エコロケーション

コムシ

第1話 天地の初発(はじめ)

 わたしは追いかけている。右から左へ、闇から闇へ、影に紛れて逃げている何かを追いかけている。わたしの追うそいつが何者かを、わたしは知らない。

 わたしは、逃げるその何者かを追いかけ捕まえる使命を帯びている。上司に命令されたとか、社会の要請に従ってということではなく、それはわたしが生まれたときに与えられたものだった。

 わたしは、どこまでも続いているような真っ白な世界で生まれた。豪雪地帯だとか極地のように雪が降って視界一面が白いわけではなく、本当に世界そのものが持つ性質として白い。そこで雪が降ったことは少なくともわたしがいるときには経験しなかったけれど、おそらく雪の色は真っ黒だと思われる。雨が降ることはあって、それは世界を飲み込みそうなほどの漆黒だったから。雨が降るなら海もあるはずと考えて最果てまで旅したこともあって、その大遠征は徒労に終わっている。漆黒の海原も世界の果ての滝やその下で支える象は発見できず、蜂に刺されなかったのがせめてもの幸運だった。

 そういうことが一人で出来るほどには時間を持て余していたわたしの世界は、一つの嵐によって今の形に変わってしまった。

 はじめに、美しいと感じていた白い大地に一滴の澱みが浸食してきた。形が削られ、輪郭が次々と描き出され、空間に裂け目が生じると、そこから一気に暗黒がこちらへ流れ出して世界を飲み込みはじめた。

 これは少し大仰な言い方で、実際にはすべてが闇に染まったわけではなかった。黒い澱みはこちらへ流れ込むと次第に凝固しだし、複雑な地形を新たに作り出すと、それらは島となり、元々の白い世界を海とした。それまで存在していた白はただ白くあるだけで、そのすべてが同一だったと思い知らされた。

 世界がなされるがままにされているのをただ見ていたわたしの元にも黒い澱みは容赦なく押し寄せ、飲み込まれたときは、永遠に来ないはずの死を迎えるのだと腹を括っていた。妙な諦めの良さが取り柄であると自認しているわたしを横目に、澱みがわたしを包み込むと、水が大地を削り取るように、彫刻家が岩壁や大木から像を彫り出すように、世界からわたしを削り取って、わたしの形を新たに作り上げた。

 その新たなわたしこそが、今のわたしだ。先に語ったものは記憶として残されていたもので、このわたし自身が体験したことは最後に生まれ出た瞬間しかない。それでも前のわたしと今のわたしはその記憶で連続しているのだと実感している。

 新たなわたしが澱みの中から浮かび上がると、真っ白だった世界は海として世界の一部へと成り下がっていた。新しく作られたモノクロの世界は、その創造主である澱みに支配が取って代わられ、眷属たるわたしにひとつの道を指し示した。

 この世界から何かが逃げ出した。それが、世界がわたしに発した最初の言葉であり、世界の唯一の不満点だった。旧世界の存在であるわたしが生き残りを許されたのは、つまりわたしに後始末と行方不明のラストピースを見つけ出させるためだった。

 わたしの中にその目的は刷り込まれていた。生物とは世界が完全に存在し続けるための部品であり、自然とはその部品で作られた大がかりな装置ということだ。わたしは世界のための自然の部品として、逃げた何かを追う使命を肉体とともに世界から与えられた。

 手がかりは、逃げた何かもまた黒い澱みから生み出されていたということと、水から出たように黒い水滴が点々と残っていたことであり、ビッグフットのような足跡は残されていない。ビッグフットとは実は足跡そのものではないかとわたしは疑っていて、灯台下暗しと言うようにまず残った水滴を調べたが、ただの黒い染み以外のものとは思えなかった。

 結局この足で探し出すしかないとわかり、足踏みしている今に至る。

 やつはきっと、もう既にこの世界から脱出しているに違いない。めっきり見た目が変わってしまったとはいえ、わたしはこの世界を隅々まで知っている。隠れる場所などないし、新たに出来た島嶼に潜んでいたとしてもこの中にいる限り世界の方に見つかるはずだから。そう見立てても世界の外へ出ていくにはあまりにも情報が足りなかった。

 これから向かうことになる世界の外を、どう想像すればいいだろう。わたしには知る由もなかった光景の中に、わたしが追うべき目標が潜んでいるとして、それはどんな景色だろうか。もしかすると逃げたそいつも、わたしと同じ気持ちを抱いていたかもしれない。こことは違う場所で、全く異なる風景の中に自分を溶け込ませるイメージを頭の中で描きながら逃げているのだ。なんだかそれは逃亡犯というよりは探検家という印象だけど、後を追いかけるわたしも同じ体験をする不思議がそこにある。  

 わたしが行く道の全てに、わたしの追う何者かの通った跡が残る。未知の世界への探検は常に先駆者に先を越され、手の入っていない自然を見ることは叶わない。

 これは呪いだ。どうしてわたしの得られるはずだった楽しみが失われてしまうのか。原因は理解している。この世界から勝手に逃げ出したやつのせいに決まっていた。そいつのおかげでわたしが割を食う羽目になった。

 率直に言って腹が立っていた。躍起になって東奔西走するつもりで、三千世界をも踏破してやる覚悟で、逃亡犯を捕まえてしまえば、そいつの正体も目的も判明する。

 気の遠くなる時間と距離がわたしの目の前に立ち塞がっている。未来から流れてくる時間の川の上流に待つものの姿を想像する。かまうものか。どうせわたしは世界の操る駒のひとつ、機械を動かす機械を構成する部品のひとつでしかない。駒は駒らしく言われた通りに行動を実行するだけだ。

 わたしはただそうなるがままに平面な世界の縁までたどり着き、空間がばっさりと切り取られた崖っぷちの上で対岸を見つめた。目をこらせばわたしと同じくらいの高さの壁のようなものがちらちらと点滅して存在と非存在を交互に繰り返しているのが見える。壁があるならこっちではないなと次に崖の下方を覗き見る。そこにはまだ何もない。少なくとも目には何も映らない。虚空をじっと見つめているとだんだんその無に吸い込まれていく錯覚に陥ってくる。はっと気づけばそれは錯覚などではなく、本当に吸い込まれて落ちていっているのだとわかる。落ちていくというのはわたしの主観で、寸前まで崖にいたせいでそう思い込んでいるだけで、既に虚空の只中にいる現状ではどちらが上で下か、順路か往路か、入口か出口か、認識することは不可能だった。

 どうせ何もわからないならとわたしは目を閉じた。次に目を開くときには、何かが始まっているはずだ。

 はじまりはいつも目を開くところからだ。それが王道のパターンで、唯一の道だから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る