第31話 「過去の記憶」

 今日も暗い洞窟の中で目を覚ます。兄上は今日もどこかへ行っている。私たちの住処はここ、焚き火の照らす薄明るいほら穴の中だ。今日もいつもと変わらない冷たい日常が始まる。


「………」


 ……寒い。洞窟の入り口からは冷たい風が今日も吹き付けている。


 風に吹かれて焚き火が静かに揺れる。兄上がいない毎日の始まりは、いつも孤独と静けさに包まれている。


「っ………っ………」


 こういう静かな時はいつも過去の事を思い出す。そう、私は……。


 虚ろな思考の中、私の意識は過去に飛ぶ。そう遠くもない、昔の話だ。





 いつからだろう。物心ついたときから私はこの洞窟にいた。いつもそばには兄上がいた。

 兄上は私とは全然違う姿をしている。けど、私にはそれが兄上と思えた。どうしてかは分からないけど、自然とそう思えた。

 大きな体、白い毛皮、大きなたてがみ、宝石のような緑色の目……。私とは似ても似つかない大きな獣が、私の兄上だ。


 兄上はとっても強い。たまに来る侵入者を一人で追い払ってくれる。いつも私に食べ物を持ってきてくれる。私はそれをもらって食べている。逆に私は何もできない弱虫だ。私一人では何もできない。

 けど、兄上はそんな私を許してくれた。兄上は何も言わず、ただ黙って私のそばにいてくれた。私はそれが嬉しかった。兄上は弱い私を許してくれる、たった一人の存在だった。


「少女よ」


 孤独の中に揺れる私に声をかけてくれる存在がいた。たまに私の心配をしに来てくれる、私が兄上以外に唯一心の許せる存在……。立派なひげを蓄えた体格の良い老人、プロメテウスだ。


「プロメテウス……」

「ああ、可愛そうに……。兄上殿は今日も狩りに出かけているのですか?」

「たぶん……。けど、大丈夫。おじさんが来てくれたから……」

「そう言わずに……。さあ、これを……。これくらいしか用意できませんが、お食べなさい」


 そう言って、プロメテウスは温かいスープと少し温もりの残るのパンを差し出してくれた。私はおずおずとそれを受け取ると、少しずつちぎり、ゆっくりと口に運ぶ。


「お口に合いますか?少女よ」

「……うん。おいしい」


 野菜が溶け込んだうす味のスープを口にそそぐ。薄暗く、凍えるような寒さの中での温かいスープは、身も心も温めてくれるような気がした。


 そうして、しばらくの間パンとスープを味わっていると、プロメテウスが何かを取り出した。


「少女よ、これを」

「これは……?」

「これは遠い昔にイアソンが所有していた金羊毛というものです。かつては、コルキスの王が自身の王位を示した王者の証であり、絶対の王を示す象徴でもあったものです。これを貴方にあげましょう」

「どうしてこれを私に……?」

「……貴方は神の子です。イアソンもコルキスの王も人の子でしたが、神の子である貴方であれば、この金羊毛の持つ力を最大限に使えるはずです。……少女よ、これから先、貴方は耐え難い困難に直面するはずです。ですが、決してくじけてはなりません。困難にくじけず、希望を持ち続ければ、この金羊毛も貴方に力を授けてくれることでしょう。その事を、決して忘れないでください」


 プロメテウスはそう言うと、優しく私の肩を叩いた。


「私はもう行きます。あまり長くては、私もゼウスのひどい懲罰を受けてしまう。少女よ、気をしっかり持つのですよ。私もまた来ますので……。また元気な姿を見せて下さい」


 そう言って、プロメテウスは去って行った。


 元気な姿……。私は、一度でも元気な姿を見せたことがあっただろうか?凍えるような寒さの中、孤独に苛まれる私はいつの時も暗く、澱んでいるかのような気持ちでいた。それとも、プロメテウスは元気づけるつもりで言ったのだろうか?その時の私には、とても分からなかった。


 再び意識が混濁する。また私の意識がどこかへ行こうとしている。再び眠るように、夢の中へと沈むようにと、私は再び意識を失った。





 再び意識が戻った。顔を上げると、兄上が焚火の前で眠っていた。そばには仕留めてきたであろう獲物の亡骸が横たわっている。


「兄上……」


 私の呼び声に、兄上が目を覚ました。兄上はゆっくりと立ち上がると私のそばへ歩み寄り、そっと私の頬を舐めた。


 兄上は私の為に狩りに行っている。兄上も私一人を置いて狩りに行っているのを申し訳なく思っているのだろう。狩りが終わった後は、ひと時も私のそばを離れることなく、大きな体で私に寄り添ってくれる。私はとてもそれが嬉しかった。


「っ………」


 ズキッと体が痛む。兄上がいないとき、たまに私の元に侵入者がやってくる時がある。その人たちは決まって私に暴力を振るい、洞窟の中を荒していく。


 愉悦に満ちた笑い声、容赦なく振り下ろされる拳、体を抉るいくつもの足。吐き捨てられる汚辱の言葉は汚い唾と共に私を容赦なく汚していく。私は兄上が帰ってくるまで、泣き叫びながらそれらに耐えるしかなかった。


「少女よ」


 今日もプロメテウスが訪ねてきた。今日は珍しく兄上がいる時にやって来た。


「おや、今日は兄上様もいらっしゃるのですか」

「……うん」


 荒らされた洞窟内を見てか、異臭を感じ取ってか、プロメテウスが顔を顰めた。私はすぐに顔を背け、衣服からのぞくアザを隠した。


「……少女よ、今日もあの人間たちがやって来たのですか?」

「…………」


 私は言葉が出なかった。プロメテウスが気付かないはずがないとも思いながらも、私は反射的に隠すしかなかった。


「……見せなさい」

「っ………」


 強引にプロメテウスは私の腕を掴んで引き離した。至るところに青あざが浮かんでいる、私の体。見られたくなかった。無駄な事だろうが、プロメテウスに心配かけたくなかった。


「……これはいけませんね。待ってなさい。薬を取ってきましょう。良い子に待っているのですよ?」


 そう言って、プロメテウスは出て行った。後には、パチパチと焚き火の弾ける音と、私たちの息をする音だけが残った。





 不意に兄上の叫びが聞こえた。無数の荒々しい足音と、悪意に満ちた笑い声……。また、いつもの襲撃者たちだろう。そう思っていた。


 けど、今日は何かが違った。いつもなら兄上の怒れる声を聞いたら奴たちは逃げていくのだが、今日は違った。


 何かがおかしい。兄上の声に余裕がない。侵入者たちの声もいつもに増して不気味に笑っている。


「へへへっ……!!なんだよ、大したこともないじゃねえかよ!」

「よぉく縛っておけよ?……っと、なんだ。聞いちゃあいたけど、本当にただのガキじゃねえか」


 数人の人間たちが私を見下ろしている。悪意に満ちた眼差しと笑い声が私の身体をを犯すように包み込む。


「▓▓▓▓████▓▓▓████░███▓▓▓▓█████░░░░▓▓▓▓三三三!!!」


 兄上が絶叫する。聞いたこともないような激しい怒りの声だ。目の前の光景と、兄上の叫び声のせいか、私は目の前の出来事を理解できずにいた。


 男たちの目が私を舐め回すように、品定めをするかのように見ている。


「ふぅん……。悪くないなぁ……」

「なんだ?こんなガキが好みなのか?おめえも趣味が悪いなw」

「こいつは穴さえあれば猿だって平気で犯すんだろうなw」


 ……訳が分からない。この人らは何を言っているのだろうか?この人たちは、ヒトの家に勝手に入ってきて、兄上を縛って、勝手な事を言ってゲラゲラ笑っているのだ。

 ……良くないことが起ころうとしているのは分かっている。無力な私には何もできない。ただ、この人たちに良いように使われて、嬲られるだけなのだ。今までそうであったように。


「▓▓▓▓████▓▓▓████░███▓▓▓▓█████░░░░▓▓▓▓三三三!!!▓▓▓▓████▓▓▓████░███▓▓▓▓█████░░░░▓▓▓▓三三三!!!」


 兄上が狂ったように叫んでいる。その声が私に恐怖を与える。しかし、目の前の男たちにはそうではなかったようで、男のうちの一人が顔を顰めて呟いた。


「うるさいな……。少し黙らせておけ」

「あいよ」


 そう言って、男のうちの二人が兄上に向かって歩き出した。


 男の一人が石を手に取る。


「いや……」


 瞬間、洞窟の中に絶叫が響いた。


「▓▓▓▓████▓▓▓████░███▓▓▓▓█████░░░░▓▓▓▓三三三!!!」

「ニィ……!!!」


 兄上の絶叫を皮切りに、男たちが私に襲い掛かってきた。


「いやぁ!!!兄上ぇ!!!」

「兄上ってあのケダモノのことかよ!?やっぱりお前は人間じゃなくてバケモノなんだな!!!まぁいいや。そんなことより楽しもうぜぇ……!!!」

「いやあぁ!!!やだぁ!!!!」


 乱暴に衣服を剥かれて男に組み敷かれる。頭を地面に押し付けられ、膝で背中を押さえつけられて、身動きが取れなくなる。


 ……目の前で兄上が男たちに殺されている。目を潰され、歯を折られ、首を絞められ、耳を焼かれ、兄上が殺されている。兄上の悲痛な叫びが脳裏に焼き付く。


 ……みっつ数える。息を吸う。みっつ数える。息を吐く。私はこの瞬間を忘れない。兄上を殺され、体を弄ばれ、ニンゲンたちが私たちにしてきたことを、私はずっと覚えていよう。

 この記憶を忘れるな。この憎しみを忘れるな。ニンゲンたちが私にしてきたことを、その罪を覚えている限り、私は未来永劫魂に刻み込もう。


 ……私は絶対に……。


「ぐっ……!」

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