◆10

「アデルがなかなか戻ってこないから、捜していたのよ」


 姉が沈んだ声で言った。

 いつからそこにいたのだろう。まさか、話を聞いてしまったのか。


 これ以上傷つくことがなければいいと思ったのに、さっそく傷ついてしまったのかもしれない。


 エマと警察は姉の横をすり抜けていく。姉はそんなエマを悲しげに見送った。

 聞いていたのなら、どこに同情の余地があったというのだろう。あんなにも身勝手でひどい殺人犯だというのに。


 当のエマはというと、罪を暴き立てるジーンに対しては毅然と反論してみせたくせに、斟酌する目をしていた姉を見た途端に傷ついて見えたから不思議だ。

 他人を恨まない姉とエマとはそもそもが違う。同じ境遇に置かれても、姉は誰も殺さない。


 姉が傷ついたのなら、妹のアデルが力になり、傷を癒していこう。

 アデルは心優しい姉の妹でいることを誇りに思うから。


 呆然とエマたちを見送る中、最初に動いたのはクレメンスだった。


「大丈夫かい?」


 クレメンスは他の誰でもなく、ジーンに向けて言った。

 それというのも、ジーンが青ざめて見えたからだろう。唇も色を失って白い。


「クレメント――」


 ジーンの口から彼の名が飛び出しかけた時、ずっと黙っていたレイチェルが立ち上がり、上ずった声を上げた。


「ク、? あなた、あろうことか世界のピアニスト、クレメンス・ミラー氏のお名前を間違えるなんて! フットマンどころか人間失格ですっ!!」


 ひどい言われようだ。

 名前を間違えたのはよくないが、こんな状況なのだから大目に見てほしい。


 レイチェルの剣幕に押されてジーンは顔を引きつらせていた。クールビューティーなレイチェルがここまで熱くなることなど、今までになかったに違いない。


「さあ、今すぐお謝りになって! さあっ!」

「…………」


 アデルはそんな様子を見て、どうしてレイチェルとクレメンスとが秘密の恋人だなんて考えたのだろうという気になった。卒倒しそうなほど顔を赤くして、どこからどう見ても熱狂的なファンでしかない。

 クレメンスはというと、驚きを交えつつジーンを庇ってくれた。


「ありがとう。でも、僕は自分が特別だなんて驕りたくはないからいいんだ。君もこんな事件に巻き込まれて大変だろうけど、これからも仕事に励んで。僕も陰ながら応援しているよ」


 こういうファンには慣れているのか、あしらいが上手だ。

 レイチェルは夢見る瞳でぼうっとうなずき続けている。壊れた玩具みたいだ。


「さあ、君もそろそろ仕事に戻らないとね。僕ももう帰るよ」


 と、レイチェルを部屋から送り出し、階段を下りていくところまで手を振って見送る。さすがというべきなのか、ファンサービスが行き届いている。


 しかし、クレメンスはなかなか帰らなかった。

 姉もレイチェルの反応で彼がよく似た他人ではなくクレメンス・ミラーであることに気づいたようで、今になって緊張していた。


 クレメンスは、はぁ、とひとつため息をつくと、唐突につぶやいた。


「言い訳を聞いてくれるつもりは?」


 なんの言い訳だろうかとアデルが首をかしげると、これにはジーンが答えた。


「あるよ。早く言え」

「ありがとう」


 偉そうなジーンの態度に、クレメンスは素直に礼を言った。

 なんだろう、このやりとりは。


「だって、殺人事件だ。さすがに心配するだろう?」

「そうか。見ての通り僕は元気だ。気は済んだか?」

「そうだなぁ。でも、久しぶりに顔を合わせたんだから、少しくらい愛想よくしてくれてもよくないか?」


 すると、ジーンはわざとらしくにっこりと微笑んだ。

 ああいう顔をする時は次に手厳しい言葉が飛んでくる。アデルはそれを身をもって知っているのだ。


「クレメント」


 また、間違えている。


「うん」


 なのに、普通に返事をした。


「来るなと言ったら来るな。お前は目立つんだ」

「変装して来ればよかったな」

「そういうことじゃない」


 呆然としているアデルと姉を一瞥すると、ジーンは渋面で吐き捨てるようにつぶやく。


「こいつとはプレップスクールからのつき合いだ。僕が務めている間、ここには来るなと念を押してあった」

「め、目立つから?」

「そうだ」


 しかし、クレメンスは楽しげに笑っている。


「いや、真面目腐って働いているところを僕に見られたくないんだろ? でも、ミス・アデル・ダスティンのおかげでジーンの淹れた紅茶を飲ませてもらえたよ。ずっと飲んでみたかったんだ。僕の好きなアールグレイを出してくれたし、嬉しかったな」


 こっそりと変装してホテルに来ていたのは、ジーンに会いにということだったらしい。あの日、ジーンはたまたま休みだったが。

 まさかこんな有名人が友達とは。


「ジーン、なんでお名前をちゃんと呼ばないの?」


 すると、ジーンは嫌な顔をした。クレメンスの方が笑いながら教えてくれる。


「初対面で間違えたんだよ。それからずっと、意地で直してくれないんだ」

「お前が改名すればいい。そうしたら間違いが修正できる」

「ひどいヤツだろう?」


 そんなことを言いながらも、クレメンスは怒っているふうでもない。

 グレーのフランネルの制服から膝小僧を出していた頃と、この二人の関係は変わっていないようだ。


 ジーンの素っ気ないこの冷たさが照れ隠しだと知っているからかもしれない。多分、アデルといる時のジーンも傍目にはこうなのだ。


「お前といると〈Y〉罰則ばっかり食らった。お前の方が迷惑だ」

「いや、僕がジーンにつき合って怒られてたんだろう? ラテンの句の清書、何百回したかな? 手が痺れて困ったよ」

「やっぱりお前の方が多いんじゃないか」


 どうしてジーンのような人を友人に選んだのかとクレメンスに訊ねることはしない。クレメンスもアデルに、こいつのどこがいいんだとは訊かないのだから。

 クレメンスはふと、アデルではなく姉に紳士然とした笑みを向けた。


「あなたは大変な目に遭われたようですね。よろしければほんのお慰みに、あなたのために一曲披露させてください」

「えっ、そんな……」

「ロビー・ラウンジに素晴らしいベヒシュタイン・ピアノがあったのを見て、弾きたくて指が疼いていたんです。さあ、参りましょう」


 と、姉に手を差し出す。この申し出を断れる女性がいるはずもなく、姉はクレメンスの手に恐る恐る手を添える。

 クレメンスはジーンに意味深長な笑みを向けて、それから姉を連れて離れていった。


 姉は不安そうに何度かアデルを振り返ったが、アデルは後を追わない。

 本当にひどい目に遭ったのだから、今くらい夢を見せてもらってもいいはずだ。気遣ってくれたクレメンスに感謝したい。

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