◆1

 ロンドン・ユーストン駅から汽車に揺られ、洒落たヒールの靴で彼女たちはマンチェスター・ピカデリー駅に降り立った。


 ようやく春の足音が聞こえ始めた頃。けれども、この日も生憎の雨模様。せっかくの靴が台無しだと、アデル・ダスティンは顔をしかめた。ただし、彼女のそんな表情ですら、忙しなく駅の構内を行き来する人々の目には十分魅力的に映るのだった。


 アデルは大きく巻いた長い黒髪が華やかな美女であり、琥珀色の目を縁取る睫毛の先までもが計算されたように整っている。

 寒さも残る中なので、ツイードのコートに毛皮の襟巻。身に着けているものの質のよさから良家の子女であることはひと目で知れる。


 このステーションでさえ彼女のために用意された舞台であり、アデルこそが主役、それ以外は端役でしかない。そして、それを彼女自身が誰よりもよく理解していた。


「嫌ね、また雨よ」


 ぼやく声さえも歌うように、映画のワンシーンさながらにアデルは後ろを振り返る。そこには四つ年上の姉、マルグリットがいた。


 本当はアデル一人でマンチェスターまで来てもいいと考えていた。しかし、心配性の両親がアデルの一人旅をよしとしなかったがために、姉までもがつき合うはめになってしまったのだ。


「仕方ないわよ。晴れていることの方が少ないもの」


 穏やかな口調で、諭すように姉は言う。

 アデルと同じ黒髪と同色の瞳。けれど、抜けるような白い肌をしたアデルとは違い、姉の肌は浅黒かった。顔立ちも似ているとは言い難い。まるで似ていない姉妹だった。


 アデルは母親似、マルグリットは父親似。血の繋がりはあるが、どうにも二人は似なかった。下にまだ幼い、ベネットという弟がいるのだが、弟もどちらかというと母親似である。


 色黒の姉に真珠マルグリットなどという名をつけるから、〈黒真珠〉と皮肉な陰口を叩かれてしまっている。万人が美しいと認めるアデルに対し、マルグリットはごく平凡な容姿と言えた。特に醜いわけではないのだから、アデルのような妹がいなければ嘲笑されることはなかったのかもしれない。


 そうした事情からも、奔放な妹に対し、姉は終始控えめである。いつでもマルグリットは妹の影のようにして寄り添っている。


「ねえ、マシューの公演は明日でしょう? 今日はホテルでゆっくりするの?」


 マシュー・グレン。ヴァイオリニストで、アデルのボーイフレンドである。

 そのマシューが是非とも今度の演奏をアデルに聴いてほしいと、彼に懇願されて遥々やってきたのだ。

 イギリス最初の交響楽団〈ハレ・オーケストラ〉が建設されたのは、このマンチェスターだという。そんな地での公演だから感慨深いとのことだが、アデルにとってはなんの思い入れもない。


「そうねぇ。せっかくだから色々と見て回りたいけれど、公演が終わってからでもいいわ。マットは二人で出かけようなんて言っていたけれど、約束したわけじゃないもの」


 あっさりと言ってのけた。アデルには数多くのボーイフレンドがいて、マシューはその中の一人でしかない。マンチェスターくんだりまで演奏を聴きにやってくるほど、アデルがマシューを好いているのかといえば、そうではなかった。


 公演に合わせてやってきたのは、世界的に有名な名指揮者とピアニストが来るということと、後はこのマンチェスターに興味があったからである。あまり来た覚えがなかったのだ。この街がどんなところなのかに興味があった。ロンドンほど魅力的なところは他にないとしても、少しくらいは見どころもあるはずだ。


 アデルの好奇心が足を向けさせただけのことであって、マシューの公演はきっかけに過ぎない。

 ボーイフレンドたちが情熱的に口説き、贅沢なプレゼントを贈ったとしても、アデルはそれらに慣れている。何も心には響かなかった。むしろ、いつでも新たな出会いがあるかもしれないと思っている。


「せっかく誘ってくれたのに、いいの?」


 姉の方が困ったように言う。けれど、アデルにしてみたら、勝手にマシューが言い出しただけなので、それにアデルが従うと思っている方がおかしい。


「いいのよ。だって、私たち友達だもの。恋人じゃないわ。気が乗らなければ行かないの」


 結局のところ、マシューに限らず、恋人とするには誰もが決定打に欠ける。

 では、どんな男ならばいいのか。


 それを考えてみるが、よくわからない。顔が整っていて、背が高くて、優しくて、教養があって、資産があって、誰よりもアデルを大事にしてくれる――そんな条件をつけてみるけれど、それならば今までにいないこともなかった。むしろ、ボーイフレンドのほとんどがそれなのだ。

 だからこそ、誰もが決定打に欠ける。そう思う。


「まあ、それがあなたらしいのかもね」


 姉に苦笑された。姉ならば、男性にそんな態度は絶対に取らないのだから。

 口答えはしない、すべてイエス。夫を立てる妻の見本になるだろう。ビクビクと震えながら。

 それが今の時代に賞賛されるかどうかは別として。


 アデルは騒がしい駅の中、トランクを運んでくれる駅員の視線を振り払いつつ姉を振り返る。


「姉さんはここへ来てよかったの? デリックといたかったんじゃないの?」


 その名を出すと、姉は照れるでもなく、むしろ表情を硬くしてしまった。旅先でまで言わなければよかったとアデルは後悔した。


「お仕事の都合もあるし。忙しい方だから」


 デリック・ミルトンは姉の婚約者である。最近婚約したばかりなのだが、姉には浮ついたところがない。

 彼は群衆に紛れると見分けられないような顔立ちで、目だったところはないが、二十七歳の実業家だ。性格もいたって穏やかで、姉には合っているとアデルは感じている。


 ただ、本人同士が好き合って婚約したというのではない。周りが勧めてまとまった話だ。それでいいのかと思う反面、この大人しい姉には断るという選択肢がなかったらしい。


「私、一人でも来られたけど、姉さんがいてくれてもっと楽しくなると思うわ」


 アデルを心配した両親が姉につき添えと言ったのだ。姉が自ら行くと言ったのではない。本当は来たくなかったかもしれない。それでも、ノーという意志表示が苦手な姉だ。

 ほんの少し、つき合わせて悪いなという気もしている。だからアデルなりに気を遣う。


「ええ、楽しみましょうね」


 そっと微笑んでくれたが、内心はどうだろう。

 姉は、自分の希望を言わない。もっと言えばいいのに。

 わがままは美しい娘だけの特権だと信じているのかもしれなかった。

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