第3話 【挿話】婚約破棄の、その裏で

「婚約破棄など、馬鹿なことをしてくれたな。あの女の価値を分からぬお前ではなかろうに」


 父親である国王陛下から執務室に呼び出されてため息まじりにそう告げられた時、俺ことソレイユ・レシエルは内心では炎が燃えたぎるような強い怒りの感情に苛まれていた。

 だがそんなことはおくびにも出さず、飄々とした態度を貫いて微笑んで見せる。


「ですが、あの女が成果を上げるよりも、王家が――王子である俺が、直接的に成果を上げたほうがより我が王家の名声が上がるのではないでしょうか? だから俺自身が全てやり遂げてみせますよ。幸いにして、あの女の研究成果は全てこの頭の中に入っておりますから」

「そうか。まあ、それならば良しとしよう。では、早速お前に仕事を申し付ける。が現れたそうだ。……魔獣が、国境付近の山脈にな」

「……っ!」

「詳しい位置関係などが判明し次第、お前自身で現地に赴け。そして、魔獣を封印しろ」

「承知いたしました」


 ……いよいよ、この時が来たか。

 彼女を逃がすには本当に間一髪のタイミングだったのだなと、俺は背中に冷たい汗が流れたのを感じる。

 だが、ちゃんと無事に彼女をこの危機から逃がすことが出来たのだ。

 それは俺の人生において誇っても良いことだなと、父王に従順に頭を下げながらほっと胸をなでおろしたのだった――。


 俺がで初めて彼女と出会ったのは、王子としての公務で赴いた王立魔法研究院でのことだった。

 会った瞬間、俺は彼女が「彼女」であることを理解した。

 だって、かつてと何一つ変わっていなかったのだから。

 「狂魔法科学者」と呼ばれるくらいに魔法研究が大好きであることも、俺という人間に対して特段の興味を持っていないことも、そしてそんな人なのに俺の心を捕らえて離さないことも含めて、全て。

 何もかもがかつてと全く同じで、俺は一周回ってなんだか面白くなって笑ってしまったくらいである。

 それからまもなくして俺に婚約者が宛てがわれることになった際、その候補者リストの先頭に並んでいたのは、彼女――ピナの名前だった。

 確かに彼女は公爵家の長女で俺との年齢の釣り合いも問題はない。

 自分の気持ちに加えて客観的にもお膳立てされるならば選ばない手はないだろうと、俺は彼女を自分の婚約者として選定したのだった。


 俺が彼女の公爵家での境遇を知ったのは、婚約が結ばれたあとのことである。

 彼女は家族から虐げられていて、とてもではないが幸せに暮らしているとは言えない状態だった。

 ……だったら、他でもないこの俺がこれまでの苦労など忘れるほどの愛情で一生涯包んであげよう。

 叶うならば結婚も早めてしまおうかなと思っていたくらいだったのだけれど……そんな時、偶然に俺は父王が側近にぼそりと漏らした言葉を聞いてしまったのだった。


「あいつ、ピナ令嬢を選ぶとはなかなか見る目があるじゃないか。なにせ、あの女の主要な研究テーマは『魔獣封印魔法』だ。次にもし魔獣が現れることがあったなら万事あの女に対処を任せようと、もとから考えてはいたのだがな……。王家からの要請ばかりでなく王子の婚約者という立場があれば、なおさら逃げられないだろう。たとえ少女らしく魔獣に怯えていようと、必ずあの女を現地に遣わしてやろうぞ」


 ……は? これは、一体どういうことだ?

 ピナが婚約者候補筆頭だったのは、立場や年齢からだったのではないというのか?

 もしも彼女の研究内容が主要な要因になっていたのだとしたら――。


「ピナが、危ない!」


 父王の口ぶりでは、魔獣封印魔法が術者の命と引き換えになることまでは知らないのかもしれない。

 だが父王は臣民を手駒とみなし、使えるものは使って冷徹に国政という名の遊戯を楽しんでいるタイプの君主である。

 ピナが死ぬと知っていても同じ結論を下したという考えに、全財産を賭けたって構わない。

 そしてピナ自身にもこの頼みを素直に受け入れてしまう可能性があるというのも大きな懸念事項だった。

 だって前世の彼女はまさにこの実験を自ら行って、そして笑顔で死んでいったのだから。

 ……「狂魔法科学者」とも呼ばれた彼女にとっては、もしかしたらあの死に様は本望だったのかもしれないけれど。

 でも、俺はもう二度と彼女を目の前で失うようなことは御免だ。

 だから、絶対に父王の企みを阻止してやらねばならないと強く決意する。


「……ああ、俺は馬鹿だ。俺が幸せにしてやるなんて、あまりにもおこがましかった。俺の決断が、彼女を死地に追いやってしまったんだ」


 だったら、どうすれば良い?

 とりあえずもう利用などされないように、彼女を父王の手の届かないところに――つまりは国外に、連れて行かねばならないだろう。

 この国にいられなくするには……王子として持てる限りの権力を使うしかないだろうか。

 この国から逃してあげて、そうしたら……あとはもう、新天地での成功を祈るしかない。

 ……うん。きっともう、これしかないと思う。


 そうして行われた出来事こそが、俺とピナの婚約破棄劇。

 研究不正という絶対にピナがやらないと分かっていることをあえて口に出して糾弾したのは、それこそが最もピナの逆鱗に触れることだと知っていたからだった。

 ……きっと俺に対する気持ちなんか、彼女の中にはもとから欠片もないだろうけれど。

 それでも万が一何らかの思いがあった場合に彼女がその未練を完全に捨て去れるように、俺はピナにとって一切振り返る価値がない最悪の男にならねばならなかった。

 そしてもう一つ――。


「あの、僕をお呼びになったと伺いましたが……何かやらかしてしまったでしょうか?」


 断腸の思いでピナを手放すと決心した時、真っ先に呼び寄せることにしたのが王立魔法研究院に在籍していたレイノルドである。

 彼は異国出身で、もうすぐ母国に帰ると聞いていた。

 だから、俺は彼にこそピナを託そうと思ったのだ。


「俺はもうじき、ピナと婚約破棄をして彼女を国外に追放しようと思っている。そうしなければ、彼女はきっと命を落としてしまうだろうから」

「……えっ!?」

「君には国外に出たピナの身元を引き受けて、引き続き研究が出来るように手を差し伸べてやってほしいんだ。もちろん、ただでとは言わない。君の実家が運営する研究所は資金繰りに苦心していると聞いているから、そこに俺の私財から潤沢な資金を提供すると約束する。その資金はもちろん他の研究者に活用しても構わないが、絶対にピナのためにも使ってやってほしい」

「……ちょ、ちょっと待ってください!?」

「彼女は必ず結果を出すだろう。それはずっと遠い先の未来の話かもしれないし、案外すぐのことになるかもしれない。いずれにせよ、彼女は絶対に誰もが認める素晴らしい魔法科学者になる。俺はそう信じている。だから、どうか。どうか君が彼女のことを支え、導いてやってほしい。それが俺の希望であり……最期の、頼みなんだ」

「……本当にちょっと待ってください! あまりにも状況がよくわからないので、もう一度最初から順序立てて説明してもらえませんか!?」


 焦っていても、さすがは研究者と言うべきか。

 この後的確な問いを重ねて俺からこれまでの話を全て聞き出したレイノルドは、戸惑いながらも最終的には俺の頼みを受け入れてくれたのだった。

 心優しい男である彼は、この国に残される俺のことをも心配してくれた。

 だが、俺のことなんかどうでも良いのだ。

 ただピナさえ笑って生きていてくれたならば。

 それだけで、俺は十分なのだから。


「だから、この魔獣こいつは俺が我が身をもって封じよう。……ピナが検証してくれた、この魔獣封印魔法を使って!」


 ――父王との会話から、およそ一ヶ月。

 俺は国境付近の山脈に入り、凶悪な魔獣と対峙していた。

 随行した騎士が必死に剣を振り回して僅かな時間稼ぎをしてくれている間に、全身に魔力をたぎらせて規定の踊りを踊りきる。

 そして、だんと俺が最後のステップを踏み終えた瞬間に騎士たちが魔獣の前から散った。

 そうするように命令したのは俺である。

 ちなみに、彼らはこれから俺が死ぬということは知らないと思う。

 もし知っていたならば、曲がりなりにも王子である俺を置いてはいかないだろうから。


「さあ、来い!」


 その場に仁王立ちした俺のもとに、魔獣が一直線に駆け寄ってくる。

 そして――がぶり。

 刹那、脇腹に鋭い痛みを感じて、自分が魔獣に噛まれたことを理解する。


「かはっ、やっぱり苦しいな。でも……ああ、良かった。少なくともこれで、彼女を二度も目の前で失うことは避けられたのだから……」


 膝から崩れ落ちながら、俺はしみじみと呟く。

 そんなふうに最期まで彼女のことを考えていたせいであるのだと思う。

 それからまもなくして、薄れゆく意識の中でこの場にいるはずもない彼女の声が聞こえてきたような気がした。


「殿下? ……殿下っ! しっかりしてください!」


 たとえ夢幻でも彼女の温もりを感じて死ねるだなんて幸せなことだなあと、俺は思わずふっと笑みを漏らしてしまったのだけれど――。


 ……あれ? どうして俺の頬に彼女の瞳から零れ落ちた涙の冷たい感覚が残っているんだ?


「まさか、このピナは……夢幻の類ではない!?」


 あまりの驚きにはっと瞠目した俺は、目の前に立つ彼女の顔をまじまじと見つめたのだった。

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