パァン、と甲高く一発打ち鳴らされた。


 この時、ジーンは動いていた。

 けれど、それよりも先にカヴァデール夫人を押さえつけたのは、扉の隙間をこじ開けて乱入した男だった。


 ウィスラー夫人を連れてきた大柄な男性だ。説明も求めず、すぐさまカヴァデール夫人の腕を捻り上げた。

 苦痛に呻くカヴァデール夫人から、アデルはすぐさま離れてジーンに駆け寄った。ジーンは冷静に、リボルバーを床にねじ伏せられたカヴァデール夫人の頭部に向けている。


「それで、あんたは誰に頼まれた?」


 答えはない。苦々しい顔を背けるカヴァデール夫人に、ダークスーツの男が重低音を落とす。


「ミスター・パーカーか、ペラムといったところだろうと旦那様は仰られていたが?」


 それを聞き、カヴァデール夫人の足が陸に打ち上げられた小魚のように跳ねた。口よりも正直だ。

 先ほど発砲した音を聞きつけたらしく、ホテルのスタッフたちが集まってくる。慌ただしい足音がする中、ジーンは急いで彼に言った。


「ありがとう、ロダリック」


 ロダリックと呼ばれた男は、いえ、とだけ短く返してカヴァデール夫人を立たせた。

 皆、警察が殺人犯を連行して事件は解決したと思っていた矢先なのだ。何事かと慌てふためいている。


 駆けつけてきたのは男性スタッフばかりで、ロダリックは彼らに事情を話しながらジーンを見遣る。ジーンはアデルに小さくささやいた。


「ラウンジの人目につくところで待ってろ。後で紅茶を淹れるから」

「わかった、待ってる!」


 アデルがささやきに対するには大きすぎる返事をすると、ジーンは微苦笑して後ろを振り返らずにロダリックたちと出ていった。

 カヴァデール夫人は抵抗するだけ不利になると察したのか、何かの手違いだとばかりにとぼけた顔をしていた。

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