◆3

 そんなことがあったすぐ後だからか、アデルはマシューが出るコンサートへの関心が薄れていた。このために来たというのに、行くのが面倒になったくらいだ。

 このアデルの心情を知ったら、マシューは嘆くかもしれないけれど。


 ディーンズゲート駅に近い、アルバート・ホール・マンチェスター。


 円形の、窓にはステンドグラスという一風変わったネオ・バロック様式の建築物が舞台である。収容人数も多く、マシューがこのようなホールを客で埋められる実績を持つわけではない。

 むしろ、メインは指揮者とピアニストである。


 ピアニストは新進気鋭のクレメンス・ミラー。

 確か、二十五歳。繊細な、それでいて力強い音色と正確な指裁き、美しい調べに見合った容姿。つまりがハンサムで人気があるということだ。彼の一挙手一投足は映画俳優ほどに騒がれる。

 そのミラーが出る以上、マシューもハンサムではあるが、あの才能を前に霞んでしまうのは否めない。


 アデルは客席に座り、姉と共に演奏を聴いていた。マシューもこの大舞台でしくじるわけにはいかないのだ。必死に、食らいつくようにしてヴァイオリンを奏でていた。

 そんな演奏を、アデルはあくび交じりに聴いておく。


 マシューの頑張りは伝わるし、ミラーも素敵だと思う。老指揮者の采配もさすがだ。もちろん、エルガーやホルストが嫌いなわけではない。


 ただ、どうにも気が乗らない。興味が湧かない。

 それというのも、アデルの関心が他所に移ったせいである。


 ここへ来ると決めた時は、マシューのことはボーイフレンドの中ではそこそこのお気に入りだったはずなのだ。マシューはお固いアデルの父には気に入られていないが、いい顔をしなかった父を説き伏せてマンチェスターに来る程度には関心があった。

 けれど今は、あの不思議なフットマンのことが気になっていた。


 ロイド。

 ファーストネームを知りたい。

 あの手捌きを眺めながらティータイムを楽しみたい。


 昔から、アデルは気ままで飽き性だという自覚はあった。

 けれどそれは仕方のないことだと思う。


 世界は魅力的な物や人で溢れているのだから。

 手に抱え込める分だけで満足するなんてことはできないのだ。




 ホールを埋め尽くす拍手の音でアデルは我に返った。

 やっと終わったようだと、アデルもおざなりな拍手をする。姉はもっと真剣に感動を伝えていたかもしれない。姉の耳たぶに光るイヤリングを、アデルはぼうっと見つめた。


「もう帰るの? 楽屋には寄らなくてもいいの?」


 姉がさっさとホールを出ようとするアデルと中とを見比べながら戸惑っていた。

 楽屋に寄って、マシューにひと言ねぎらいの言葉をかけるべきなのかもしれない。そうしたら、ミラーにも挨拶できるという僥倖が訪れる可能性だってある。


 そうなのだが、気が乗らない。ホテルに帰りたい思いの方が強かった。

 さっさと帰って、寝て、朝になったらホテルのラウンジに行くのだ。それを楽しみにしている。


 明日はもう少し長く話してみたい。長く話してみたら案外退屈な人かもしれないし、もっと魅力を感じるかもしれない。

 どちらにせよ、あのフットマンのことが気になる。


「いいのよ。マシューならまたロンドンで会うでしょうし」


 呼ばなくても、マシューなら勝手にやってくる。ここマンチェスターでわざわざ会わなくてもいい。


 姉の方が気を遣っていて、マシューに申し訳ないような気がしてしまうのかもしれない。そんなに色んなことに気を回しているから疲れやすいのだ。


「でも……」

「いいのよ。それくらいで機嫌を損ねるのなら、それまででしょう? 本気で私のことを好きなわけじゃないわ」


 本当にアデルのことを想っているのなら、楽屋へ寄らずに帰ったくらいで怒ったりしないはずだ。それくらいで怒るようでは紳士とは呼べない。


 この気弱な姉に、言い出したら聞かない妹を諭すことはできない。困惑した表情を浮かべ、何度も後ろを振り返りながら、そう、とつぶやいただけだった。


 タクシーを走らせ、マンチェスターの夜景を車窓から眺める。

 グレーター・マンチェスターは今宵もありのままそこに在る。

 ここにいる人々が何を思い、画策しようとも。



     ◆



 ランバート・ホテルの正面でタクシーを降りると、壮年のドアマンが迎え入れてくれた。


「おかえりなさいませ、お嬢様方」

「ただいま。ありがとう」


 我が家ではないが、我が家に帰ったような心地がした。このホテルは居心地がいいのだとアデルはそれを痛感している。


「疲れたから、もう寝るわね」


 アデルが姉に向かって言うと、姉も苦笑した。


「そうね、早めに休みましょうか」


 いつでも、やんわりとした物言いをする姉。

 本当は、何を考えているのだろう。自分の考えをあまりにも表に出さない。


 それがいい時もあれば、悪い時もある。たまにはアデルのようにはっきりと望みを口にしてみればいいのに。


 なんとなくもどかしくなる。

 しかし、それをしないのがマルグリット・ダスティンという人なのだ。




 三階までエレベーターを使い、姉の部屋の前で別れた。


「おやすみなさい、姉さん」

「おやすみ、アデル」


 姉はすでに手に部屋の鍵を握っており、手際よく鍵を開けて部屋に戻った。アデルも模造ダイヤがついた黒いバッグから鍵を取り出し、鍵穴に挿す。鍵を回してみて、手ごたえがなかった。おかしいと思ってよくよく見ると、扉の下から明りが漏れていた。


 もしかすると、アデルの帰りは遅いだろうと、メイドのレイチェルが掃除に時間をかけているのかもしれない。

 思いのほか早く帰ったので、アデルの顔を見たら驚くかもしれない。


 それならいいけれど、それこそ泥棒とか、アデルの美貌に惹きつけられた男だとか、そんな危険な人物がいたらどうしようか。

 そこに思い当たると、姉を呼ぶべきかとも考えた。


 ただ、自分が鍵をかけ忘れて、電気も消さずに出てきたのではないと断言できないアデルだった。

 もし自分の不注意で騒いだら恥ずかしい。ここはそっと、少しだけ扉に隙間を開けて中を覗きこもうという結論で落ち着く。


 そうっと、他人の家に無断で侵入するかのような緊張感だった。馬鹿なことをしているなと自分でも少し思った。


 きっと、鍵のかけ忘れだ。ほら、部屋の中は何も――。


「えっ?」


 何も変わりがなくはなかった。

 鏡台の前で人が倒れている。黒いスカート。そこから伸びた白いストッキングの脚。

 メイドが倒れている。


「大変!」


 部屋で仕事をしていて倒れてしまったようだ。貧血だろうか。誰か呼ばなければ。

 アデルは倒れているメイドに駆け寄り、絨毯の上に膝を突いた。そして――。


 倒れているメイドの顔を見た途端、耳をつんざく悲鳴を上げていた。バッグを放り出し、尻もちをついて、喉が嗄れるほどに叫んだ。


 青白い顔をした彼女は、どう見ても生きてはいなかった。苦しみ、絨毯に爪を立ててもがいた挙句に息絶えていたのだ。


 メイドはレイチェルではなかった。ブルネットの――姉の部屋のメイドだった。

 あの、ぼんやりとしたあどけない娘である。死人の顔に浮いたそばかすが、肌色が一層白くなったことで浮き彫りに見えた。


 何故、アデルの客室で死んでいるのかはわからない。

 アデルは人の死に触れたことがほとんどなかった。祖父母も健在なくらいだ。どこかの誰かが死んだと人伝に聞いても、死体を目にしたことなどほとんどない。


 恐怖が、喉の奥からせり上がって零れていくけれど、また次から次へと腹の中で膨れていく。


「アデルっ? どうしたのっ?」


 真っ先に部屋に飛び込んできたのは隣の部屋の姉だ。

 アデルは言葉らしき言葉を発することができなかった。それでも姉は倒れているメイドに気づき、ハッと息を呑んだ。


「い、一体これは……」


 姉も立ち尽くしていると、開け放ったままの扉からホテルの従業員たちがやってくる。


「お客様、どうかなさいましたか!」


 誰もがここへやってきてすぐに言葉を失った。叫び疲れたアデルは、部屋を移された。

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