◆2

 荷物を運んでくれた駅員にチップを弾み、姉妹はタクシーに乗り込む。

 滞在予定のランバート・ホテルはマンチェスター・ピカデリー駅の近くで、車で五分とかからない。


 歩いても知れているが、姉妹には雨が降りしきる中で荷物を抱えて歩いた経験などなかった。二人はイングランド銀行重役の父を持ち、いつでも輝かしく綺麗なものに囲まれている。


 アデルはタクシーの窓から外を見遣った。窓ガラスを滴り落ちていく雨粒がロンドンの霧と同じくらい邪魔をして、マンチェスターの街並みはぼやけていた。


 マンチェスターは古い建造物が多いと聞く。到着したランバート・ホテルのファサードも旧時代を思わせる落ち着いた赤煉瓦だった。


 このホテルはそれほど歴史があるわけではないが、建物自体は古いのかもしれない。

 ここは父の定宿のひとつで、マンチェスターならここがいいと決めてアデルたちを送り出してくれたのだ。


「ようこそランバート・ホテルにおいでくださいました、お嬢様方」


 壮年のドアマンが紳士的に恭しくホテルの中へと誘ってくれた。


「ええ、ありがとう」


 にっこりと微笑むだけで、誰もがアデルに親切になる。それをアデルはよく知っていた。

 姉はそんなアデルの後ろを静かについてくる。


 ドアを抜けた先は、平凡な表現をするなら別世界だった。

 ホテルのロビーではまず、ヴィクトリアン・スタイルの色鮮やかな壁紙が目に飛び込んできた。意匠を凝らした煌めくシャンデリアに出迎えられ、雨に濡れた靴を労わる柔らかな絨毯の上を歩く。


 フロントには受付嬢と総支配人らしきスーツ姿の紳士がいた。伏し目がちに帳簿を見遣っている。


「アデル・ダスティンとマルグリット・ダスティンで予約してありますの」


 ここでも微笑みを浮かべてみせると、総支配人も小慣れた笑みを返した。


「ええ、御予約を承っております。お父上のダスティン様にもご愛顧頂いております上、大事なお嬢様方までも当ホテルをご利用頂けるとは光栄でございます。――では、お疲れのことと存じますので、すぐに304、305号室にご案内致します」


 荷物を持たされたのは、金ボタンの並んだ深紅の上着を着た若いフットマンだった。貴族が見目の良い青年に華やかなお仕着せをまとわせ、雑務のために従僕として雇っていた旧時代をそのまま移したように錯覚する。


 ただ、このフットマンはスマートな対応をしきれなかった。頬を染め、上ずった声を上げる。


「さ、304、305号室にご案内致します!」


 明らかに、アデルの美貌に魅了されたのだとわかる。こんなことは日常茶飯事なので、アデルは微笑んで軽くあしらうだけである。


「ええ、よろしくね」


 それだけでフットマンは仕事中だというのに、どうにも締まりのない顔になった。もちろん、少しもアデルの好みではない。

 姉はそんな妹と周囲の反応には慣れているが、僅かに眉根を寄せていた。




 通された部屋は、三階の奥だった。スイートルームほどの豪華さはないかもしれないが、十分に華やかだ。セージグリーンの菱形格子紋トレリスの壁紙、白い真鍮製のベッド、チッペンデールを模したテーブル、チェア、鏡台、浮畝縞ディミティのカーテン。女性が喜ぶ部屋である。


「あら、素敵ねぇ」

「本当ね」


 姉も気に入ったようだ。にこやかに答えている。

 アデルが305号室、姉が304号室を使う。どちらの部屋も同じ構造だ。違うとすれば窓から見える風景の角度と日当たりくらいである。

 どうせ天気は悪いので日当たりはこの際どうでもいい。


 塵ひとつなく、掃除も行き届いていた。従業員もしっかりとした身元の者を使っているのだろう。


 荷物を解いて、貴重品は金庫に収める。明日はドレスアップして行くのでアクセサリーも手持ちの中ではいいものを持ってきた。

 整理が終わると、部屋に鍵をかけて外へ出た。姉のいる304号室の扉をノックする。


「姉さん、片づけは終わったかしら?」


 中で慌ただしい音がして、それからプレートのついた扉が開く。


「ええ、今終わったわ」

「ねえ、ラウンジに行かない? お茶が飲みたいの」

「そうね。行きましょうか」

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