◆4

 こんな災難に遭って、それでスイートルームに通されたからといって素直に喜ぶほどアデルも無情ではないつもりだ。


 人が一人死んだ。それも、若い娘だ。労働者のメイドであろうとも、ひとつの命である。

 しかも、恋人がいた。あの恋人も今頃嘆いていることだろう。

 あの若さで突然死は考えにくい。自殺――なのだろうか。


 あまりのショックに、アデルはドレスのままスイートルームの半天蓋つきハーフテスターベッドにうつぶせで横たわっていたが、ノックの音に素早く上半身を起こした。


「……はい」


 不機嫌に答え、ベッドの縁に腰かける。

 やってきたのは誰だろう。警察か。

 そう思ったが、違った。ホテルの支配人が部下を連れてアデルのご機嫌伺いにきたのだ。


「このたびは当ホテルでこのような事件が起こってしまい、なんとお詫び申し上げてよいやら……。当ホテル始まって以来のことでございます。お客様に恐ろしい思いをさせてしまいましたこと、深くお詫び申し上げます」


 お偉い人たちがアデルのような小娘に深々と頭を下げる。

 死んだのはこのホテルのメイドだが、そもそもが宿泊中の客室で死んでいたのも問題だ。何故死んだのかはまだ調査中だとしても、あれでは防犯などあってないようなものなのだから。


 この支配人たちは、とにかくアデルの機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。今後、アデルには警察や記者がこぞって話を聞きに来る。

 あることないこと喋られ、このホテルの悪評が立っては困るに違いない。


「あの、このたびの宿泊費はサービスさせて頂きます。お客様のお使いになっていた部屋は警察が調べるということですので、滞在中はこちらのスイートルームにお泊り頂けましたら、と」

 アデルとしても、人が死んだ部屋で寝泊まりするのは御免だ。あちらの部屋がいいと言うつもりはない。

「そう……」


 それだけつぶやく。支配人たちは腫れ物を扱うようにしてアデルに接した。


「部屋の調査が終わり次第、警察がお話を窺いたいということですが……」

「話せることなんてないわ。コンサートから戻ってきたら部屋でメイドが死んでいたのよ。私は無関係だってことしか言えないわ!」


 カッとなって言葉尻が震える。支配人たちは焦って手を上げた。それはまるで、拳銃を突きつけられてホールドアップしているように見える。


「そ、そうでしょうとも。そうでしょうとも。ええと、お客様、何かご希望がございましたらなんなりとお申しつけくださいませ」


 希望。

 たとえばそれは、美味しいチョコレートがほしいとか、テーブルを飾る果物と花をもっと豪華にしてとか、そうしたことを言えばいいのだろうか。

 多分、何もないと言われるよりは適当な注文をつけてあげた方がこの人たちは安心する。


 アデルはふと思いついた。このホテルで一番アデルの気になるものを所望したらいいのだ。

 ゆっくりと微笑むと、アデルは二人の男性の目を交互に見て、そうして言った。


「それなら、ナイトティーをお願い。このホテルのラウンジで働いている、ロイドというフットマンが淹れること。前に彼の紅茶を飲んだらとても美味しかったの。彼をここへ連れてきて」


 それを言うと、支配人たちは顔を見合わせた。従業員の数も多いのだから、名を出したところですぐにはピンと来なかったのかもしれない。彼らが何かを言う前に、アデルは被せる。


「ねえ、早く! 早く連れてきて!」

「は、はい! 少々お待ちくださいませ」


 アデルはひどい目に遭ったのだ。少々のわがままは許されるはずである。

 それがなくとも、わがままは美女の特権だ。




 壁にかかったジョン・コンスタブルのイースト・アングリアの絵画を眺めつつ、首を長くして待っていると、扉がノックされた。

 アデルは勢いをつけてベッドから立ち上がると、先ほどよりも高い声で返事をした。


「はぁい」

「失礼致します」


 この声は間違いない。あのフットマンだ。

 カチャ、と小さな音を立てて開けた扉をカートを押しながら入ってくる。


 アデルは花が綻ぶような笑顔を浮かべ、テーブルの前のソファーに移動した。そこにちょこんと座ると、フットマンはテーブルまでカートを押した。

 そうして、恭しく一礼する。


「私を御指名とのことで参りました。さて、何をご所望でしょうか?」


 ひと通りの準備はしてきたのだろう。二段式のカートにはティーセットがそろっている。

 彼はにこりともしないまま、やはり綺麗なイントネーションで話す。


 アデルはじっと、上目遣いで彼を見上げた。彼はそれでも特に変化を見せない。どこまでも仕事上の役に徹している。

 そんな彼の目を見て、アデルは微笑んだ。どうすれば自分が一番魅力的に見えるのかをアデルはよく承知している。


「そうね、まずはあなたのお名前を教えてくださらない? ファーストネームを知りたいの」


 紅茶でもココアでもなく、そんなことを言われるとは思わなかったのだろうか。彼はほんの少しまぶたを動かした。


「……ジーン、です」


 ジーン・ロイド。

 それがこのフットマンの名前らしい。アデルは胸のうちでその名を反芻する。


「ジーンね。私はアデル・ダスティンよ」


 馴れ馴れしく呼んでみたが、アデルから馴れ馴れしくされて怒った男はこれまでいたためしがない。だから、相手の心をつかむにはまず強気で踏み込むのがいいのだ。


、何をお淹れ致しましょう?」


 ジーンはアデルの名を呼ばない。本当に真面目な人だ。

 本来なら終業の時間なのかもしれない。駆り出されて機嫌が悪いのだろうか。


 いや、アデルのような美女と部屋で二人きりなのだ。むしろこれは幸運の部類に入るのではないのか。

 アデルは気を取り直して微笑みかける。


「そうね、あなたのおすすめを頂くわ。それから、あまり堅苦しくしなくていいのよ。友人に接するみたいにして。私、その方がいいのよ」


 こんなことまで言ってくれたら、顔色は変えないけれど内心では有頂天になっているはずだ。それにしても本当に顔色が変わらない。


「左様で」


 非常に素っ気なく、短い返答が返った。

 カチャ、カチャ、と茶器を扱う音が微かにする。


「あなたもそこに座って、一緒に飲みましょうよ」


 親しみを込めて言ったつもりなのだが、ジーンは聞き流した。仕事中だからそういうわけにはいかないとでも言いたいのかもしれない。


 ああ、照れ屋なのか、もしくは案外つまらない人かもしれない。

 先ほどからの反応の薄さにアデルは物足りなさを感じ始めていた。最初に遭った日、特別な何かを感じたような気がしたのも気のせいだったのか。


 しかし、この時、ジーンはアデルの正面にガチャン、と大きな音を立ててティーカップを置いた。そういう乱暴な音を立てると思わなかったので、アデルはびっくりして固まった。


 そして、ジーンはアデルの正面のソファーにドカリと座り、長い脚を組んで背もたれに両腕を預けてふんぞり返った。あの気品はどこへ行ってしまったのだ。


 固まっているアデルを斜から睨むようにしてジーンは吐き捨てる。


「あんたさ、人が一人死んだっていうのに随分能天気だな」

「はぁ?」


 あんぐりと口を開けてしまった。

 耳が、ちょっと信じられない言葉を拾った気がしたけれど、これは――。

 それでも、ジーンは容赦がなかった。


「死んだのはただのメイドだもんな。あんたたちの生活にはなんにも関りのない、ただの労働者だ。まあ、悲しくなんてないよな」


 相変わらずの綺麗な発音で毒を吐く。

 ジーンは、仕事仲間の死を軽く考えているアデルに腹が立ったらしい。


 別にアデルは労働者だから死んでも悲しくないなんてことは考えていない。若い娘だから可哀想だと思った。

 けれど、それでは足りないというのだろうか。友人や家族にするようにして涙に暮れるべきだとでも。


「そ、そんなつもりは……」


 ジーンの物言いに、アデルはたじたじになった。なんで今、こんな目に遭っているのだろう。

 これも自分が招いたことなのだろうか。そうだとしたら、本当についていない。


 ジーンは、ドレスで着飾ったアデルに見惚れるどころか、蔑むような冷たい目をする。

 ただでさえ機嫌を取らなくてはならない客を相手にこの暴言。余程堪りかねたか、いつ辞めてもいい、くらいに構えて仕事をしていたのか、どちらだろう。


 ため息を吐くと、ジーンはアデルの目をしっかりと見据えて言った。


「男は皆、自分を好きになるとでも思ってるんだろ? 生憎と、僕はあんたみたいに傲慢な女は好きじゃない」


 極めつけにこのひと言である。

 過度のストレスがあった後の、後追いサービス。アデルはこの時、子供に返ったかのようにボロボロと涙を零した。ヒク、ヒク、としゃくり上げながら目を擦る。


「生まれてきてごめんなさい」

「……そこまでは言ってない」


 そんな言葉が返ってきたけれど、この時ジーンがどんな顔をしているのかも見るのが怖かったから顔を上げなかった。


 そうだ、アデルは傲慢だった。

 誰もが――特に男性はアデルの虜になり、優しく守ろうとする。そんな男性ばかりだと信じていた。こんなふうにはっきりと物を言われたのは初めてだ。


 あのメイドは何故死んだのか――それを考えるのが怖かったから、考えないようにした。けれど、それではいけないのだ。目を背けるなとジーンは現実を突きつける。


「もうわかったから、一人にして」


 泣きながらそれだけ言うと、ジーンは無言でカートを押して部屋を出ていった。

 アデルはそのまましばらく声を出して泣いて、力尽きて顔を上げた時、目の前に置かれていたのはミルクティーだった。


 白いボーンチャイナのカップに、ミルク多めのミルクティーが注がれ、しかも乱暴に置いたからソーサーの上に零れている。

 さすがボーンチャイナ。あの乱暴な扱いでも欠けていない。そこに感心してしまうのは、なるべくジーンのことを考えたくないからか。


 一体、あのフットマンはなんだったのだろう。

 もう呼ばないし、向こうも近づいてこないだろうけれど。


 恐る恐るそのミルクティーを手に取り、口をつける。すっかり冷めた薄めのミルクティーはほのかに甘かった。

 それが疲れた体には美味しかったなんて、不覚にも思ってしまった。

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