第2話 ランダムエンカウント

 地球と月は、元は一つだった。一つだったところに、大きな天体が衝突して二つに別れた。地球と月は、元は一つだったのだから、かわいそう。

 

 冬の空は雲一つなくて、昼すぎにはもう薄青色のベールの奥に月がうっすら顔を見せる。西に傾いていく太陽を伸ばした右手で隠す。月がさっきよりもほんの少しはっきり見えてくる。ゆっくり左手を月に向かって伸ばしていく。ずるずるとフリースの袖がずり落ちる。その分だけ、この手が月に近づいている。でも月に触れたいわけじゃない。

 海につま先を浸す砂浜の色が黒ずんでいく。潮の満ち引きは月の満ち欠け。駆け落ちする恋人は満月が浮かぶ夜に沈んでいくかもしれないけれど、それはどうも妄想が強すぎる気もする。誰もいないと踏んで、恋人が書くだろうハートもない砂浜を選んだことは間違いではなかったと思う。

 遠慮を知らなそうな規則正しい足音がいくつか重なって聞こえてきたことで失敗だったと悟った。迂闊な自分を取り繕う言い訳も思いつく間もなく、足音が砂を蹴ってこのスニーカーの中に入るくらいに近づいてきた。二人組で、よく日に焼けている大柄の方が声をかけてきた。

「ちょっといいですか。いまここでなにをなされているんでしょう」

 丈夫そうな群青色の生地の制服は、彼らが警察であることを誇示していた。

「特になにもしていません」

 そう答えると、彼が少し訝しげな表情を浮かべたので、困ったことになったなと、わたしは口の中でつぶやいた。

「学生さんですかね。身分証とかいま持っていらっしゃいますか」

 困ったことに持ってない。そういうものを持ち歩く習慣がなかった。証明書で自身が何者であるかを示すとはどういうことか、と理解できずにここにいる。

 思いつきで、スマートフォンを見せてみた。警官がそれを手に取ると画面が点灯し、その顔をぼんやり白く照らした。わたしが申し訳なさを精一杯顔に浮かべていると、それを警察は咳払いで有耶無耶にしてくれた。

「そうですか。まあ構いません。特に用がないのでしたら、なるべく早くお帰りになった方がいいですよ。最近事件が多発していますから。被害者が身元不明の。なにか気になることなどありましたら教えてもらえると助かります」

 見た目に反して、というのは失礼かもしれないけど、それでも言葉はかなり丁寧なのだなと変に感心していた。だからその丁寧な日焼け警察官の後ろにいるもう一人が一言も発さずにいるのが正反対の存在としてこの目に映っていた。愛想のない切れ長の目だけ帽子とマスクの間から覗いていた。

 彼らがどこかへいなくなったことを確認し、親指を空に立てて合図を送ると、どこに隠れていたのか、二人が防波堤から顔を出してきた。この二人とわたしが居合わせている現場を誰かに目撃されるわけにはいかなかったから慌てて二人は身を潜めていた。

 たぶん正確に物を言うなら、全く同じ顔を持つ一人の三つの体というところで、その内の二体を隠した。残る一体はわたしで、残り物でも紛い物でもなく、元祖であり本物の自分だ。他二体は複製であり、厄介なことに偽物というわけではなく、それらもまた本物であるらしい。何でこんなことになっているのかはわたしも先生もGoogleも教えられない。

 わたしがわたしと出会う瞬間は、久しぶりに友人とばったり出くわした時のような気まずさがただあった。こんなところにいるとは予想していないし、もうほとんどその存在を忘れかけていたところに、びっくり箱から飛び出す人を馬鹿にする顔のあいつは嫌いだ。

 わたしはごくありきたりに目を伏せた。顔を背けて気づかないふりをした。お互い他人を装えば、いくらわたしが一人二人増えようが、そこには他人同士がすれ違うというありふれた光景しかない。屁理屈に聞こえるかもしれないけれど、思うより人は他人のことに注意を払わないし、同じ顔を持つ人間がその場にいたとしても難度の高い間違い探しのようであり、問題を解けと言われていないから気がつかない。仮に偶然気づいてしまったとして、人の顔を凝視するのは普通、失礼な行為だから結局見なかったことにして忘れてしまうのが大人の配慮というものだと期待する。

 わたしの場合、残念ながら大人というにはまだ若く、子どもというにはすかした態度を取りすぎているきらいがあって、顔を背けた後でやっぱり気になって振り返ると、ちょうど鏡のように向こうもわたしの方を見返していた。目と目が合って、特に胸が躍るような展開もスキーリゾートのCMに採用されるような展開も起こりえない。どちらかと言えば奇妙な物語の映像であり、出演する本人としては実話なので奇妙というより不気味に感じた。次に好奇心がふつふつ湧いてきて、互いに接近を試みる。

 ドッペルゲンガーが出会えば起こることは有名で、わざわざ口に出すようなことはしないし、結果は既に判明している通り、特に何も起こらなかった。期待外れも良いところだ、と言われるのは心外で、もし噂の通りのことが起きたならわたしはそう言ったやつを恨んで今とは違う形でこの話をすることになっただろう。とにかく何事もなく世界は回り続けている。寛大な世界に少しくらいは感謝しても損はない。

 とはいえ、さすがに警察のような組織に目を付けられれば、そんな呑気なことを言っていられなくなることは想像に難くない。彼らは日々人間が不自然に減って数が合わなくなれば、それがただの中学生の家出であっても警察犬を投入してまでいなくなった人間を探し出す仕事もする。逆に不自然に増えた場合だって、そこに犯罪の臭いを嗅ぎつけて真実を調べ上げようとするだろう。熱心な仕事ぶりで正直尊敬してしまうが、こちらがその湿った鼻で体中をまさぐられることになるなら勘弁してもらいたくなる。要は互いに関係がなければ良いのであり、そっと通り過ぎていくだけで何も問題が起こらないのはこの世の真理の一つであると思う。だからいちいち余計な首を突っ込んで出張ってこられると、とても困る。


 忌々しく出しゃばりな太陽は一日の公演を終え舞台袖へと下がるときでさえもったいぶる。だけどその時間帯の、赤色と紺色とが混ざってできる紫色の空には、一度見ると目が離せなくなる力があった。

 自分たちが自分の家に帰るというだけのことがどこか違う。普段道をまっすぐ歩くことと、高さ数百メートルに張られた綱を渡ることが同じ行為であるのにも関わらず、そのまっすぐ歩くという行為の難度がまるで違ってくることに似た感覚かもしれなかった。歩行には高度な計算を必要とし、その計算は身体感覚に埋め込まれているのだ、と二人目か三人目かどっちかが教えてくれた。歩くことが簡単なことだと感じるのは、あらかじめ答えを知っている問題を解いているようなものかとこのわたしはとりあえず両方に向かって返した。

「生まれるときに答えが体の中に組み込まれることを覚えている人はいないよ。だから、忘れた答えを思い出すってことだよ」

 歩道の縁石の上をわざとらしく難しそうに渡る自分が独り言のようにつぶやいた。まるで自分はそれを覚えていると言いたげだ。

 全く同じ見た目の人間三人分の幅を占めて帰り道を辿っていた。それに口を挟む人とすれちがうことはなかった。あるいはすれ違っていたのかもしれないし、その人はおかしな三人組を見て気づかないふりをしてくれたのかもしれない。

「さっきも言ったけど、答えは思い出せないだけなんだ。ふとした拍子に降りてくるアイデアみたいに、それはほとんど偶然の出会いといえる瞬間が訪れるまで待つしかない」

「でもテストには制限時間がある。答えが出るまでいつまでも待ってくれる優しさはそうそうないと思うけど」

 学校じゃないんだからさ、とあきれたように縁石の上から吐き出された息が白い。

「ああいうのは効率を求めていて。決められた時間の中でどれだけ多くの作業をこなすことができるのかというね。そういうものは誰かが必要としている能力であって、自分に必要かどうかはわからない。自分自身についての問題は、考えること自体が効率的ではないから、いつの間にか考えないようにされていたりして」

 思わせぶりな口ぶりに引っ張られ、顔を向けて見えた横顔の後ろ。紫の中の白、ただ一つ半目を開けた月が浮いている。一か月のまばたきの途中。不思議だと思うことがある。こうしてあれを見ていると、影になって見えないもう半分が薄く見えるようなときがある。それをしばらく逃さないよう目を釘付けにしていると、見えない側が見える側よりはっきり見えてきて、全体像が補完されていく。

 月が太陽によって照らされているという事実は忘れられがち。特に昼を嫌う反動で夜の月に縋るとそうなる。寄る辺の光が、自分の嫌うものから発せられたのであるという皮肉を認めたくないからだろう。好きだけど自分では手の届かない人が、自分よりもまぶしく明るい誰かによって引き出された笑顔に恋するといった、複雑としかいいようがなく一度そうなってしまえば抜け出すにしろケガを負うことになる厄介な状況は難病だ。

 厄介な状況と言えば、自分が増えたことも当てはまり、治療法はまだ見つかっていないらしい。増えた方とて被害者であり、全てを知っているわけではないそうだ。

 あの警察に見つからなくてよかったと、いまさらわたしは安堵した。悪事を働いていたわけではないのに、わたしはなぜか自分が責められているように感じるときがある。もしかすると、わたしが気づいていないだけで何か人に迷惑をかけたんじゃないかと、自分をまず疑ってみたりする。今こうして横に並ぶ自分を見て、それは多分間違いではなく、必要な確認作業だと悟った。

 信じるかどうかは自分次第だけどね、と大量生産されるフレーズでもっていつの間にか縁石を降りていた自分が口火を切る。

「仕組みはわかっているから、それが作動しないようにすればとりあえず、これ以上自分が増えることはないと思うよ。それで、肝心の仕組みだけどね」

 野良猫が道を見失ったふりで声をあげている。

「猫はニャーとかミャウとか、文字にすればそう鳴く。犬はワンとかバウ。それが彼らのアイデンティティの主張。人間はもう少し複雑な、言葉で自分を主張する。空気を音に変えて言葉として、言葉を頭の中で形にして文字となり、分子の振動が意味へと変化し伝わる。自分を表す言葉を考えて、と聞いて頭に浮かぶものは、自身を示す意味を持つ文字なんじゃない? それこそが、自分増殖の仕組みの正体、文字に魂を宿す受肉の儀式」

 自分にかまう者がいないと察したらしい猫の声は遠ざかっていく。それって妄想の類というやつではないかしら、意味がわからない。

「知らないよ。全部自分が考えていることなんだから、知らないよ。この世で一番の謎は自分自身だとわたしは思ってる。自分のことが全部わかったら、他人なんて必要ないじゃない」

 と平然としてまた縁石の上に戻ったわたしではないわたし。

「増えたなら、減らすこともできるんじゃないの」

「当然、物理的な消去なら可能だけどね。その辺に転がっている石で頭をたたき割ってやればいい。体を山に埋めれば、分解されてなくなるだろうね」

 喉がつかまれたように引き締まった。二人が、自分がその手段を実行せずにいることが、その反対の結果を想像させる。胸に溜まった空気を吐き出すと、白くなって顔を後ろに通り過ぎていった。気づけば空の赤色はその後を追う夜に飲まれていた。それとも、夜が昼を周回遅れにしているのかもしれない。この順番が決まりきったレースが終わるとき、昼が一周足りないままでゴールすらできないのなら、かわいそう。

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