第39話 もう我慢できない。やっぱりボクも行く

 大宜津姫の体からにじみ出た黒い靄は、苦痛にもがいているようにも、喜びに踊っているようにも見える。


 いや、もうそれは『靄』とは言えないものになっていた。はっきりとした実態となって姫の周りをのたうち回っている。


 粘性の高い塊、巨大なアメーバ、もしくはスライム。その色は黒く、黄昏の光が消えていく間にも、それとは別の光――濁ったような藍色の光をその体内から発していた。


 それらの中心で、姫が肩で息をしながら、顔をあげる。汗なのか、それとも体からにじみ出てきたものの『残りかす』が付着しているのか、その髪はぬらぬらとした光沢を放っている。


 駆け寄ろうとして、そのスライムたちが俺の動きに反応する。きわめて強い敵意。


 動けない。


「姫、それは一体」

「……これは、人の『凝りこごり』、と呼ぶべきもの。人間の奥底に漂う欲望や負の感情が煮詰まり、塊となったもの、です。それが……」


 突然姫がむせたように咳をする。それはやがて嘔吐となり、姫の口の中から新たな粘度の高い黒い塊が吐き出された。

 生み出されたものは、姫の周りをまわる踊りの輪の中へとのたうちながら加わった。


 まさに、嫌悪感しか感じない。


「これらは、日が落ちれば私の中から這いだし、日が昇ればまた私の中へと戻っていくのです。毎晩、毎晩……」


 また姫が苦し気に咳をし、大きな塊を吐き出した。いや、それだけではない、着ている着物の胸元、袖、袴の裾からも次から次へと、水たまりが大きくなるようにスライムが増えていく。

 新たににじみ出たスライムに押し出されるように、スライムたちの水たまりがどんどんと広がっていた。

 

「オトコダ……オトコガイル……」


 その中の一つが、その輪から外れ、俺の方へと這い寄り始める。


 気持ち悪い……これは惨いものだ。スライムたちに、ゲームの中で見るような愛嬌など一つもない。それぞれが何かを無秩序にぼそぼそと呟いている。


 その中でも最も気になる言葉と言えば、「ミタマソ」という単語だった。


 ミタマソ――俺の友人であり、極度のオタクであるマサヤが日々その話題を俺に語り続けるネットアイドル『兎カ野ミタマ』の愛称。


 いや、まさかな……


「もしかして、これをどうにかしろというのが、姫のお願い、ですか」

「ええ、そうです……できますか、虎守様」


 そういうや否や、姫が悲鳴を上げて倒れ込む。スライムたちが出てくるのは相当苦しいことのようだ。

 もだえ苦しむがゆえに、今や姫の着物は胸元がはだけ、その肌が露わになっているが、スライムたちに覆われ、白いはずの肌が黒光りしている。


 さすがにこれを見過ごすわけにはいかなそうだ……


 いや、そもそも俺にも火の粉が降りかかろうとしている。輪から離れた一つの黒い塊は今や俺の目の前へと迫っている。


「来たれ、来たれ、火のついた松明、我の手の中に!」


 黄泉比良坂で俺たちを襲ったあの黒い靄の化け物と目の前のスライムたち。もう姿は違うが、気配は似ているような気がする。そうであれば火が効くはず……


 と、そのスライムの体の一部が、まるでドリルの先のように鋭い円錐となり、俺へと突き出される。


 不意をつかれた。


 その先端が俺の左肩へと突き刺さる。走る激痛。ぶよぶよとした見た目とは違って、それは硬く鋭く俺の肩をえぐっている。


 痛い。マジでいたい。


 幸いなことに、我が身を守るために突き出した松明がそのスライムに突き刺さり、その不気味な塊は断末魔にも似た低い悲鳴を上げてかき消えた。

 しかし同時に松明の火も消える。


 慌ててもう一つ、火のついた松明を言霊で呼び出す。掴んだ松明を一振り二振りすると、俺に襲い掛かろうとした別のスライムがその火を避けるように身をくねらせた。


 いつの間にか、スライムたちが俺を取り囲んでいる。


 切りがないな……どうする。


 一匹二匹なら松明でぶんなぐって終了なのだが、こうしている間にも黒いうねうねとした物体が姫の中から次から次へと這いだしてきている。


 俺は壁を背にし、松明を掲げて、スライムたちと睨みあった。

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