◆3
ホテルのロビー・ラウンジは時間が半端なためか、やや空いていた。
幾何学模様の焼きつけタイル、
ミドルアッパーの中年夫婦、ビジネスマン、老婦人――数組の宿泊客が先に穏やかなひと時を楽しんでいる。
混雑していない方が落ち着けると、アデルは内心で喜びながら姉とラウンジに入っていった。
「お客様、何をお求めでしょうか?」
隙なく髪を横に撫でつけたバトラー風の給仕頭が、接客慣れした心地よい声で問いかけてくる。
「そうね、紅茶とそれにスコーンを頂きたいわ」
「ええ、私も……」
姉も控えめにつけ足した。給仕頭はゆっくりとうなずく。
「畏まりました。ではこちらの席でお待ちくださいませ」
通されたテーブルは窓際だった。外の弱々しい光が雨に濡れた窓に遮られている。
周りを見回すと、数人の給仕係のフットマンがラウンジを行き来していた。金縁の紺の上着に白いベスト、深紅のパンツに黒いエナメル靴。
彼らが颯爽と歩いていると、本当に貴族になったような気分を味わえる。こうしたホテルでは従業員の見栄えの良さも大事だなとしみじみ思った。肥満体の者は見当たらないし、太っていてはあの制服を着こなせないだろう。
「お待たせ致しました」
ハッとするほど聞き取りやすい声がした。
見上げると、一人のフットマンがトレイを手に立っていた。細身で背が高く、二十代半ばほどの素晴らしく姿勢の良い青年だ。プラチナブロンドに緑の目が知的に見える。この世に二人といないほどの端麗な容姿というわけはないが、十分ハンサムな部類だ。清潔感があるのと、全体のバランスが取れているから割増しされている気がする。
そのフットマンは、流れるような手つきでアデルと姉の前にティーセットを並べ始めた。手品でも見せてくれるのではないかと思うような手捌きで銀のカトラリーを扱うから、思わず見惚れてしまった。
琥珀色の紅茶が湯気を立ててポットから注がれるのを眺めていると、そこにミルクが継ぎ足された。ボーンチャイナのカップが優雅に差し出され、アデルは夢見心地だった。
「こちらは〈テイラーズオブハロゲイト〉のヨークシャーティーでございます。老舗ならではの味と香りをご堪能ください」
説明をしてくれる声も涼やかで品がある。
笑顔は無駄に浮かべていない。かといって、不機嫌そうというわけでもない。なんとも自然体だ。
アデルにも姉にも同じ対応で、個人差をつけない。内心はどうであっても。
プロフェッショナルだと、アデルは感心してしまった。
「スコーンには、クロテッドクリームとジャムをご用意しました。では、どうぞお寛ぎくださいませ」
ジャムはマーマレード、ストロベリージャム、ブルーベリージャムとバリエーションがある。アデルは苺が好きだ。
そうして、颯爽と去ったそのフットマンは、後ろ姿にも隙がなかった。
姉もアデルと同じ印象を受けたのかもしれない。口元に手をやり、目を瞬かせている。
「ああいう人を雇っていると、ホテルの品位が上がるわね」
アデルがそう言った時、姉も同じことを考えていたらしい。
「ええ、パブリックスクール・アクセントだったわ。いい教育を受けているのでしょう」
そのいい教育とやらを受けていて、何故このような職種に就いたのかはわからない。それもロンドンではなく。紆余曲折、色々なドラマがあったのかもしれない。
さっそくスコーンを横に割って、クリームとジャムをたっぷり載せて頬張る。ミルクティーも濃くていい。ミルクティーとクロテッドクリームを添えたスコーンは、クリームティーと呼ばれる鉄板の組み合わせだ。
「美味しい。スコーンも紅茶もすごく」
姉も紅茶を楽しみながら微笑んだ。
「いいところに泊まれてよかったわね。お父様に感謝しなくちゃ」
「そうね。お土産をたくさん買って帰りましょう」
アデルは満足して寛いだ。ここへ来た本来の目的など横に置いて、ただ楽しんでいられたのだ。
部屋に戻ると、ベッドメイクに目を留める。皺ひとつ寄っておらず、完璧と言っていい。きっとベテランのメイドがいるのだと思ったが、顔を出したのはアデルとそう年の変わらないメイドであった。
「お客様、私は担当のレイチェル・ファラと申します。お部屋で何か気になるところはございませんか?」
金髪に碧眼。キリリと髪を結い上げ、スカート丈がくるぶしまであるメイドの制服を着こなしている。そこそこに美人だが、愛嬌があるわけではない。そのせいか、彼女がもし社交場にいたら覚えにくい顔だと思える。そんなメイドが機械的に挨拶をした。
個性というものを封じ込め、仕事に徹する。年は若くともしっかりしていた。
「ええ、ありがとう。素敵なお部屋で気に入ったわ」
アデルが微笑みを向けると、女性は男性とは違って二通りの反応をする。
美しさに嫉妬する者もいれば、憧れる者もいる。このファラというメイドはどちらとも取れなかった。表情が読めないのだ。
メイドなのだから親しくなるわけではなし、これくらいの距離で丁度いいのかもしれない。
その日はずっと雨が続き、アデルはマンチェスターで雨音を聞きながら慣れないベッドで眠った。
夢の中でアデルは、〈不思議の国のアリス〉のようなティータイムに招かれていて、とても楽しいひと時を過ごした気分で朝を迎えた。
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