第40話 ユルサナイ……コロス……

 えぐられた左肩がじんじんと痛む。血が流れているが、それをぬぐう暇がない。


 出入口まではすぐ。松明を振り回していけば、外にはすぐ出れる。そうやって人を呼べば……


 その考えは、しかしすぐに捨てた。


『これらは、日が落ちれば私の中から這いだし、日が昇ればまた私の中へと戻っていくのです。毎晩、毎晩……』


 大宜津姫はそう言っていた。つまり、外の連中はこのことを知っているはずであり、毎夜繰り返されるこの『忌むべき宴』は、姫が享受しなければならないものである……ということなのだろう。


 これを救え、ということか。


 もう、この部屋の三分の一はどす黒いねばねばと這いまわるスライムに埋め尽くされている。松明を掲げている俺にはさすがに近寄ろうとはしてこないが、それでも俺を遠巻きに囲おうとするスライムの数はどんどんと増えている。


 いや、『数』を数えられるかどうかも怪しい。あるものは混ざり合い、あるものは別れ、融合と分離を繰り返している。『量』といったほうが正確だろうか。


 いや――逆に考えてみよう。この光景が毎夜繰り返されているのなら、スライムたちはこの祭殿から出て村人たちを襲うということはしないのだろう。


 ならば。


 ――やっぱり、戦略的撤退?


 ふと、姫と目が合った。何かを言おうとしているが、その口からまた黒い粘性の高いものが溢れるように出てきて、ただうめき声だけしか上げることができない。もう僅かばかりしか残っていない外光が、姫の目から流れた涙に反射し、一筋の光を放つ。


 まいったな……


 いい手も浮かばない中、手傷もおった状態で、一体どうしろというんだろう。というか、俺を殺したのはこいつらの中のどれかか?


 あの時、姫と触れんばかりの距離に俺はいた。もしかしたら、姫の『中』からこいつらがざっくりと……


 そうだ、そうだよ、絶対。

 どうする?


 まずはこいつらの増殖を止める必要がある。こうなる前に分かっていれば、もっと楽だったんだろうが仕方がない。


「来たれ、来たれ、火のついた松明。我の左手に」


 ぽっと、松明が現れる。松明二刀流。左腕に痛みが走るが、動かせないことはなさそうだ。


 その二本ともをかざし前に進む。火にあぶられたものが奇妙な嗄れ声を上げて消え失せ、そうでない物は火から逃げるように遠ざかる。


 あの『逆掃除機』が落ち葉を吹き飛ばしていくような感じ。いけるか?


 そのまま姫のところまで速足で歩き、松明を振り回す。姫の傍で体をくねらせていた大きな塊が、その体の一部をドリルのようにとがらせたが、俺は一瞬早く松明の一本をそいつにぶっ刺した。


 火が消えたが、その塊も消え失せる。


 いそいで姫の傍に駆け寄り、松明をかざす。姫の体――胸元、そして着物の袖や裾から流れ出ていた黒い靄が、形になる前に消し飛んだ。


「大丈夫ですか、姫」


 左手で松明を持ちつつ――マジで痛い。右腕で姫を抱き起こす。


 けほっけほっと苦しげな咳の後、荒い息のまま姫は俺の首に縋りついた。


「ああ、虎守さま……」

「毎晩こうなのですか」

「はい……」


 それはつらそうだ。

 松明のおかげで、姫の中から出てくるものはなくなったが、俺と姫をくるっと取り囲むように、スライムたちがくねりまわっている。


 というか、明らかにさっきまでより動きが激しいんだが。


「オトコガ……オトコガ……ミタマソニフレテイル……ユルスナ……コロセ……コロセ……」


 何重にも重なったような嗄れ声が物騒なことをわめき始めていた。俺たちを取り囲むスライムたちがだんだんと壁のように積み重なっていく。


「これじゃ、出られない」


 姫を連れて外へというプランはどうにも無理そうだ。


「わたくしがここから出ては、この『こごり』たちが村人を襲ってしまいます。わたくしがここからでることは、なりません」


 ……なるほど。


「この『こごり』とやらは、一体なぜ姫の中から出てくるんです」


 姫に尋ねる。一瞬、姫が答えるのに躊躇した様子を見せたが、俺の首に回す腕の力を少し強めた後、そっとささやいた。


「これはわたくしの『業』なのです」

「ゴウ? 何ですか、それ」

「……わたくしと愛し合うことを欲し、それが叶わぬ者たちの、怨嗟と慟哭」

「……これ、人間ですか」

「人間の欲望の『こごり』です」


 ここが神話世界――いや、精神世界だからこその存在なのか?

 分からん、分からんが、分かったところでどうしようもない。


 スライムたちの『怒り』がひしひしと伝わってくる。口々にコロセコロセと叫び、それが合唱となって大きく響く。恐怖しか感じない。


 松明を持つ左手が痺れてきた。感覚がなくなっていくようだ。血はいまだに出続けている。


 この松明が無くなれば、きっとスライムたちは俺を串刺しにするだろう……


「ああ、お怪我が……それでもわたくしをお守りくださるのですね」

「そうしろと言ったのは、貴女でしょ」

「でも逃げずに、わたくしを守ってくださっている」

「守り切る自信はないですよ」


 俺の言葉に、姫が突然、俺に抱き着いてきた。


「な、何を」

「わたくし、決めました。その時は、虎守さま、わたくしも一緒に」

「は?」


 声なき声、音のない悲鳴、それが部屋中を満たす。スライムたちの動きが止まった。


「ユルサナイ……ユルサナイ……オトコ、コロセ……オトオ、コロセ……」


 あ、これ、きっとアカンやつや……

 いや、待って、そうじゃない。俺は死にたくない。


 姫が俺をきつく抱きしめる。いや、腕、痛い痛い痛い、やめて、やめて……


 ガタンと大きな音がした。入り口の扉が蹴り壊され、薄暮の空を逆光に、ショートヘア、華奢な体のシルエット。


 それが憤怒のオーラをまとって立っていた。


「許さない。虎守くん……その女と一体何をしているのか、説明してくれるかな」


 いや、あの、佳弥、それは誤解だ。

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