◆12
ぼうっとしたまま、アデルは覚束ない足取りでラウンジへと向かった。
すでにクレメンス(とマシュー)の姿はなかったけれど、彼がいたのだという熱気だけが残っていた。心ここにあらずな姉のそばには父がいて、父は別の客と話している。
姉だけでなく、父の様子もどこかおかしい。相手は小柄な老紳士なのだが。
アデルもどこかで見たことがあるような気はするが、誰だか思い出せない。
それでも、父が珍しいほど緊張しているのがわかった。多分、有名な人なのだ。
父がアデルに目を向けると、老紳士も淡い瞳をゆっくりとアデルに向けた。父は立ち上がり、アデルを呼び寄せる。
「ミスター・シアーズ、これが下の娘のアデルです」
シアーズ。
それでハッとした。
デーヴィッド・シアーズ――財界の大物である。
自分の好奇心をすべて金に換えるとされる人物で、彼が手がけた産業の多さをすべて把握している人がどれくらいいるだろうか。航空、鉄道、食品、音楽、デザイン、観光――アデルが覚えているだけでも色々とある。
このホテルはこんな大物が泊まるほど評価が高かったのか。
殺人事件の真っ只中だというのに、わざわざ来たというのも奇妙だ。よく似た人か兄弟ではないのかと、アデルは半信半疑だった。
しかし、小柄なのに妙な説得力がある。何かが常人よりも多く、分け与えるように溢れている。
シアーズはにこりと優しく微笑んだ。
「君がミス・アデル・ダスティンか。うん、少しばかりこの年寄りのティータイムにつき合ってくれるかね?」
断るという選択肢はもちろんない。父も姉も恐縮することしきりであった。
どういうわけだか、シアーズは父でもなく、姉でもなくアデルと話がしたいように感じられたのだ。
「お父様、私、ミスター・シアーズとお茶を頂いてからお部屋に戻りますわ」
父はアデルを置いていきたくはなさそうだったが、シアーズの関心がアデルに向いていることにも気づいていた。渋々、姉と共に席を立つ。
「では、ミスター・シアーズ。またロンドンでお目にかかりたく存じます」
「ミスター・ダスティン、ありがとう」
姉は無言で会釈をして、二人はアデルを心配しつつも離れていった。
シアーズは一応微笑んでいる。しかし、微笑んでいるからといって安心できる相手ではない。
「さて。私が君とだけ話したいと思っていたのを察してくれたようだね。賢いお嬢さんだ」
「い、いえ……」
ジーンなら、賢い? と首を傾げそうである。
こんな重要人物が一人でいてもいいのかと思ったけれど、もしかするとこのラウンジには警護の人たちもいるのだろうか。
アデルがそんなことを考えていると、シアーズはテーブルの上に置かれていた薄い
「このホテルはマンチェスターに来た際には必ず利用するんだよ。ここには友人の息子がいてね」
「そうなのですか?」
シアーズは目元だけで笑ってみせる。探るような目だと思った。
「彼はとても感受性の強くて、可愛げがないと皆に言われる子供だったかもしれないが、私とはよく気が合った。私には子供がいないから、彼と話すのはとても楽しかったよ」
デーヴィッド・シアーズと、友人として楽しくお喋りができる青年というのもピンと来ない。それでも、シアーズがその青年を気に入っているのは本当なのだろう。
「それは素敵ですね」
アデルが当たり障りのないことを答えると、シアーズはどうしてだか困ったように眉を下げた。
「ただし、彼の父親が死んで母親が財産を受け継ぐと、少々問題があってね。派手好みの女性だったから、あのままだったら彼が成人する前に遺産を使いきって息子の分を狙っていたかもしれない」
「それは、その息子さんがいくつの時でしょうか?」
「パブリックスクールにいた頃だから、十三、四歳だね」
パブリックスクールに通っておきながらホテルの従業員になるのかと考え、ふと同じことを何度も考えた気がした。
胸がざわざわとしてくるのは、答えに行きついてしまったからだろう。
「昔から勘がよかったよ。金遣いの荒い――いや、失礼――その母親もある日、車の事故で亡くなった。それで、彼の叔母が彼の後見人になると決まった時――彼は、その叔母が母親の車に細工をしたことを見抜いてしまった」
「そ、それは、遺産絡みで……?」
これがもし、ジーンの話なのだとしたら、ジーンはアデルの想像以上に大変な思いをしてきたことになる。誰か別の人の話であればいいと、思った。
「彼の叔母は、根っからの悪人ではなかったよ。彼も好いていた。母親よりも懐いていたかもしれない。それでも、卑怯なことは許せないし、見逃せない。彼に黙っているという選択肢はなかった」
「…………」
「そして、彼の摘発によって、彼の叔母は自ら命を絶った。それは彼のせいではなく、自責の念に堪えきれなくなったからだと私は思うが、彼はそう受け取らなかった。自分のせいだとね。少年の心には十分すぎる傷だよ」
違う、他の誰かの話であってほしい。
そうでなければ、ジーンが可哀想だ。けれど、そんなことを言ったら、その〈他の誰か〉は可哀想でもいいのかとジーンなら返しそうだ。
「私は、そんな彼が心配なんだ。もう十分立派な大人だけれどね。遺産も受け取り、自分で投資して増やしたりもしているし、生活の面では心配要らない。それでもやっぱり心配だから、ずっと言っているんだ。私の養子にならないかって」
アデルの、先ほどまで出かかっていた涙が凍った。
シアーズの養子になんてなったら、ジーンはアデルの手の届かない人になってしまう。やはり、誰か別の人の話であってくれないと困る。
嫌な汗を掻いていると、そのフットマンはやってきた。
「ダヴィーと……」
一緒のテーブルにアデルがいたから、ジーンはシアーズに向けかけた親しみを込めた表情をスゥッと引っ込めた。
それでも、シアーズは息子というよりも孫に向けるような優しい目をしていた。
「せっかくだから、ジーンの淹れた紅茶が飲みたい。おすすめの紅茶を淹れてくれるかい? こちらのミス・アデル・ダスティンにも」
「畏まりました」
恭しく答えてジーンは二人に背を向けた。シアーズはそんなジーンの背中を見守りながらつぶやく。
「君はジーンの背景を知らなかったのだろう?」
「え、ええ。少しも」
「知って、どう思う? 資産家で嬉しいかね?」
意地悪な質問をされた。目が笑っていない。
どんな答えを期待しているのかは知らない。下手な答えで気分を害し、アデルの父が失脚したらどうしようかとも思う。それでも、結局のところ本音はひとつだ。
「私にとっての問題は、資産がどうのというところにないのです。それ以前に、ジーンがどうすれば私をもっと好きになってくれるのかということですわ。今の私では、スパニエル犬にも勝てませんもの」
シアーズは、正直なアデルの気持ちを疑うのではなく、ああ、とうなずいてくれた。
「それは私も同じだ。犬を飼えばうちに来てくれるかと何度言いたくなったか」
「あら、色よいお返事はもらえていらっしゃらないのですね?」
「そこで飛びつくようなわかりやすい人間なら、ここで紅茶を淹れたりしていないだろう?」
「それもそうですわね」
などと言って笑い合っていると、不思議な感覚だった。クレメンスもそうだが、ジーンを案じる人といるのは心地よい。
「偉ぶっている客よりも給仕の総資産が多いなんて面白いというのが彼の言い分だが」
ジーンが言いそうなことではある。
シアーズは、まだジーンが近づいてこないか見遣りながらポツリと言った。
「本音は、人の多いところに紛れ込んで目立たないようにしていたかったんだろう」
「それは……」
「ジーンが私の養子になるという話が進めば、大金が動くことになる。それが気に入らない連中もいてね。だからロンドンを離れ、母親の旧姓を使い、マンチェスターを住処とした」
そういうことなのか。ジーンの謎は。
「あのカヴァデール夫人以外にもまだ危険な方がいるのですか?」
ラウンジでカヴァデール夫人が夫らしき男性と一緒にいたのを一度だけ見たような気がする。あれは依頼人か仲間だったのだろうか。
「……まだまだいるんだよ。残念ながら」
やっぱりジーンが可哀想だ。散々な目に遭っているばかりなのに、さらにまだ寄ってたかって痛めつけられている。
シアーズはそんなジーンの力になりたいのだとわかっているが、かえって状況を悪くしてしまっていた。
アデルがどうにかできることではないのだが考え込んでしまう。
すると、カートを押しながらジーンが戻ってきた。
「お待たせしました。〈ウィッタードオブチェルシー〉のイングリッシュローズです」
ジーンがポットから紅茶を注ぐと、薔薇の香りがふわりとアデルの心をほぐした。まず、シアーズに紅茶を差し出す。
「ああ、ありがとう」
「こっちこそ、無理を言ったのに助けてくれてありがとう。色々と調べてくれたおかげでスムーズに進んだよ。足りない部分はちょっとはったりも混ぜ込んだけど」
ジーンは素直な言葉を紅茶に沿えた。シアーズは薔薇の香りを嗅ぎながら穏やかにうなずく。
シアーズが背後にいたから、警察はジーンの好きにさせたのだと今ならわかる。バクスター警部もほとんど口を挟まなかったくらいだ。
「私がジーンの力になれることがあってよかったよ。ただ、それ以上の迷惑をかけたようだが」
「あれがダヴィーのせいだとは思っていない」
富豪の老紳士を愛称で呼ぶ。多分、昔からそうだったのだろうなと思わせた。
あのダークスーツの男性がウィスラー夫人を連れてきたのも、このシアーズの力添えがあって見つけ出せたということなのだろう。ミルトン家の事情も調べ上げたのはシアーズの息のかかった人間か。
「私がひと言、ジーンのことは諦めたと言いさえすればいいんだろう。なかなかそれが言えなくてすまなかった。でも、もうそろそろ言えそうだよ。こちらのお嬢さんのおかげかな」
「えっ?」
意味がわからないのはアデルだけだろうか。
ジーンは複雑な面持ちで答えない。二人の会話についていけないのは、アデルの知能が二人ほど発達していないからなのか。
無言のまま、ジーンはアデルにも紅茶を差し出す。ただし、シアーズに出した時のような柔らかさも笑顔もなく真顔である。それを見て、シアーズは微かに笑い、ゆっくりと紅茶を飲み干すとジーンに告げる。
「それでは、私はそろそろロンドンに戻るよ。スケジュールが立て込んでいるのでね」
「……ありがとう、気をつけて。また手紙を書くから」
「楽しみにしているよ。美味しい紅茶をありがとう」
ラウンジの入り口にダークスーツの男性が二人立っていた。一人はあのロダリックだ。
シアーズはアデルにもにこやかだった。握手を交わし、別れる。最後に、また、というひと言があったのは社交辞令だろうけれど。
シアーズが去ると、ジーンは少し気まずそうに見えた。
アデルが根掘り葉掘り聞き出すと思ったのだろうか。ジーンはそういうのが一番嫌いなのだとわかっていて、とても訊けない。
だからアデルは、代わりに言った。
「ねえ、ジーン。この紅茶は私が薔薇の香りが好きだから選んでくれたの?」
そんなわけあるか、という返答がくると予想した。しかし、ジーンは真顔で言ったのだ。
「そうだよ」
と――。
これには不覚にもアデルの方が面食らってしまったのだ。
ジーンは、アデルが何も言わないからかバツが悪そうに見えた。
「さっきは巻き込んで悪かった」
ああ、また詫びの品なのか。
落胆したけれど、それでもアデルは苦笑でごまかす。
「巻き込まれているのはジーンの方でしょう? ジーンが謝ることじゃないからやめて」
アデルは紅茶をよく味わいながらコクリと飲む。ジーンの紅茶を飲むのもこれが最後かと思ったら、目に涙が浮かんでいた。
別れがつらい。それでも、事件は解決したのだ。
アデルもそろそろ日常に戻らなくてはならない。その日常はロンドンにあって、そこにジーンはいないのだ。
「ねえ、ジーン。この紅茶はまた詫びの品なの?」
口に出して問いかけるとジーンは、いや、と答えて柔らかく微笑んでいた。その表情が心の表れであればいい。
「違うな。言うなれば、感謝ってところだな」
「感謝?」
意外な言葉が出た。アデルは涙が浮いた目をジーンに向けた。
ジーンは目を合わせてはくれなかったけれど、いつになく素直だった。
「あんたは僕を信じてくれたから、一応感謝してもいい」
好きになった人を信じるのは当然だ。それは自分を信じているのと同じくらいに。
何かを意識する必要はない。必要なことはすべて心が知っているのだから。
「愛情は感謝から生まれると思うの」
あとひと息。最後のひと押しが必要だ。
しかし、ジーンは手強い。にっこりと微笑んで――。
「そうだな、それが僕に当てはまるとしたらな。生憎とその発想はなかったが」
まるで手ごたえのない言葉をくれた。
「照れているのね」
「そういうことにしておく」
またしてもサラリと躱されたかと思うと、ジーンはテーブルを埋め尽くすほどの菓子を並べた。
マスカルポーネのチーズケーキ、レモンメレンゲパイ、コーヒー&ウォルナッツケーキ――。
「……ねえ、ジーン」
菓子を前にアデルはつぶやく。
「なんだ?」
ジーンは変わらない。アデルが帰っても、多分。
「私が帰ったら、少しくらいは寂しい?」
嘘でも寂しいと言ってほしかった。
今日はこんなことがあったから無理だとしても、父も忙しいのだから明日には帰ることになるはずだ。これ以上は引き延ばせない。
「それ、よくクレメントに言われた。それで僕は〈ちっとも〉と返す」
ちっとも寂しくないらしい。ジーンは寂しいという感情が湧かないのだ。
一人でいると気楽だと考える性格も手伝っているが、普段から人に囲まれて仕事をしているから寂しくない。寂しいのはアデルだけだ。
レモンメレンゲパイを口に入れ、レモンカスタードの甘酸っぱさにすすり泣いていると、ジーンがため息交じりに言った。
「クレメントは泣かないからいいけど、あんたは……」
「あんたじゃなくて、名前を呼んで」
「アデル」
「うん」
「チェックアウトする時は見送る」
「……うん」
ジーンは、どんな女性ならそばに置いてくれるのだろう。少なくとも、今のアデルではいけないらしい。
この人を振り向かせるには何が必要なのだろうか。
そこを考えたら、菓子の味がしなくなった。
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