第3話 神と青人草と桃と

 天地創造を投げ出して、わたしは妻の後を追っている。

 正確にはわたしと妻の二人羽織でなければその仕事が成り立たないのだが、そんなことはどうでもいい。彼女がこの世にいないのだ。わたしたちが生んだこの世界のどこにも見当たらない。だから探している。

 わたしと妻の馴れ初めというものは、頬を赤らめるような話などは一つもなく、誰かに話したところで大して面白味がない。それというのも、わたしたちは出会うべくして出会い、結ばれたのもつまるところ仕事のためであり、全ては天により定められた命であるので、決して恥ずかしがっているわけではないことは注意してもらいたい。わたしたちもその時はまだ若かったのだ。だからお前も、あまり詮索するものではないと覚えておいた方が身のためだ。

 まあとにかく、わたしは先立った妻の後を追っているわけだが、わたしの不甲斐なさがゆえに夜逃げをされたなどという噂については先に否定しておこう。大体その程度の話ではないのに、何も知らない輩は好き勝手に憶測を言いふらし、べつに真実を追求しようとするわけでもなく日々の退屈を紛らわせればそれで良いのであり、噂を噂のまま消化し満足してしまうのだ。

 真実はこうだ。わたしと妻はとにかく子を産み世界を生み出していくのだが、多くの国や島、またその後に自分たちの息子娘もまたこの世界に紐づけられるように多くを生み、そして肝心の妻の身体が耐えかね限界を迎えた。最後に彼女が生んだのは火に包まれた男で、それは母の胎内を焼いて出てきた。その結果、妻は弱りきってしまいついには息も絶えてしまった。こうしてこの話をするだけでも、わたしは怒りと喪失感に苛まれる。

 わたしは妻を殺した火の子を恨んだ。当然だろう。子などは地に満ち溢れ数え切れぬほど存在する中で、わたしの愛する妻はこの世にたった一人だけなのだから。子の一人に過ぎぬ火の子にわたしが情けをかけてやる道理はなく、これが終わったら即座にあいつの首を斬り落としてやるつもりだ。

 妻の弔事はまだ執り行っていない。葬式などを挙げてしまえば、その時点で妻の死が決定されることになり、もう二度とわたしは妻と会うことができなくなる。だからまだ生と死が曖昧な状態の今しか妻をこの世に連れ帰る機会は訪れない。しかし未だ彼女の所在の手がかりさえ掴めていないのが実情で、だから力を借りたいのだ。手を貸してくれないだろうか。


 どうしたものかと、わたしは首を捻る。今目の前にいるのは、相当な身分のお方だと見受けられるし、その口から語られた内容はあまりに突飛な内容でわたしのちっぽけな頭ではほとんど理解の外にあった。とにかく彼が妻を探しているということは理解したものの、その妻とやらが既に亡くなっているらしいという点がまたややこしい。死んだ者がどこに行くか、という質問に答えられる者がいるなら、それは間違いなくわたしの周囲ではないし、無論わたしがその答えを持ち合わせているわけもない。第一、わたしはその辺に生える草の一本に過ぎないのだし。

 そうでもないぞ、と言われわたしは困惑する。そもそもこの方が一体全体なぜ野原の草にこのように話をしているのか、わたしには理解できていない。そういう趣味と言えばそうなのかもしれないが、それにしてはやけに真剣な口ぶりである。

 お前、よく自らの姿を見てみるといい。そう言われましても、そもそも目などはどこにも付いていないのです、とそう答えようとしたときに、違和感が生じた。草であるはずのわたしがこのように言葉で思考し会話を試みているというのはおかしなことだ。わたしはないはずの首を捻り、どこにあるかもわからない頭で言葉を理解しようとしていた。光と風をのみ感じていたわたしは今、光を見て風に揺れる草たちを見ることができた。風で揺らしていた体を自分の意志で動かすことができた。

「お前は今、人になったのだ。青人草よ」

 その声には聞く者をひれ伏せさせる威厳を含んでいた。その姿は輝かしく一点の曇りもなく、華やかな身なりに包まれてもその輝きが透けて周囲に広がっている。

 ぎこちなく体を折り曲げて自分の姿を確認すると、確かに彼の言う通り、手と足が二本ずつあり根の代わりに二足でもって大地に立っていた。頭が一つ、手足が二本ずつ、二つの目と耳に、一つの鼻と口。形状としては目の前の男とそっくり変わらないものの、男の持つ雰囲気とは全く違う泥臭いものがわたしの体にはまとわりついているように感じる。

 どうやらわたしは本当に人というものになったらしいが、ではなぜそうなったのかという疑問が新たに芽生える。

「妻の居場所の手がかりを掴むためだ」

 男は再びそう言うのだが、もちろんわたしにはその心当たりはない。

「わたしにはあなたが探しているものの居場所など知りようがありません」

「そんなことは当然だろう。わたしが求めているのは、つまり見当だ。謎解きの要領で、死にゆく者が移動する先はどこか、大地に根差していたお前なら何か思い当たる節がないかと聞き出すために人に変えた」

 一体ただの草だった者に何を期待しているのか理解に困るが、どうにもわたしはその男に従わざるを得ないという気にさせられる。こちらとしては植物のままで満足していた(そもそも何かを考えるということすらせずとも済んでいた)ところを、人の都合で突然別の生き物に変えられる方の気持ちも汲んでいただきたいのだが。

「死んだものは草臥れて地に伏します。その後いくらか時が経つとその亡骸はすっかりどこかに消えていってしまいます。わたしたちは地から水を吸い上げて食っていますけれども、それはつまり、地に生かされているとも言えるでしょう。だから地に与えられた命は、死ぬときには地に返される、ということなのではないでしょうか」

 わたしのついさっき与えられたばかりの浅知恵を振り絞った答えを聞いて、男は神妙な顔つきに変わる。腕を組んで何かを考えている素振りをしてから口を開く。

「では死んだものは地中、地下に行くということか。しかしこの世界はわたしと妻で生み出したものだ。死者が行き着く場所を地下に作った覚えはないのだが、妻は天にもこの地上にもいなかった。ということは、お前の言うように地下ということも考えられないでもないな。悪くない答えだ」

 男は満足したように組んでいた腕を元に戻した。よくわからないが、わたしの答えは見当違いではなかったようで安心した。安心という状態も初めての経験だったが、悪くはない。

「これで用は済みましたか」

 そう言ってみて少し寂しいような気になった。できればもう少しこのまま人の姿でありたいと思っていた。だから男が「どうせなら供をしろ」とわたしに命じたことは運命の巡り合わせに感謝さえして喜びを隠しきれなかった。ただ地面の一点に立つのみだったわたしは、ついに二本の足で出歩くことができるのだ。その興奮が蒸気となって体中の毛穴から吹き出しそうになり、それは草だった頃の癖だったと自嘲ぎみに顔の中で笑いを噛んだ。

「では地下にはどのように。穴でも掘って行きますか」

 気を取り直してわたしが訊く。

「馬鹿め。穴を掘れば地下だった空間は日の光に晒され地表に変わる。すなわち地下ではなくなる。おそらく真の地下とは、永久に日に晒されることのない地上から隔絶された空間のことを言うのだろう。それにその辺の土を掘り起こして妻が出てくるのならもうとっくに発見されているはずだ。半分腐乱した亡骸としてな。そんなことがあってたまるか」

 男は最後の部分の語気を強めて言った。

「わたしたちが生み出したこの世界とは別の世界に繋がる出入口が地下にあるはずだ。それは境、つまり坂か。坂を下ればあるいは」

 徐々にトーンが落ちて独り言に変わっていった。男の考えていることは未だによく理解できない。

「坂を探すぞ」

 そうしてから実に一日と経たずにそれらしき坂を発見し、正直拍子抜けしてしまったのだが、男の方にしてみればそれは早ければ早いほどいいのだろうし、わたしは居心地の悪さが喉のあたりに詰まっていた。その男はと言えば、いますぐこの坂を転がり落ちてまで飛び出していきたそうな様子だった。

 裏腹にわたしは気が進まない。その坂というのは洞窟のようになって地下に続いていて、確かにどこか妖しげな雰囲気が中から漏れているし、そばにはこれまで見たことない果実をつけた木が生えている。果実は薄赤色で底の部分が二つに割れたような筋が入った奇妙な形をしていた。何というべきか、一度入ったら二度と戻れないような気がする。

 わたしは正直にそのことを男に打ち明けた。それで何が起こるとも思わなかったが、本能に訴える声を退けてはいけない。案の定、男はわたしの話を一蹴し、「ならばお前はこの場に残りわたしの帰りを待つといい」と言い残して、底知れぬ暗闇に続く坂を下っていった。彼にしてみれば、ようやく配偶者と再会できる機会をふいにするなどありえないのは当然だ。わたしはとりあえず、あの奇妙な果実の木の下で待つことにした。待つことはまあ、草として生きることに比べれば何ということはなかった。


 こうして坂を下ってみると、ここが全く未知の場所だということをより実感する。光というものが存在しないうえ、鼻につく臭いは今までのどの場所でも嗅いだことのない酷い臭いだった。こんなところに妻がいるのだろうか。いるのだとして、一体なぜこのようなところへ行くことになったのだろうか。入り口で待たせている青人草に言われたことが反芻される。疑問も不安も尽きないが、とにかく先へ進むしかない。坂が一本道であったことは幸運だった。

 ただひたすらに、臭気と暗黒を切り裂いて一歩ずつ前進して、その度にわたしは妻の姿をその先に見た。予感があった。わたしたちはもう一度出会い、子を成し、その子らが地に満ちていくことでさらに世界を押し広げていくのだ。きっかけは命令だったが、今やその目的はわたしたち二人の悲願に変わった。

 足音の反響が遠くなり、ひと際開けた空間に出たようだ。相変わらず闇に埋め尽くされているが、既に目は慣れ始めていて、空間の中央付近に建造物のような影の輪郭が薄らいで見えていた。注意深く進んでいくと、それがこの洞窟には似つかわしくない宮殿だったことがわかり、驚きを禁じ得ない。宮殿とはつまり、わたしたちのような存在を迎える場所であり、誰かがそのために建造したということだ。一体どこの馬の骨が作ったのか知らないが、少なくともここには誰かがいるのだ。

 そのわたしの確信に答えるように、宮殿の正面扉が開き始めた。やはり誰かが中にいたのだ。わたしは胸に期待と焦燥感を抱いて、その正体を確認しようと扉の方へ歩み寄った。扉が完全に開ききると、中から人影が現れた。その姿を見間違うことも忘れることも決してない。

 宮殿から現れたのは妻だった。この暗闇の中であっても彼女の姿ははっきり見える気がした。互いに視線が交わされると言葉が出なかった。しばらくの静寂にわたしたち二人は天の輝きを放っているはずだと思った。

「お前がいなくなってから、ずっとこの時を待ち望んでいた。そしてこれからのことも。まだわたしたちの営みは終わっていない。さあ、帰ろう。わたしたちの国へ」

 わたしの全身の力を使って放った言葉だった。胸のあたりが熱を持ち始めている。次に返ってくる言葉は既に頭の中で出来上がって何度も叫んでいる。さあ、その言葉を言うのだ。

「残念ながら、それはできません。もう少し早くいらしていたらよかったのに」

 一瞬、目の前の者が何と言ったのか理解できなかった。いや、わたしが聞き逃していたのかもしれない。もう一度だ。

「ですから、あなたが来るのが遅いのです。このまま帰ることは不可能です」

 頭の中の構想が音を立てて崩れた。発音は正しく聞き取れ、しかし意味を理解することを体が拒否していた。

「一体どういうことだ。なぜそんなことを言うのだ」

「わたし、もうこちらで生活してしまっているのです。この宮殿で寝泊まりし、食事を食べて、ここの住民として暮らしています。ですからわたしの一存でここを勝手に離れるわけにはいかないのです」

 彼女が感情の起伏もなしに言い放った言葉を一つずつ整理する必要がわたしにはあった。彼女はわたしの元から消えた後、この地下の宮殿で暮らしていた。それはただの引っ越しとはわけが違うらしく、既にここで生活を営んでいるので離れるわけにいかない。

「待て、ここにはお前ひとりでいたのか? お前の口ぶりはまるで」

「さて、どうでしょう。こんな陰気な暗がりにそう多くの者が住んでいるとお思いで」

 挑発的な言い草に自分の歯を噛みたくなる。彼女がこのような態度をとることは今まで一度もなかった。

「この場所は何なのだ」

 彼女は答える代わりに、何かを確認するように宮殿の中を振り返り、一つため息をついてから口を開いた。

「確かに、あなたがここまで来たのは、予想外でした。どうやらわたし一人では世界を作るには力不足だと認めざるを得ないでしょう。それはおそらくあなたも同様のご様子」

 薄く笑っているように見えた。

「いいでしょう。あなたの言う通り、帰ることにしましょう。しかし先ほども申し上げた通り、わたしの一存でこの場を離れることは出来ませんから、ここの主と相談をした上で最終決定といたしましょう。それでよろしいかしら」

「その主とは何者だ」

「あなたには関係のないことです。おとなしくここで待っていてください。決して中に入ってこないこと。あなたも帰られなくなりますから。よろしい?」

 彼女は扉の奥へ消えてしまった。ほとんど一方的な会話だったと思い返し、掴みどころのない煙のような違和感が残った。さっきまで話していた人物は、わたしが追いかけていた妻とはまるで雰囲気が違った。何よりも気になったのは、匂いだ。坂を下っているときにも感じた臭気が、宮殿の扉が開いたときにも発せられていた。より正確には、あまり考えたくはないが、彼女が現れると同時にその臭いを感じた。つまりあの混沌とした臭いは彼女から発せられたものではないか。いくら考えたところでその答えがこの頭から出ることはなかった。

 髪に挿していた櫛の一本を取ってその先端を擦り、火を灯して松明とした。いざというときの灯り代わりだが、火を見るのはなるべく避けたかった。火を忌々しいとさえ思っていた。空から地上全てを照らす日に比べればちっぽけでたいしたことはない癖に、わたしから大切なものは奪おうとする。地上で生きる青人草たちも火に焼かれれば無残に灰と変わる。許しがたき凶暴なやつだ。しかし日光とは全く縁がないこの地下世界では唯一の光であることもまた事実だと認めなければならない。

 その火を携えて、宮殿の扉を開けて内部へ侵入する。当然、火に照らされた手元以外は全て等しく黒々と闇に包まれている。注意深く進んですぐに板壁で道は遮られた。右手側へ行こうと火をそちらにかざすと、ここも壁で先はなかった。振り返り今度は左手側へ進んでいくと、右手側に、大木を何本も束ねただろう柱がひと際太く建物を支えていた。この柱の先に壁はなく、柱に沿って回り込むようにして奥の空間を覗き込んでみると、薄明りがこぼれその中に人影がぼんやり浮かんでいた。

 またあの臭いがする。それに加え、何かが水音のような音を立てていた。それも一つではなくもっと多くの水音が木の床に飛び散るように跳ねていた。手の先から肌全体に虫が這うようなざわめきが走る。櫛に灯した火が風もないのに揺らいでいる。意を決して一歩を踏み出した時、柔らかな感触が足裏から伝わってきた。敷物でも敷いてあるのかと思い、一瞬過ぎた後に気にするほどでもないと正面に向き直して、人影が動き出していたことに気づかなかった。

 雷が鳴っている。それはおかしなことだ。地下で雷など鳴るはずがない。ではこの空が唸るような重い響きは何なのかと疑問に思った。答えは目の前にあった。人影はゆらりと近づき、雷鳴に加えて先ほどの水音がさらに強く聞こえてきた。強烈な腐臭が嗅覚を占領し、呼吸が苦しくなり、目からは涙が勝手にこぼれ始めた。人影はさらに接近し、櫛の火がついにその姿を映し出した。

 それは先ほど扉の前で会話し、何よりわたしが追いかけていた妻に他ならなかった。全身が腐り果て蛆の苗床となり体の各部位から雷を八つ携えたおぞましい姿に変わって。蛆がその体からぼとぼとと落ちて先ほどから聞こえていた水音が発せられた。

 やはり火は嫌いだ。見えるようにできるからといってわたしにこんなものを見せようとするのだから。


 自分の中から湧き出てくる脈動を抑えきれないとは、以前までは考えられないことだった。これも人に変わった影響なのか、ならばと、あの奇妙な果実を口にした。結果を言えば、それはわたしにとって最良の判断だった。毒にはならなかっただけでも上々、そのうえその味というものは、今まで土から吸い上げてきた水が無味に思えるほどで、その味を舌で感じると顔が緩み、力が程よく抜ける効力を持っていた。遍く土壌がこの果汁を含んでいれば良いのにとくだらないことまで考え始め、まだ木になっている果実のいくつかを持って帰ろうかと思案していると、坂の奥から猿の叫び声が風に乗って聞こえてきた。猿が穴蔵にしていたのかとはじめは気に留めなかったが、次第にその声が大きく近づいてきていることがわかると、さすがに身の危険を感じ取り、咄嗟に果実の木の裏に身を潜めた。

 注意深く坂の口を覗いていると、あの男が全力疾走で飛び出してきた。男は目敏くわたしを見つけ、「その桃だ!」とわたしに向かって叫んだ。

「桃とは何ですか。それにこの猿の狂ったような叫びは、一体中で何があったんですか」

「その果実だ、その果実をわたしに寄越せ!」

 男の様子があまりに必死なのでわたしは異常を感じ、男の言う通り果実を放り投げ渡した。

 男が果実を掴み取ると同時に、坂の口からおびただしい数の人型の化け物が吐き出されてきた。その全身が爛れた姿は死体がそのまま動き出した様相で、見ているだけで身の毛がよだつ。とても猿などではなかった。下で何があったのかわからないが、男はとんでもないことをしでかしたことで彼らの怒りを買ったのではないかと、化け物の正気を失った叫声がそう思わせる。それにわたしの体まで腐っていきそうなほどの腐臭があたりに満ち始めている。この状況であの男は果実を何に使うつもりだろうか全く予想がつかない。正直に言えば男を置いて一秒でも早くここから逃げ出したいが、見捨てるのも良心が痛む。とはいえわたしは最近人になったばかりの元野草でしかなく、何の力も持ち合わせていない雑草だ。結局のところ、この事態を引き起こしたかもしれない、あの男がこの状況を打開する力を持っているように思う。そう、例えばわたしにしたように化け物たちを何か他のものに変えるといった、不思議な力だとか。

 男は掴んだ果実を、化け物たちにめがけて、思いっきり投げつけた。あまりに単純な動作が繰り広げられ、真面目に不思議な力を期待したわたしは馬鹿を見た。というか、明らかにそんな果実一つで異界から飛び出してきたような化け物の大群をどうにかできると思う方がよほど突飛な考えのはずじゃないか。

「もっと桃を持ってこい」

 どうにでもなれという思いで男の指示に従い、さらに果実を二つ投げ渡した。その間に化け物たちの先頭集団がもがき苦しみながら坂の口の中に逃げるようにして走り去っていくのが見えた。まさか本当に効果があるのかと半信半疑になり、男の次の一投を注視した。

 男の逞しい腕から放たれた果実は逆回転によって鋭く宙を裂いて飛んでいき、化け物たちの腐り落ちた顔面に命中。その衝撃で果実が砕け、薄皮とともに果汁が周囲に飛散し、化け物たちに降りかかると、彼らは突然顔を手で抑え、尖った爪で顔中をかきむしり始めた。苦痛の色が混じる悲鳴を上げてもがき苦しむと、先ほど見たように続々と坂へ引き返していった。残り一つの果実も同様に投げつけ、化け物たちは成すすべなく退散し、一生涯鼻に残りそうな悪臭だけを残して事態は一旦の収束を迎えた。

 わたしは男に説明を求めた。彼が言うには、坂の下った先には謎の宮殿があり妻もいたのだが既に変わり果てた姿となっており、その姿を見られたがために彼女は怒り狂い先ほどの化け物たちを男に差し向け、男は必死に逃走を図った。最後の果実に関しては「魔除けの力を与えた」と説明され、むしろわたしの関心はそのようなことが可能なこの男の正体に向いていたが、あまり聞くと今度はわたしが祓われてしまいそうなのでおとなしく黙ることにし、代わりにわたしは一つ提案をした。

「その果実、桃でしたっけ。それをわたしにくれませんかね。実はあなたが出てくる前に味見をしたら、非常に相性が良くて」

 男はしばし桃の木を眺めて、まだ残っていた実を一つ取って、少し待て、と小さく答えた。

「お前がわたしを助けたように、この世界に生きる青人草たちのことを助けてやってくれ」

 男は手の中の桃にそう静かに告げると、神妙な顔つきに変わった。男がわたしに向かって桃を差し出して、わたしはそこに神聖な儀式の雰囲気をなぜか感じて、緊張する手を差し出して慎重に、その桃の果実を受け取った。急にこれを食べようという気がなくなり、何のためにわたしがこれをねだったのかを思い出せなくなった。

 雷が鳴り始めた。天気が急変したのかと思ったが、空を見上げても雲が白く気ままに浮いているだけでまだ高いところにあり、天気が悪いとは言えなかった。では今またどこかで鳴るこの雷鳴は何なのかと周囲を見回していると、男がわたしと坂の間に入って、坂の口を睨んだ。男にはそこから何が上ってやってくるのか理解している様子で、出し抜けに手を明後日の方向にかざした。その先、森の奥から巨大な大岩が一直線に男の手に飛んできていた。その岩は男の手に吸い付き、じっと自らの出番を待っている。

 雷鳴は確実にここへ近づいてきていた。地鳴りのような振動も加わり、先ほどの化け物とは比較にならない恐怖が世界を震わせている。それはついに坂から飛び出さんとしており、全身が雷と混沌とした色の瘴気に包まれたその姿をわたしも垣間見た。

「追いかけっこはもう終わりだ」

 たぶん男が言ったのだと思うけれど、激しく迸る雷でほとんど何も聞こえなかった。次の瞬間には、男は両手を突き出して大岩を放出した。その勢いで空気が轟音に震え、衝撃波でわたしの体が大きく後方へ吹き飛ばされる。視覚だけが体から飛び出したような感覚で、その光景をまだわたしは見ていた。大岩が雷の化け物に直撃し、その体ごと坂まで吹き飛び、大きく開いていた口を塞いだ。その後もまだ雷撃が岩の隙間から漏れ出し、執念深く男の方へ迸っていた。男は岩に寄り添って、何かを言っていたが、わたしの位置からは声は聞こえず、忘れていた視界が遅れて吹き飛ばされた体に戻ってくると、わたしは意識を失った。


 次にわたしが目を覚ますまでの間に起こったことは未だに知れない。男とはその後会うことはなかったし、あの坂も大岩に塞がれた中には入れそうもなかった。わたしが持っていたのは手の中の桃だけだった。

 その桃は種子を取って、栽培することにした。場所はわたしが人として生まれた場所に、そこではわたしの他にも大勢の人々が生まれていた。彼らとともに桃の木が成長するのを待ち、春が来ると花が咲き、夏になると実がなり、収穫をした。何人かがその取れたての実に喉を鳴らして食べようとしているのを、わたしが咄嗟に制止し、食べるためではないことを周知させた。この果実は人が食らうものではなく、より高次の存在のやんごとなき方々がお召しになるものであるというわたしの説明に彼らはまだ完全には納得していないものの、人には毒である、と追加で出まかせを言ったところ、彼らは渋々諦める形に収まった。桃は傷むのが早く、保存に向かないことが食用としての価値を低くしていたことも大きい。すぐ傷むのはこの果実がこの世のものではないからではないか、とわたしは疑っている。

 すべてが順調であればよかったが、草が人に変わり、その分だけ緑がこの地から減少していくことはどこかわたしに不安を抱かせた。人ですら、生まれた全員がそのまま生き残れたわけではなく、千五百人生まれればその内の千人が死んで五百人が残るという調子が続いている。その五百人も次の年には半分以下になり、それを考えればわたしが未だに草臥れずにいるのは不可解なことだった。毎年この地は激しい落雷に見舞われ、その度にわたしだけがたまたま家屋にいたため無事だった。心当たりと言えばやはり桃であり、あれには神力が宿るのだと思わずにはいられない。

 もしそれが真実だとすれば、多くの人々にも食わせるべきかとも考えたが、収穫量に対して人口の増加のペースはすさまじく、供給不足に陥ることは明らかだった。結局のところわたしごときには扱えない代物なのだ。桃に宿る不思議な力も、あの男が与えたものだ。

 男は今何をしているだろうかと考えるときは多い。けれどもわたしからすればあの男は突然現れてわたしを人に変えては、妻を追いかけているといって単身異界に乗り込んで騒ぎを起こし、そして収めた嵐のような存在であり、わたしには想像もつかない世界に生きる者である。無暗にその後を追いかけても、きっとろくでもない結果が待っているに違いない。

 追いかけっこなどするものではないのは、あの男を見たからわかる。わたしはこの地に根を張って生きる人草の一人でしかない。それともたぶん、草なのだから全てがほとんど同一の存在ともいえる。あの男だけが我々とは異なる、わたしの手には届かない世界の存在だ。

 わたしは草らしく、次に訪れる誰かが通り過ぎるのを待っている。その誰かとはやっぱり草から生まれたわたしの複製なのだろう。そいつに桃を渡してみるのも一興かもしれない。

 どこか遠い空の向こうで誰かが泣いている。

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