第4話 Join To The World
世界は巨大な一つの密室だ。
それがわたしたち惑星探検隊の隊長の口癖であり、思想の礎だった。
わたしたちのこの星は、氷の世界だった。空気も生物も鉱物も何もかもが冷たくあって、しかしなぜか凍えるほど生命の存在を拒みはしない。この星に生まれついたのだから、元々寒冷地に耐性があるのではと科学者は言うけれど、そんな当たり前の答えで満足する者がこの探検隊に参加する道理なんてものはなかった。
わたしたちの目的は、二つある。
一つ目は名前の通り、わたしたちが住む惑星の隅々まで目の届かないところを無くすことだ。現状では、この星の裏側までこのように冷たいのか誰も知らないのだった。もしかするとわたしたちの生活地域はちょうど日の当たる面から遠い極地であるかもしれず、ここから移動すれば、いつも指先で直に物に触れるのを躊躇わずに済むかもしれない。そのための調査を必要とし、これが主たる活動目的である。
二つ目は、それほど真面目な理由ではない。
至極単純に、興味があったのだ。わたしたちの住む世界に、まだ見ぬ新たな世界に、そしてそこを見つけたときのわたしたちの情動に。
好奇心こそ生の原動力だ。これも隊長の口癖である。
「我々はこの冷たく狭い密室の、氷の世界から飛び出し、まだ見ぬ新天地を目指すのだ。好奇心のエンジンに火を入れろ。心まで凍り付いて冷凍ミイラになりたくなかったらな」
そう言ってひたすら東の方へ移動し続けて、わたしたちは誰も数えるのをやめてしまった何度目かの日の出を迎えていた。宙に光と熱を伝える恒星は変わらず東の方向から顔を出している。つまりそちらの方は必ず暖かいのだ。そんな子供じみた単純な見立ても、頭上で同じ位置にあり続ける星の発見により、この惑星は回転していることが常識となっている今、直線状にあるゴールテープを目指して走ればいいという問題ではなくなっている。
それでも馬鹿みたいに歩みを止めないのには、数日前に発見された正体不明の足跡によるものが大きかった。
氷を割ったその足跡は大きさも形もわたしたちと酷似していた。つまり誰かがわたしたちよりも先にここへ来たか、あるいはこのあたりに生息しているか、いずれにせよこれはわたしたちの認識外にある生命の痕跡ということになり、隊長が言うところには、
「この足跡こそが我々の行く道の正しさを保証してくれているのだ。この一歩は当人にしてみれば何気ない小さなものだったかもしれんが、我々にとっては偉大な一歩であり、大発見だ」
ということであるらしく、ひどく大袈裟にこの発見を喜んでいる。隊長は内心この途方に暮れかけていた探検が無為になるかもしれないと不安だったのでは、という仲間の一人による的確な分析にはわたし含め多くの隊員が頷いたことを隊長自身は知らない。
探検隊は足跡の発見された地点にベースキャンプを設営し、隊の中から数名を抜き出して新たに足跡調査を開始した。わたしもこちらへ転属となり、本隊は数日間ベースキャンプに留まり足跡調査の動向を見届けた後に再び出発する運びとなった。
しかし単に足跡とは言っても、形や大きさは靴を履いた我々とまるで印鑑のようにぴったり重なるようなものであるから、新種の未確認生物であるとは考えられず、隊長以外の調査隊の面々は然程気分が盛り上がってはいなかった。
それでも言葉が通じる可能性は高いわけで、現地民ということならここ周辺の地理について多少なりとも情報を得られる見積もりが立てられ、隊に貢献することになる。どこにあるかも知れない桃源郷を見つけ出すよりはずっと具体的で利益のある調査だと考えれば、皆真面目に足跡と向き合うことに反対しなかった。
この足跡がどうも普通ではないと判明するのは、調査を開始してから程なくのことだった。調査隊が発見した最初の足跡から、次に足跡が発見された地点までの距離が百メートルを超え、明らかに我々の歩幅を大きく超えていたからだ。
当初は積雪により足跡の一部が雪に覆い隠されたのだと思われたが、このあたりでは少なくとも隊がベースキャンプ周辺に到着してからは降雪を観測しておらず、それ以前に雪が降っていたなら足跡など残るはずがなかった。それではやはり足跡はこの離れた二つだけということとした場合、この足跡を残した何者かの歩幅は異常であり、とてつもなく足が長い、度の超えたモデル体型であるといった冗談めいた話になってくる。
足跡から推測される体格が想像したものと大幅にかけ離れている可能性に少なからずの衝撃を受けたものの、兎にも角にもこの足跡を辿っていくことが結局のところ一番の近道だろうという風にわたしたちは方針転換をした。隊長にそれらの旨を伝えると、
「追いかけっこに負けるなよ」
と厳粛にたった一言だけ返ってきた。隊長の妙なおとなしさが防寒服の隙間から肌を湿らせた感覚はしつこく体にしがみついて残っている。
わたしを含めた足跡調査別動隊の十数名は翌日にキャンプを発ち、本格的に調査を開始した。相変わらず天候は安定しており、一日経って足跡がきれいさっぱり消滅している恐れもなく、二つ目の足跡の爪先方向へ進んだ。一つ目と二つ目の歩幅とちょうど同じほどの距離を進むと、三つ目の足跡が氷を割って残されているのを発見した。これによりおおよその歩幅が確定したが、そのことがこの足跡の正体に結びつくわけでもないため、隊は粛々と追跡を続行した。
生物の歩幅が突然変わりはしないという常識は、隊員の一人が踏み抜いた薄氷よりも簡単に破られた。確かに三つ目の足跡から爪先方向へまっすぐ同じ距離を進んできたはずなのに足跡はどこにも見つけられず、途中で進路が変わったのかと隊を放射状に散開させてみたものの、自分たちのちんけな足跡ばかり増える始末に終わった。
一体これはどういうことなのだと、隊員全員が首を傾げ、その内の一人の首が地面に着くほど傾げられると、九十度回転した視界の先に、一つの貝殻が石に擬態するようにぽつんと置かれているのが発見された。海とは縁も所縁もないこの氷の大地にそぐわないものが、まるでここが自分のあるべき居場所だと小さく灰色の氷の上に陣取るその貝殻を訝しく思い持ち上げてみると、その下に隠れるようにして残されていた小さな足跡が露わになった。
小さな貝殻の下の小さな足跡の発見により、わたしたちは再び調査の方向性を見失いつつあった。形はこれまで発見されたものとまるきり同じ癖に、ミニチュア版までサイズにバリエーションがあるとは、品揃えが良くてありがたいと言える状況ではなかった。
今回の小さい足跡と、それまでの三つの足跡は全く別で関係ないという意見も当然出た。それが最も可能性のある説だと全員が考え、次にまた小さい足跡が発見されればその説の真偽のほども定かになるはずだろうと、さらに捜索範囲を拡大して同じような貝殻がないか氷ばかりの足元を滑るように目を配らせて探してみても何も見つけることができず、足跡調査隊は謎を抱えたまま、止む無く一度本隊へ合流して情報を共有し次の作戦を練ることにした。
ベースキャンプに帰還し隊長に調査の経過を報告しようと、キャンプ内でひと際大きい隊長のテントに入ると、隊長は隊員とともに地図の作成に熱中していた。ほのかにテント内に湯気が立ち込めているようにも見えないこともない。
「さて、逃げる鬼を捕まえることはできたか?」
呑気にそう言う隊長の期待を裏切る現実を伝えると、特に意気消沈するといったこともなく、
「相手が手強いほど、勝負は燃え上がるというものだ」
と言ってテント内の温度と湿度を上げていた。隊長の熱意は正体不明だった。冷たい氷の世界において、彼の存在は違和感を抱いて浮いていた。
この惑星探査を始める前、わたしたちはお盆型に氷がくりぬかれた内側で、細々としたコミュニティを築いて生活していた。触れるものすべてが指先を冷たさで貫くような世界で生きていくしかないと誰もが腹を括っていたなかで、隊長は常に外を目指すべきだと主張していた。暑苦しくてかなわないと皆に思われながらも、娯楽のない退屈した時間を持て余していた人々には、ちょうどよい刺激だった。つまり誰も本気にはしてなかった。
肌を見せるわけにはいかない冷たさではあっても、誰も生きていられないというほどでもないこの盆地は安定して生活するには絶好の場所だった。確かに寒いし、景色も淡白で面白味はないとはいえ、他にこれより良い場所があるとも思えず、とりあえず生きていけそうならそれで構わないと年長者たちは思っていた。
そうやって動き回らないからいつまで経っても寒いままなんだというのが、隊長の言い分である。世界の温度を上げるためには、その構成分子である我々が活発に動き回り摩擦熱を生み出さなければならない。理屈としては何となく理解できるような、それでも荒唐無稽と言いたくなるような隊長の言は、意外なことに一部で人気を博した。賛同者の多くはじっとできない子どもみたいな若者たちで、行き場のないやる気を走り回ることで発散していた彼らは、それが無意味だと気づき始めており、具体的な目的地を欲していた。ちょうどそのタイミングで現れた隊長が言った、
「この世界の密室を旅してみないか」
という誘い文句の引力は強力だった。
わたしもその台詞に誘われ隊長の元に集った若者の一人だった。彼らの中には何かを成さなければならないという使命感に燃えている者が大半だったが、わたしは反対にそこまでの熱意はなく、これが単に退屈しのぎに耐えられればよいという不純な心持ちで参加しているところが大きい。それに隊長の「世界の密室」という言い方に引っかかるものがあった。
おそらく隊長もこの言葉の意味を理解していないと思う。生まれつきのカリスマ性みたいなものがにじみ出している人というイメージをわたしは彼に抱いている。彼の中にある特別な感性の囁きが口から漏れ、その独特の匂いに誘われたわたしたちとともに、隊長自身もその匂いに酔っているようなところがある。
なんといっても有言実行の男である。実際に探検隊を結成して惑星探査に乗り出しているのだから、それだけでも尊敬に値する。リーダーとしての才能とはそういうもののことを言うのだろう。
さしもの隊長でも貝殻の下の小さい足跡の謎には頭を抱えているようで、本人の興味は強くそちらに引かれ、本隊の出発が押していた。さすがに本来の目的を見失うわけにいかず、隊員たちの数日間に渡る説得の末、ようやく隊長は足跡調査中断を決意したそうだ。
ベースキャンプに数人を残し、再び東へ向け出発したわたしたち探検隊の行軍は、しばらくの間何の変哲もないものとなった。進行方向とは裏腹に、わたしの目線は常に足元に向けられ、あの足跡がまた見つからないかと期待していた。
ひたすら氷の道を突き進み、携行食料の観点からもそろそろ引き返すべき判断に迫られる頃に、例の足跡がまた発見された。しかも今度は周辺に複数の跡が残されており、隊の進路と一致していたことからも、この足跡の主たちが目指しているのもまた東の方向であり、そちらに生物が生息している可能性が強く浮上した。さらにそのことは、温暖地帯が存在する可能性も示唆され、ようやくの有力な発見に、隊の面々はにわかに活気づいた。ちなみにこの足跡群を発見したのは隊の先頭に立っていた隊長であり、彼もまた足跡が気になって仕方がなくなっていたことが判明した。やっぱり不安だったじゃないかな、というのは前回隊長の心理を的確に分析した隊員の呟きであり、隊長が肩肘を貼りすぎていることは周知の事実となっていた。
その足跡群は、おそらく右足とみられる跡が二つ連続し、それらから正面に少し離れた位置に左足とみられる跡が一つ残っていた。普通の歩行ではないことは明らかだが、その不規則なパターンにはどこか見覚えがあり、その足跡と同じように氷を踏んで再現を試みると、これはどうもスキップのようであることにわたしは気づいた。こんなところで気分が上がることもないだろうに、と真面目なのだか不真面目なのだかわからない考察がどこかから飛び出し、なぜか隊長はその説を真剣に受け止めてしまって話は変な方向に向かっていた。
「スキップしたくなるということは、何かポジティブな影響があったに違いない。この足跡の主も我々と同じようにかなりの距離を移動してきていることから、目的は我々と同じく新天地を目指していたのかもしれない。だとすればこの足跡の先に我々の求める世界が広がっているのではないか」
隊長の考察が飛躍しすぎているということは誰もが承知していることで、最早誰もそれに口出しする気はなかった。その後に隊長が「俺たちもスキップで進んでいくぞ」と言い出したときには、さすがに隊の全員で反抗の意を示した。
スキップの足跡が、その先まで続いていたことには驚いた。まるでわたしたちを導いているかのように点々と、右足二つ左足二つ。粛々とわたしたちはその後に続いていた。これまでその気配も見せていなかったものが、突然実体を持ち始めて歩き出している。
気づけば雪が降り出していた。童心をくすぐられて多少興奮する心とは裏腹に、これまでは一度も見られなかったその雪が、着々とわたしたちが違う場所へ踏み出していることを知らせている。少しずつ氷の上に降り積もるのに、足跡は形をきれいに残されていて、ついさっきつけられたように見えるほどだ。もしかすると足跡の主は意外とわたしたちのすぐ前を進んでいるかもしれない、と冗談交じりに話してみるも返事はなかった。
吹雪はじめ、視界は薄暗く灰色に染まり、強い風の唸りにこの目も耳も頼りなくなる。ブーツから冷たさが滲み、足取りが重くなるわたしたちをよそに、足跡は今なお確かに歩を進めていた。間違いなくこの足跡はわたしたちの目の前で今、何者かが歩いていることによってつけられている。悠々としたその足取りとは反対に、わたしたちの歩は脛のあたりまで積もり始めた雪に遮られ覚束ない。一歩を踏み出すたびに、重い足枷を引きずっているかのようだった。それでも歩みは止まらない。隊長が「踏ん張れ」と叫ぶ声がやけに遠く聞こえる。隊列は完全に崩れていて、誰もが目の前の足跡を頼りに進んでいる。既に隊長の姿も見えないけれど、それでも先頭には隊長がいるのだろうと信じる以外になかった。
ただひたすら前に進んでいるうち、急に体が軽くなったような気がした。いつの間にか風の勢いは収まりつつあった。ほとんど夜に近いほど暗闇に包まれていた視界が開けてきて、周囲の状況を把握できるようになっていくと、わたしの他に隊員の姿が一つも見当たらなかった。ただ足元に大量の足跡が残され、急に静まり返った空気が冷たくわたしの輪郭をなぞる。足跡はそういう風にしか進めなかったようにすべて同じ一つの方向に続いていた。きっとわたしだけ遅れて取り残されてしまったのだろうと妙に冷静にわたしは判断した。頭の中がクリアに透き通っている。余計なことは考えるだけ無駄だ。今のわたしにできることは他になかった。
足並みの揃っていない足跡たちをしばらく辿ると、霜が張った地面が見え始めた。その土を踏むと、パリパリとガラスが割れるような音がした。以前ならその音は底を踏み抜いて水か大穴に落ちる恐怖で息が止まるものだった。今は氷の下で支える大地の頑丈さが踵と母指球を跳ね返す硬さを感じる。
土を見るのは初めてかもしれない。足跡は確かに土に、土は確かにわたしの靴裏についていた。そうして次第に土の道の氷が水に変わり土と混ざって泥濘と化し、今度は足からわたしを飲み込みそうなほどの柔らかさを楽しんだ。泥は生暖かい。靴の中に入り込んで重くなったので、脱いでしまった。その場で足踏みすると、氷とも雪とも、また土とも違う感触が足裏から伝わってくるのが、どこかおかしくて思わず笑いがこぼれる。ついスキップをしたくなり、泥に足を掴まれてうまくできず転びそうになり、今度は思いきり笑った。解放感が鳩尾から鼻と口を通り抜けて、白くなって空気と混ざっていった。
しばらく頭の中から抜け落ちていた足跡のことを思い出したときには既に日が落ちて夜になっていた。ふと後ろを振り返ると、わたしの足跡があちらへこちらへ好き勝手に向いてまとまりがない。どうも方向性を見失っていて、わたしがどうしてこんな泥まみれで歩き回っているのか、まるで目的を忘れてしまった。
砂がひとりでに動き出したのかと思った。砂の鳴る方に目を向けると、確かに砂が軽やかに淑やかに少しだけ跳ねていた。その動きが波のように前方へ流れている。鳥目を細めるようにその波の先頭を睨んで見ると、何かがその上を歩いているようだった。姿は見えない、というより姿も形も見当たらない。ただ砂が跳ねた後の黒い地面には、足跡があった。今までずっとわたしが追ってきた足跡だ。他にも目的があってそちらの方が重要だった気もするけれど、わたし一人でどうにかできる問題ではなかったはずだ。
砂が跳ねた。土が舞った。泥が落ちた。風が吹いた。砂が跳ねて散って波打って、風が背後から痕跡を消そうとして、わたしはそれを見逃さないよう必死に後をついて行く。途中、土でも泥でもない感触があり、それが自然に生えた短い草であることに驚いた。その驚きが去っても長い夜はまだ終わる気配を見せない。暗闇に慣れた目は確かに代わり映えした風景を薄く映すものの、焦点は常に足跡に合っていた。
凹凸が増えた。起伏に富んだ大地を渡る。背の低い草ばかり。大小様々な石が隠れている。不思議と足跡はそれらを踏まずにすり抜けている。わたしの背中はずっと曲がった状態のままで、知らずにその姿を見れば、何十年と経って老いてしまったと思われるだろう。海老に例えられるならまだ受け入れる心の余裕があって、誰にでも頭が上がらない情けないやつと捉えられるのは心外だ。そう思ってゆっくりと、腰を痛めないようにしながら背を伸ばした。
仰角をとって水平に向いた視覚からは苔むした岩がぽつぽつと瘤みたいに浮き出ているように見えた。まったく別の星にやってきたような景色だ。さらに背を反らして、空を見上げると、星が尾を引き同心円を描いて夜空の暗闇を切り裂いてまばゆく輝いていた。星の羅針盤。全てがあの氷の世界と地続きの光景だとは信じられない。それもあの足跡がここまで導いてくれたおかげなのだけど、今思い返せば得体の知れない足跡をここまで追いかけまわしたなんて正気の沙汰ではない。
そうだったと自分で自分の考えに相槌をした。隊の仲間とは未だ合流できていないし、全身は何かしらの液体でずぶ濡れたように重たく湿っているし、足も腰も軋んで動かすたびに痛みがせわしなく走るし、膝は今にも折れてしまいそうだった。体が限界を迎えていることにようやく気付いたわたしをあざ笑うのは、この足跡だ。この星に重く押さえつけられる肉体も、事あるごとに逃げ出そうとする心もない、と思われるこの足跡が、わたしの周りをぐるぐる周回していることが、わたし自身がそう思うのを驚くくらい腹立たしいと感じていた。
ちょうど足元に手頃な石ころが転がっていたので、足跡の、たぶん足首にあたるだろう部分の空間めがけて蹴ってやった。悪事を働いたわけでもないのに突然蹴られて宙に浮いた石が虚空へ飛んで一秒ほどのフライトは不時着に終わり、また他の大勢の石の中へ戻っていった。その石にわたしは憑依していたのに。
まだ足跡はわたしの周りを巡っている。わたしの目的がこの足跡を追うことである以上、こいつがわたしの周りを回るなら、わたしもその後を追って回るべきなのだろうが、そのわたしをまた足跡が周囲を回って、お互いにぐるぐる回転しながら果てのない運動が繰り広げられることが想像できたから、観念してわたしは座り込んでいる。足跡とわたしは、惑星と衛星のような関係なのかとか、それならどっちがどっちなのか、こいつの目的は一体何か、わたしはこれで何を得られるのか。相談するなら哲学者、それとも天文学者か。いやそんなことはどうでもいいんじゃないか。ここでわたしの仕事は終わりなんじゃないか。もしかしてこの足跡は幽霊で、わたしは幽霊にあの世に連れてこられたんじゃないか。やることがなくなって考え込んで暇を潰している内に、少しだけ、ほんの一瞬だけ、目が閉じた。
目が明くと遠くの空が白みはじめていた。さっきまでの夜が淡い光から逃げるように去っていく、その途中の空は宇宙の色に見える。短い間の夢中の景色、という錯覚にまどろむわたしを現実に引き戻したのは足音だった。慌てて周囲を確認すると、何度も重ね書きされた円からはみ出して、足跡が一歩ずつ光の方へ伸びていた。立ち上がってみると、さらに円から離れたところからも続々と、無数の足跡たちが同じ方に向かって行進していた。姿のない先駆者たちのその虚ろな足跡たちを追って、わたしも歩き出した。
昇る朝日が迎える道筋の先には、巨大な筒状の機械が地に突き刺さっていた。頂点から度々火を噴き、黒い煙を吐き出しているそれは壮大で冗談みたいな煙突のように思え、一体なぜこんなところにこんなものがあるのか見当はつかない。遠目から見ても昇り始めた朝日を背後に隠すほど背が高いなら、もっと接近すれば実際どれだけの大きさになるのかだって知れたことではない。
足跡はその機械に向かって集まりつつあった。おそらくその機械が彼らの目的地で、わたしの目的地であるだろう。その機械が何をするものなのか、調べる必要があるだろう。ここまで来たからには、土産の一つくらい持って帰らせてもらいたい。
間近で見るとやはり機械は空を貫きそうなほど天に向かって伸びていた。高さだけでなく横幅も奥行きもかなりのもので、黒い巨大な塔にも見える。具体的な大きさはちょっとわたしの尺度では見定められそうになかった。それからこの機械は周囲に熱を発生させ、近づくほどに気温が上がり、内部はかなりの高温になっていると思われる。暖房、と呼ぶには大袈裟に過ぎる代物だ。それにこれが暖房だとしたら、これを作ったやつは極度の寒がりに決まっていて、この場所はわたしたちが暮らしていたあの氷の世界に比べれば快適な気候のはずだ。
焼却炉ということは可能性としてあるかもしれない。何かを燃やしている。その何かも、何かを燃やす理由も想像つかないが、暖房よりはありえる話だと思った。中から火と煙が出ているなら、他にもどこかに出入口か何かがあるはずだ。
足跡がこの機械の裏に回っているのを見つけ、それを辿ると、機械の表面の一部に長方形に切り取られたような入り口を見つけた。そこから中に入ると、背後で音がして差し込んでいた光がなくなった。内部は外から見るより意外と狭い。配管や何かの設備がぎゅうぎゅうに詰め込まれているせいで、熱がこもって非常に暑苦しい。
窮屈なこの迷路を右手の法則で進んでいくと、また入り口と同じような隔壁が閉じられていて、その右横におそらく開閉用のレバーが下がっていた。錆びついているわけではないのに、妙にレバーは動きが固く、上に押し上げるのに全身に力を込める必要があった。隔壁が重く開き、急に内部が橙色に染まった。
隔壁の先に広がる空間の中心で轟々と炎が燃え上がり、吹き抜けの天井に向かって煙を吐いている。炎の周りは漏斗のようになっており、そこに落ちた物は中心に向かって滑り落ちて炎に飲まれる仕組みになっているようだ。この機械はやはり焼却炉といったところか。
では何を燃やしているのかと気になり、漏斗の底を覗き込んで見えたものを、最初は理解できなかった。黒焦げになって既に大部分が灰に変わっているものが大量に積み重なっていた。ゴミ処理場の光景と言う様で、燃やされているものがゴミにしては一メートルを超えるサイズで、形は人工物的な四角さがなく、むしろ生物的な丸みを持っているように見える。それに単一のパーツではなく、複数の部位が中心の一番大きい部位に接続されているように思われる。脚、胴体、腕、頭。
導き出された答えは、これが人体であるということだった。マネキンや人形かもしれないとまず思ったが、焼け焦げる肉の匂いが、その人体が生身の人間であることをはっきり示していた。
ふいに、隊長の言葉を思い出した。
「世界は巨大な一つの密室だ」
「好奇心こそ生の原動力である。好奇心のエンジンに火を入れろ」
隊長たちは未だ行方知れず。あるいはわたしの方が捜索されているかもしれないが、そちらの方が精神的には楽だ。
今目の前で灰になりつつあるものの正体を知らずにいたい気持ちと、好奇心とがせめぎあっている。轟々と反響する炎の噴き出す音が、揺らめく炎の輪郭が、わたしの神経を麻痺させて、わたしはどこか現実感を失った状態で立っている。
わたしを支えているのは、つまりわたしがここまでたどり着くことができたのは、隊長の言葉によるものだ。わたしの好奇心が回転を始めて、体を正常に駆動させようとする。
金属を歩く音がした。気づいたときにはわたしは宙に舞っていた。一瞬の隙間にある永い時間のスローモーション。次に感じたのは冷たい熱。漏斗の斜面に肩から落ち、そのまま背中を回して仰向けになる。視線の先にさっきまで自分がいた場所が見え、誰かがわたしに代わってそこに立っていた。そいつにわたしは突き飛ばされた。見慣れない姿だった。それなのによく知っている誰かであるようにも思えた。違和感を抱えて体が炎に向かって滑り落ちていく。
わたしの身体はきっと、世界の温度をほんの少しだけ上げたはずだ。
エコロケーション コムシ @comushi
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