◆2
アデルは朝食を終えると、待ち合わせの時間まで再び鏡の前で服装をチェックした。イヤリングが見つからないのがどうしても惜しまれるけれど。
しかも、コートを羽織ったら下のワンピースはすべて隠れた。時間をかけて悩んだ甲斐はあったのだろうか。
それでも気を取り直し、今日はどんなことが起こるだろうかと、期待に胸を膨らませながらアデルはスイートルームを出た。
エレベーターを使って降りると、カヴァデール夫人と鉢合わせした。今日はグレーのツイードのスーツで、背が高いからこれもよく似合っている。
「あら、ミス・ダスティン。ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、ミセス・カヴァデール」
「お出かけかしら?」
にこやかに訊ねてくる。女性は鋭いから、デートだと見通されている気がした。
「ええ、少しお買い物に」
「おめかしして可愛らしいこと」
やはり、気づかれている。相手がこのホテルのフットマンだとは思わないかもしれないが。
カヴァデール夫人の視線をやんわり躱しつつ、アデルは急いだ。
正面玄関は使わない。裏口で待ち合わせている。
あのジーンが素直にアデルとデートしてくれるはずもなかったので、少々脅すような形になってしまったが、それも愛故にということで、そのうちにわかってくれるだろう。
朝だというのに陰になって薄暗い裏手の路地に、ホテルの制服ではない、キャメルのジャケットを羽織ったジーンが不機嫌そのもので立っていた。アデルは嬉しくなったが、ジーンは冷ややかである。
「さっさと用事を済ませて戻る。行くぞ」
――連れていってくれなかったら、あなたのいないラウンジで一日、私はあなたに振られたって泣きながらお茶を頂いているわね、きっと。
そんなことを言ったのが気に入らなかったのだろう。しかし、背に腹は変えられない。
アデルは不機嫌なジーンに言い訳をする。
「待って、ひとつ言わせて」
「うん?」
「イヤリングがあれば完璧だったの」
「…………」
アデルが何もつけていない耳たぶに触れながら言うと、これ以上ないと思ったのに、ジーンはさらに冷ややかな目をした。
「でも、見つからなくて。昨日つけていた白いお花の。ねえ、ジーン。帰ったら探すから、姉さんのイヤリングを見つけた時みたいに助言を頂戴」
すると、ジーンは深々と嘆息した。
「……あんたみたいなタイプが物を失くす時に法則性はない。手当たり次第に置いて忘れたか、どこかで落としたというのが妥当だ。ホテルのフロントに届けられていないか確かめてみろ」
法則性がないと。ないのかもしれない。アデルはよく物を失くす。
「ええ、そうね。帰ったら聞いてみるわ」
にっこりと笑いかけると、なんとなく呆れた顔をされた。まさか、冗談か皮肉の類だったのだろうか。
「ジーンって、よく人のことを観察してるわね。人と接するのが好きなの?」
人間が嫌いだったら給仕など仕事に選ばないだろう。人と接するのが好きだからこそ、色んな人間が集うホテルという場にいるのではないのか。
しかし、アデルの考えはジーンからすると、とても的外れであったらしい。
「いや、全然。紅茶は好きだが、人はそれほど好きじゃない」
「……そうなの?」
わざわざ嫌いなことを職業にしているらしい。何故だ。
呆けたアデルに、ジーンは真顔で告げる。
「人が好きなわけじゃない。よく見ているとしたら、その相手が僕にとって敵か味方かを見極めるために見ているだけだ」
「……そ、そうなの?」
やはり、ジーンは変わっている。一体、何を考えて生きているのだろう。
けれど、そのよくわからないところを解明したいとも思う。
「ジーンは、人が多いロンドンは嫌い?」
ふと、それを訊ねてみたくなった。ジーンはこのマンチェスターに馴染んでいるようには見えない。多分、以前はロンドンにいたのではないかと思えた。
案の定というべき答えが返ってくる。
「ああ、嫌いだ」
十八世紀の文豪、ジョンソン博士の『ロンドンに飽きた人は、人生に飽きたんだ』という言葉は有名である。ロンドンは魅力に溢れているのに、そのどれにも心が動かなくなっている。
「人生に飽きたの?」
試しに言ってみると、うなずいていた。
「そうかもな」
ジーンはそれだけ言うとアデルに背を向けて歩き出した。広い背中が寂しく見えるのは、こんな話をした後だからか。
人生に飽きるには早すぎる。
ジーンは見切りをつけたつもりかもしれないが、人生にはまだまだ楽しみがたくさん残されているはずなのだ。それをアデルが一緒に取り戻していけたらいいのに。
――なんてことを考えていたせいか、置いていかれそうになった。アデルは焦って追いかける。
アデルは移動時には常に車に乗せてもらっているので、こんなふうに歩いて出かけること自体が稀なのだ。
それも、ここはマンチェスター。
土地勘がまったくない。はぐれたら大変だ。
その前に、腕を組んで歩きたいと思っていた。なんとかして実現したい。
慌ててジーンの背中を追いかけていると、道は明るく開けた。人通りもある。
朝の忙しない足取りがアデルの歩調とはまるで合わず、隙間を縫ってジーンの後を追うのも容易ではなかった。
すぐに人にぶつかってしまう。忙しい時間帯で気が立っているのか、怖い顔をされた。
しかし、その青年はぶつかったアデルを見るなり態度を改める。
「お嬢さん、お怪我はありませんか?」
急に紳士になったが、さっきの怖い顔は忘れない。
「え、ええ。ぶつかってごめんなさい」
「いいえ。あなたのように美しい方が一人で出歩くにはこの町は物騒なところですよ」
ぶつかっておいて失礼だが、話が長引くと困る。本気でジーンに置いていかれてしまう。
アデルが足踏みしたい心境でいても、青年は気づかない。熱のある視線を向けてくるだけだ。
以前は嬉しかったかもしれないが、特定の相手ができると粘りつく視線が煩わしいと感じてしまう。
真剣に困っていると、先に行ったはずのジーンが戻ってきていた。
「連れが何か?」
綺麗なアクセントで吐かれた台詞は、よく切れる刃物のようだ。
青年は怯み、アデルは手を伸ばしてジーンの腕にしがみついた。ジーンの腕が拒絶するようにピクリと動いたが、なんとか耐えたというところだ。
「私がぶつかってしまって、謝っていたところなの」
アデルがジーンを見上げて甘えた声を出すと、青年は面白くなさそうに目を細めた。今になって自分が忙しかったことを思い出したらしい。さっさと足早に去っていく。
青年の去り際を眺めつつ、ジーンはぼやいた。
「もういいだろ?」
だから放せと言いたいのだろうが、一度捕まえた以上、放す気はない。
「よくないわ。ジーンったら歩くのが速いんだもの」
ジーンはアデルを振り払うのを諦めたようだ。
ここでもがくだけ時間の浪費で、それならば腕に重りをぶら下げたまま目的を達成してさっさと帰った方がいいと踏んだらしい。
「……まず、手紙を出す」
ボソリと言われた。
「手紙?」
「そうだ。ポストボックスに入れるだけだ」
ジーンが手紙を出すような親しい相手というのがピンと来ない。
ジーンとは一緒にいても、彼の背景が浮かび上がってこないのだ。良い教育を受けていたらしいとわかるくらいか。
それでも、根掘り葉掘り訊いてしまうとジーンは嫌がるだろう。少しずつ、もう少し親しくなれたら訊ねてみたいけれど。
赤いポストボックスは通りの向いにあった。
「ここで待ってろ」
すぐそこなのだから一緒に行ってもいいのに、アデルについてきてほしくないらしい。アデルが宛先を見たところで誰だかわかるわけでもないのに、それでも見せたくないのだろう。
「そう。わかったわ」
物分かりのいい女を演じ、アデルは微笑するが、その微笑にジーンが目を留めていた時間の短いこと。
それでもアデルは健気に待つ。街灯の下で、立ち姿が綺麗に見えることを意識しながら。
どうでもいい男たちが振り返っていく。そわそわと、アデルに話しかけたそうだ。
けれど、無駄に愛想は振り撒かない。アデルが見ているのはジーンだけだ。
ポケットから折りたたんであった封筒を取り出し、万年筆で宛名を書き出した。
事前に書いておけばいいのに書いてこなかったらしい。そこが何故かジーンらしくないような気がした。
赤いポストボックスへ手紙を投入する。日曜日と法定休日以外ならすぐに届けられるはずだ。
「これでジーンの用事は終わったの?」
「一応」
返事が素っ気ない。
それから、アデルの周りをうろついていた男たちに気づいたようだが、ジーンはチラリとアデルを見遣り、軽くため息をついただけだった。
「で、なんだ? チョコレートだったか」
「ええ、チョコレートのお店にも行きたいわ。でも、急がなくていいの。ゆっくり行きましょう」
用事だけをさっさと済ませてしまったら、早々に帰るしかない。それでは寂しすぎる。ゆっくり、ジーンと時間を共有したいのだ。
そんなアデルの気持ちを、ジーンは面倒くさいなとしか思わないのだろうか。
「ゆっくりするまでもなく、ここから看板が見える」
と、ジーンは通りに面したガラス張りの店を指さす。黒いテントはシックで高級感があったけれど、近すぎて嬉しくない。
「ほら、行くぞ」
そんな二人の前を、マンチェスター発祥の紅茶メーカー〈ブルックボンド〉の幌を模したリトルレッドバンが走り去る。同業の紅茶メーカーでも〈リプトン〉のシャムロックカラーの宣伝車とは対照的だ。
ストリートをアデルはジーンの後ろに続いて渡った。店の扉を潜ると、チョコレートの甘い匂いに満ちている。先ほどの不満も忘れて、アデルは目を輝かせた。
商品棚には、カラフルな包装紙に包まれて並ぶチョコレートの数々。
定番商品に加え、カルダモン入りのトリュフ、チリペッパーやアールグレイ味のチョコレートバーなどの変わり種まである。
店内をぐるりと見渡すと、ジーンが出してくれたローズクリームのチョコレートを見つけて心が躍った。
「あった! ああ、姉さんにバイオレットを買って帰るわ。チョコレートの詰め合わせをもらうと、決まって姉さんはバイオレットを取るのよ」
それくらい姉はバイオレットが好きらしい。アデルはローズの方が断然好きなのだが。
しかし、ジーンはトレイの上にチョコレートを載せるアデルに意外なことを言った。
「せっかくだから、今日は姉さんの分もローズにしておけば?」
「どうして?」
「あんたの姉さんは、あんたのためにバイオレットが好きって言ってるだけじゃないのか? たまには違うのも食べたいかもしれないし」
皮肉でもなんでもなく、ジーンは自然な表情を浮かべて言った。
アデルの好物だから、姉は遠慮してローズクリームのチョコレートを避けていたとジーンは考えたようだ。今まで、チョコレートを前にしたアデルはただ喜ぶばかりで、それを一緒に食べている姉の表情に気を留めたことがなかった。
けれど、姉の性格からすると十分に考えられることである。
――よかったわね、アデル。
いつもそう言って微笑んでくれていた。
アデルはトレイを手に持ったまま、呆然と考えた。
「ええ、そうするわ……」
無邪気で無神経な女の子。それがアデルだ。
姉はそんな妹でも可愛がってくれた。あの優しい気遣いに、アデルは気づきもせず感謝もしないままだった。なんだか無性に姉の顔が見たくなる。
真剣に考え込んだアデルに、ジーンは珍しく微笑んだ。本当に、ジーンはアデルの頭の中が覗けるのではないだろうか。
今までのボーイフレンドたちのように褒めそやしてくれない半面、こうした気づきを与えてくれる。やはりジーンはアデルにとって特別だった。
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