◆6

 ジーンがホテルの入り口で迎え入れていたのは、小柄な中年女性と大柄な男性だった。


 小柄な女性は、このホテルの中で浮いてしまっている。精一杯小綺麗な恰好をしてきたのかもしれないが、どこかちぐはぐに見えた。

 ここ十数年、自分のための服飾品など買ってこなかったようだ。下町や田舎の村で慎ましく暮らしているというところだろうか。


 もう一人の男性は、女性よりも十歳以上若く、三十代くらいに見える。ダークスーツを着込み、長身のジーンよりもまだ背が高い。そして、胸板もかなり厚い。

 二人に共通点はまったくなく、連れ合いには見えない。


 ジーンは二人に軽く挨拶し、男性が連れてきた女性をジーンに引き渡したようだった。女性は戸惑っている。


「ジーン!」


 アデルが呼びかけると、ジーンは嫌な顔をして振り返った。しかし、一瞬でその表情を取り繕っていた。


「では、ミセス・ウィスラー、こちらへ」


 ウィスラー夫人とやらは疲れきった顔に困惑を浮かべている。


「ほ、本当にノーマが……」

「ええ、残念ですが。後は警察の方が説明してくださるかと」


 ジーンはウィスラー夫人を気遣いながら目を伏せた。この時、その疲れた顔にアデルが見た死相が被さる。アデルは思わず息を呑んだ。ジーンが待っていたのはノーマの母親だったのか。


 ノーマは家を飛び出してから母親と連絡を取り合っていなかったと聞いた。その間に再婚でもしたのかもしれない。

 警察もノーマの母親と連絡を取ろうとしていたことだろう。ジーンには心当たりがあったらしい。


 ジーンのことだから生前のノーマとの会話を思い出し、そこから何かを引き出したに違いない。


 エレベーターに乗り込もうとするジーンたちにアデルも続いた。またしても、とてもとても嫌な顔をされたが。

 アデルが続いたせいでクレメンスとマシューまでついてきたのがいけないのかもしれない。


「……マット。ミスター・ミラーとラウンジにいてくださらない?」


 青筋を立てながら笑顔でアデルが言えば、クレメンスはそれを軽く躱した。


「いや、ここでさよならでは気になるからね」

「じゃあ、マットだけでも残って」

「えっ、そんなっ」


 完全なる部外者はマシューだ。彼はこの事件には一切関りがないとアデルでさえも確信している。


 アデルはマシューを置き去りにしてさっさとエレベーターのボタンを押した。その横でクレメンスが忍び笑いしている。ジーンはすっかり呆れていた。

 ウィスラー夫人は何も考えられないようで、ただ震えている。


 ジーンが向かった部屋は、304号室。

 デリックが亡くなった部屋だ。ここにバクスター警部たちがいるらしい。

 遺体はもう運び込まれているのだろう。それにしても、落ち着かないけれど。


 ジーンはドアをノックをして告げる。


「ミセス・ウィスラーをお連れしました」


 内側から扉が開く。この時、若い巡査が扉を開けた。

 デリックの遺体がまだそこに転がっていて、アデルは息が止まりそうになった。布はかけられているが、それでもそこにいる。


 ウィスラー夫人はその膨らみがノーマだと勘違いしたのかもしれない。卒倒しそうになったところをクレメンスが支えた。


「大丈夫ですか?」

「す、すみません……」


 ここにはバクスター警部と巡査だけで、ケード刑事はいなかった。

 ジーンはあらかじめバクスター警部には説明をしておいたのか、ジーンのフットマンらしからぬ行動にけちをつけることはなかった。


 アデルやクレメンス――余計な人間がついてきたことが気に入らないのか、バクスター警部は煙草臭いため息をつきながら言う。


「ミセス・ウィスラー、あんたがここで働いていたノーマ・ガードナーのおっかさんですな?」

「え、ええ。ノーマは……」


 カタカタと震えるウィスラー夫人を部屋へ誘い、バクスター警部はデリックに被せてあった布を捲った。ウィスラー夫人は、ヒッと声を上げた。


「こっちは娘さんじゃあありません。娘さんは安置所で預かっとります。こっちは、デリック・ミルトン氏。どうです? 見覚えはありませんか?」

「えっ?」


 思わずアデルが声を上げた。どうしてウィスラー夫人にノーマではなくデリックを引き合わせているのだ。見覚えとはなんだろう。

 当然ながら、ウィスラー夫人はかぶりを振る。


「ご、ございませんが……」


 すると、黙って様子を見守っていたジーンがつぶやいた。


「大人になった彼と顔を合わせたことはなかったと思います。幼少期の面影はありませんか?」

「そ、それは……」

「エイブラム・ミルトン氏の御長男ですよ。ちなみにそのエイブラム・ミルトン氏の病状は思わしくないようです」


 アデルもデリックの父親が末期がんであると聞いた。そう言いながらも何年も経つから、案外長生きするかもしれないとデリックはおどけていたが。


 ウィスラー夫人は、口元をすぼめただけで何も言わなかった。ジーンは、言いたくなさそうにしながらもつぶやく。


「エイブラム・ミルトン氏が死の淵にいても、まだ許せませんか?」


 この時、ウィスラー夫人の目が怯えから怒りに色を変えた。ジーンをキッと睨みつける。ジーンはそれを受け止めただけだった。


 ウィスラー夫人は答えたわけではないが、呻き声のようなものを漏らした。ジーンはそれでもさらに続ける。


「デリック・ミルトン氏も自分の異母妹に当たる存在を捜していたようですね。彼はノーマに辿り着いた。そして、死んだ。事実はそれです」

「もうあの家とは関わりたくありません! 日増しに大きくなるおなかを抱えて、私がどんなに惨めな思いをしたか……」


 デリックの父親が使用人に手をつけて孕ませたと、そういう話なのか。それも、それが発覚するなり放り出した。最低だ、とアデルは嫌悪感を隠さなかった。

 ジーンは淡々と告げる。


「ですが、エイブラム氏もその過去の行いを悔いていたそうです。エイブラム氏の死後、非嫡出子であるノーマにも遺産を分けると遺言状を書かれていたと」

「え……っ」

「だから、ノーマは殺されたんですよ。エイブラム・ミルトン氏よりも先に死んでもらわなくてはならなかったんです」


 アデルは、デリックの遺体のそばでこんな話をしているのがひどい冒涜のようにも感じられた。デリックがやめてくれと叫んでいるようで居たたまれない。


「デリックまで殺された動機は遺産なの?」


 デリックは長男で、他の兄弟はいないはずだ。エイブラム氏の妻も先に亡くなっている。

 隠し子が一人いたとしても、嫡男共々死んでしまった場合はどうなのだ。

 すると、ジーンはアデルに顔を向け、目を細めた。


「……この先は嫌な話になる。多少なりともデリック・ミルトン氏に関わったあんたにとってはな」


 だからといって、知らないで済ませられることではない。アデルはとうの昔に覚悟を決めたつもりだ。


「いいの、聞くから話して」


 ジーンの目には労りが確かにあった。それは誰に向けたものだろうか。


「ノーマを殺そうとしたのは、デリック・ミルトン氏だ。最近、投資で失敗したっていう噂があって、一応裏づけも取ったが事実だった。事業の穴を遺産で埋めたかったんだろう」


 ウィスラー夫人は、気を失った。床にくずおれる前にクレメンスが支え、バクスター警部がベッドに運んだ。

 けれど、遺体が横たわった部屋である。起きた時にまた卒倒しそうだが。


「で、でも、ノーマが殺された時、デリックはマンチェスターにいなかったわ。そんなの無理よ」


 すると、ジーンはそれを言ったアデルに冷ややかな流し目をくれた。


「だから、だ。直接じゃない。このホテルにはデリック・ミルトン氏の協力者がいた」

「そう、なの?」

「ああ。その協力者はノーマに毒を飲ませ、あんたの姉さんにニコチンを与えた。これによってあんたの姉さんは体調を崩し、ホテルに留まらざるを得ず、その婚約者のデリック・ミルトン氏がこのホテルに来る大義名分が自然とできたわけだ」


 目の前が眩む。姉がそんなふうに利用されていたとは思いもしなかった。

 あんなにも優しい姉を、デリックは少しも大切にしてくれなかった。


「言っておくが、あんたたち姉妹がこのマンチェスターに来なかったとしても悲劇はいずれ起こった。ただ手法が違っただけの話だ」


 こんな時だけれど、わざわざ言い添えてくれる台詞にジーンの優しさを感じた。

 しかし、デリックたちがこれ幸いと姉妹を利用したのは事実だ。


 涙ぐむアデルに、ジーンは苦虫を噛み潰したような表情を見せる。上手い慰めが言えないからだろうか。


「……だから、嫌な話だと言ったんだ」

「ええ、そうね。とても嫌な話だわ。でも、事実なら知るしかないじゃない」


 デリックは姉を婚約者に選んだが、本当に結婚するつもりはあったのだろうか。

 イングランド銀行重役の父がいれば何かと有利だと、利用価値を見出してはいたのかもしれない。


 姉自身にはなんの執着もなかったのか。

 だから、同じ娘なら妹のアデルでもいいと思ったのが、初対面の時のあの失礼な態度だとしたら許せない。


 死者に対して何を言っても始まらないが、悼む気持ちが薄れていく。


「では何故、その黒幕たるデリック・ミルトン氏は殺されたんだ? 殺害したのは協力者ということか」


 不意にそこに立っていたクレメンスが口を挟んだが、ジーンは怒るでもなく自然に話す。


「そうだ。協力者が彼を裏切った。……裏切ったというのも違うな。彼が知らなかっただけで、協力者は最初からそのつもりをしていたはずだ」


 そこで一度言葉を切ると、ジーンはアデルに言った。


「ここからは、あんたにとってもっと嫌な話だ。姉さんのところに行ってろ」


 今さら立ち止まることはできない。どんな真相でも知らずにこの先の人生を生きていけない。アデルには受け止めるつもりがある。


「いいえ、最後まで聞くわ」


 そうしたら、ジーンは嘆息した。やめておけばいいものをとでも言いたげだ。

 ただし、実際にそれを口には出さなかった。アデルが望むのならもう止めないと。


「真相はアトロポスの口から聞こう」


 ジーンはそんなことを言った。


 アトロポス――ギリシャ神話の女神だ。寿命という運命の糸を断ち切る女神。

 ノーマとデリックは、若くしてアトロポスによって運命の糸を断ち切られた。


 この無慈悲な女神は、まだ平然とこのホテルで働いているのだろうか。

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