第42話 くぁwsでrfvgtbnyふじこlp;@:

 爽やかな柑橘系の香りが口の中から鼻へと抜ける。


 いつもより――水を口に含んでいないからだろう――トロっとした液体が俺の口の中へと注がれた。


 それをコクンと飲み干す。俺の左手を支配していた痛みと痺れが、すぅーっと消えていくのをリアルタイムで感じた。


 そっと、佳弥が俺から離れる――


 と、俺たちを取り巻くようにしていたどす黒い粘物たちが悶え苦しんでいる。


「オオオオオオ……キースー、キースー、デ、カル……」


 その後は聞こえなかった。粘度を失い、ゼリー様のものから液体へと変化し、怨嗟の声をあげながら次々と黒い靄へと昇華すると、宙空へと消え失せていく。


「な、なんだ……」


 訳が分からない。何もしていない。左手の松明は未だ燃えているが、それをかざしたわけではない。なのにスライムたちは勝手に蒸発していっている。


 やがて、ただ一つの大きな塊を残し、他はすべて消えてしまった。


「オデノ……ミタマソ……オマエ……キエロ……」


 その大きな塊も形を保っているのがやっとのようで、俺を威嚇しているのであろう言葉は、途切れ途切れのかすれ声でしかなく、それが反対に哀れさを感じさせた。


「その者の『こごり』も、消しましょう」


 大宜津姫の声。物静かな、しかし何か強い意志を含んだ言葉。えっと思い、姫を見た瞬間、今度は姫に顔を掴まれ、引き寄せられ、そして唇を重ねられた。


 ちょっ……


 口の中に、甘く芳醇なイチゴを思わせる風味が広がる。


「ギャアアアアアアアア!!!!」


 それを断末魔の叫びと呼ばないのなら、何をそう呼べばいいというのだろう――俺の耳を、いや魂を揺らすほどに、その音はおぞましいものだった。


 それはきっと、あの最後まで残っていたスライムが発したものだったのだろう。しかし俺には、それに重なっていた音なき声も感じられたのだ。


 姫が俺から顔を離し、緩やかに微笑む。そこには、それまでの姫の表情――全てを包み込むような慈愛に満ちた表情はなくなっていて、何かを決めた意志とそして何かを含んだ笑みが浮かんでいた。


 一瞬、俺はその表情に目を奪われた。そして直ぐにハッとなる。

 振り返ると――佳弥が虚ろな瞳で、俺を見ていた。


「か、佳弥、これは」

「虎守さま」


 佳弥への言葉が、大宜津姫の声にさえぎられる。


「いや、あの、ちょっと」


 待って――


 そう言おうとして姫の方を向く。


「わたくしを、虎守さまの妻にしていただけませんか」


 ……はぁ?

 いや、何言ってるの、貴女。


「いや、何を急に、というか、今それどころじゃ」

「わたくしでは、ご不満、ですか」

「そういう問題じゃなく、いや」


 佳弥の方を向く。


 ……アカン、世界の終わりを見るような目をしてる。


「佳弥さんは『男』ですよね? それとも虎守さまは、殿方がお好きなのですか?」

「いや、そういうわけじゃ」

「ならば、わたくしと」


 ぐっと腕を引かれ、俺は姫の胸の中へと倒れ込む。拍子に松明を落としてしまったが、床に残っていたスライムたちの残滓――昇華しきれなかった液体がその火を消してしまった。


 佳弥がゆるりと立ち上がる。


「か、佳弥」


 その音が消える前に、佳弥が祭殿を飛び出していった。


「佳弥!」


 追いかけようとして、しかし姫に抱きかかえられる。


「ちょっと、ごめん、離して」

「彼の者を追いかけてなんとします」


 姫が俺の耳にささやいた。


「なんとって、とりあえず、今は離して」


 振りほどこうともがくが、相手が女性だけに俺もそう本気で力を入れるわけにはいかない。姫は、まるでそれを見越したようにさらに俺を抱きしめた。


「虎守さま、『月岬』の一族を信用してはなりません」


 じたばたと姫を振りほどこうとしていた俺の動きが止まる。


「どういうことだ」

「虎守さまは黄泉人を見ましたか」

「ああ」

「あれらは、代々の『月岬』にかどわかされ、魂を失った者たち。しかし月岬は、そんなことなど気にしてはおりません。また新たな人間をかどわかし、己が一族の悲願の為に利用し、そして使えなくなれば、捨てるのです」


 その言葉が俺に火をつけた。少し乱暴に姫を振りほどき、立ち上がった。


「佳弥はそんなんじゃない!」


 すっかり暗闇に沈んでしまった部屋の中、そのまま動かずに座っている姫に向け言葉を放つ。

 姫の瞳の光が、俺を射抜くように見つめている。


「そう言い切れますか」


 その言葉に、俺の心が揺らいだ。

 それを見抜いたのだろう。姫が少し微笑む。


「失礼します」


 俺は姫を部屋の中に残し、佳弥を追いかけるために祭殿を出た。

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