◆3
結局、ローズクリームのチョコレートだけでなく、バイオレットとゼラニウムも買った。今日はアデルがそれを食べようという気になったのだ。
チョコレートが入った持ち手つきの紙袋を片手に、アデルは店の前でジーンに笑いかける。
「ありがとう、ジーン。ねえ、でももう少しだけゆっくりしてから帰りましょうね」
もう帰るのでは早すぎる。切ない。
しかし、ジーンの方にはなんの未練もないらしい。
「警察に内緒で来てるくせに。あとでうるさく言われるのは僕の方だ」
気になるのはそこかと、アデルは苦笑した。
「それなら、もういいのよ」
すると、ジーンは、うん? と顔をしかめた。
どうやら、ジーンはまだ何も知らないらしい。
「今朝、出かける前にバクスター警部が来たの。それでね、ノーマの死は自殺ということで落ち着いたから、もう自由にしてもらってもいいって」
この時、ジーンは初めて取り乱したような顔をした。
「嘘だろ?」
「本当よ。状況証拠からして自殺しか考えられないって」
ジーンは明らかにその判断に衝撃を受けている。プラチナブロンドの髪を掻き上げ、ブツブツと零した。
「そろいもそろって馬鹿しかいないんだな」
とても失礼なことを言っている。
「ジーンは他殺だと考えているのね?」
正直に言うと、アデルもだ。生きたノーマと顔を合わせたのは一度きりだが、彼女は生命力に溢れていた。死とは無縁の輝きを持っていた。暗い影はなかったはずなのだ。
「当然だ」
はっきりとジーンは断言する。けれど、警察が調べても状況証拠が見つけられなかったというのだ。ジーンは何故、そんなにもはっきりと言いきれるのだろう。
「どうしてそう思うのか訊いてもいいかしら?」
ジーンは何に気づいたのか。
この時、ジーンは少し考え、それから軽く目を伏せた。
「ノーマほど殺しやすい娘はいないからだな」
また、とんでもなく怖いことを言う。
「とりあえず、そこの公園にベンチがあるから、そこまで行くか」
「え、ええ」
歩きながら話すのかと思えば、腰を据えて話してくれるらしい。
緑とコンクリートの整えられたガーデンは、平日でもいっぱいの人だった。寒い中でも頬を紅潮させながら、芝生でフットボールを楽しむ男性たちもいる。ロンドンのグリーン・パークとそう変わらない風景である。
これらは産業革命の頃のマンチェスターからは考えられないような穏やかさだろう。
人は多かったが、丁度良くベンチから立ち上がった人がいた。ジーンはすかさずベンチにドカリと座り、しばらく黙って頭を整理しているふうだった。それから意外なことを言い出す。
「チョコレートの包装紙を分けてくれないか」
「ええ、いいけれど?」
アデルはジーンの横に座り、紙袋から茶色のクラフト紙を抜き取ってジーンに手渡す。ジーンはそれを受け取るなり、また予測のつかないことを言った。
「少し後ろを向いて」
わけがわからないなりに従うと、ジーンが包装紙に何か細工している気配があった。
「よし、いいぞ」
言われて振り返ると、ジーンは折り畳んだ三枚の紙を手に持っていた。手持ちの万年筆で書いたらしく、それぞれに書き込みがある。
ジーンはそれをアデルに見せながら説明し出した。
「これはちょっとしたテストだ。僕があんたに選ばせたい答えを選ばせることができるかっていう」
「なぁに、それ?」
「もし僕があんたを毒殺しようとしたら、どうするかってことだ」
ニヤリ、と不敵に笑って言われた。アデルはショックである。
「ジ、ジーンは私を毒殺したいくらいうっとうしいと思ってるの……?」
見る見るうちに目に涙を浮かべたアデルに、ジーンは少し焦っていた。
「テストだって言ってるだろ」
それにしたって、なんでこんなテストなんだか。
アデルは納得したような、しきれていないような心境でジーンにつき合う。
いつもの、手品師のように優雅な手つきで、走り書きのある包装紙の切れ端をトランプさながらに扱った。
「まず一番。これはあんたの好きなローズクリームのチョコレートだ」
表に〈ローズチョコレート〉と書き込みがある。アデルはうなずいた。
「二番目は、あんたの嫌いなラプサンスーチョン」
〈ラプサンスーチョン〉とある。そして、三枚目は〈フライドトマト〉。
「三番目、これはいつも朝食で出しているフライドトマトだ。さあ、この三つの中のどれに毒が仕込まれていると思う?」
「え、ええと……」
アデルがじっと走り書きとにらめっこしていると、ジーンは続けた。
「毒入りじゃないと思うものを選んで引いてみろよ。三つのうち、ひとつにしか毒はない。あんた自身に選ばせるんだから、十分回避できるはずだ」
ジーンがアデルに毒を盛るとしたら、どうすればそれを口にするのか。何に入れればいいのかという話だ。
好物か、あえて嫌いなものかという。
三択なのだから、いくらでも躱せる。アデルは〈二番〉を手に取った。
「これにする。私、ラプサンスーチョンが嫌いだなんて言っていないわ」
にこりと余裕を見せて笑う。
実際、あの匂いは嫌いなのだが。ラプサンスーチョンは上流階級に好まれるというから、見栄を張りたいというのが子供っぽいかもしれない。ジーンがそんなことまで読んでいるだろうか。
「開いて見たらわかる」
真顔で言われた。絶対にこれは違うと自信を持って選び取ったのだ。
しかし、四つ折りの紙を広げて見て、アデルは閉口した。
そこには髑髏マークが描かれていたのだ。
「……なんで?」
つまり、大当たりである。
「まさか、全部に書いてあるんじゃないの?」
そう疑いたくなった。ジーンは笑いを噛み殺しながら、残った他の二枚もアデルに手渡す。
その二つを広げてみると、どちらも〈セーフ〉と書かれている。すり替える隙はなかったはずだ。
アデルが愕然としていても、ジーンは笑っていた。本物の毒だったら笑えないが。
「あんたは単純すぎるな」
ひどい言い草だ。アデルは口を尖らせる。
「どうして私がこれを引くと思ったの?」
「好物のローズクリームのチョコレートは選びづらいだろ? いかにも選んでくれって言ってるようなものじゃないか」
しれっとジーンは説明する。確かにその通りだ。そこまで自分は単純じゃないと思って避けた。
それから、とジーンは続けた。
「フライドトマトは――あんた、トマト嫌いだろ?」
「えっ? そんなことは……」
「いつも残してる」
バレていた。ジーンは本当に細かいことをよく見て覚えているらしい。
「酸っぱいのが苦手なだけなの」
「やっぱり嫌いなんじゃないか」
それを言われると反撃できない。ジーンは軽く笑った。
「あんたはトマトが嫌いなことを僕に知られていないと思ってる。だから無意識のうちに避けてもいいと判断した。真ん中、ラプサンスーチョンが苦手なのは僕も知っている。でも、あんたは認めない。だからあえて真ん中を取ったんだ」
自分の心理なのに解説されてしまった。
「つまり、相手の性質をよく観察して知っていれば、誘導して毒を自発的に飲ませることもできるはずだ」
ジーンはそれを計画しないでいてほしい。アデルはあっさりと殺されてしまう。
はあ、とため息をつかれた。
「ノーマもあんたと同じくらい単純な子だったからな。あっさり騙されたんだろう」
でも、とジーンは言葉を切った。
「だからって、犯人も捕まらないまま自殺扱いはひどすぎる」
ノーマも本当に無念だろう。アデルだって、もしそんなことになったら墓の下から出てくるかもしれない。あまりにも可哀想だ。
「ジーン、心当たりがあるのなら警察に言ってあげた方がいいと思うわ」
探偵小説好きなデリックは何か手がかりをつかめただろうか。昨日来たばかりではそれも難しいだろう。
今回は最初から関わっているジーンの方が適役なのだ。
それなのに、何故かジーンは自分なりの考えを警察に言うのを嫌がっているように見えた。どうせ取り合ってもらえないと思うからか、手柄の横取りをされるというのだろうか。
うぅん、と曖昧な返事をしている。
「本気で自殺説を取るつもりなら、なんとか誘導しないとな」
名探偵のように晴れ晴れしく推理を披露するのは嫌なようだ。
ジーンがそれをしたら、アデルは惚れ直すのだけれど。きっと、とても様になる。
そもそも、ジーンはホテルで給仕をしているのが少々勿体ない人だ。
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