第33話 なぜそうなる……

 粘性の高い液体が俺と佳弥との間で交換される。数えきれないほどそれが繰り返された後、俺はゆっくりと佳弥から顔を離した。


 揺れるろうそくの炎は、しかし佳弥の顔をはっきりとは映してくれない。窓が開いていたのだろう。そこから雨音とは違う音――空気をこするような音とともに風が入り込み、それがあまりにも強かったがゆえに、ろうそくの炎が強くたなびき、そして四本ともが消えた。


 暗闇の中、雨風の音の隙間から佳弥の息遣いが聞こえる。その息遣いが途切れ、代わりにいつもの冷たさや鋭さとは対極をなすほどにか弱い声がした。


「いいよ」


 ……何が『いいよ』なんだろう。


 分からないことは分かったふりをせずちゃんと聞くように――家庭教師の先生がよく口にする言葉。俺はその言葉を忠実に守ることにした。


「な、何が?」


 沈黙。シーン虫の代わりに、雨音と風音がロンドン橋を踊る。


「なんでも」


 ……突然舞い降りた理解の天使。荘厳な鐘の音に包まれ、白い羽根がはらはらと揺れ落ちる。


「え、えっと、その、あのな。お、俺、お、男と、したことなくて。い、いや、女ともないんだけど」


 きっとそう。そう、だよな?

 これで間違ってたら、俺、雨の中走って家に帰るぞ……


 ぷっと、佳弥が噴き出した。そして笑う。声を立てて。

 ははははは……という佳弥の笑い声が、しばらく部屋の中に響いた。


「ち、違うのか?」


 やった、やっちまった――


「す、すまなかった」


 あまりの恥ずかしさに俺は佳弥から離れようとして、しかし佳弥の手に腕を掴まれる。


「違ってない。でも、違ってる、かな」


 などと、佳弥が意味不明なことを口走った。


「ど、どっちなんだよ」

「ねえ、虎守くん。もしボクが女の子だったら、キミはずっとボクの傍にいてくれるのかな」

「べつにお前が男だろうが女だろうが、ずっと傍にいてやる」


 その言葉に、佳弥は少しだけ時間を置いた後、「ほんとに?」と小さく聞き返した。


「ああ、もちろんだ。佳弥が望むなら、だけどな。でもお前は月岬家を繋いでいかなきゃいけないんだし、ずっと俺と一緒ってわけにはいかないだろ」


 佳弥はいつかお嫁さんをもらい、そして子を作らなきゃいけない――


 また佳弥が笑い出した。さっきよりももっと大きな声で。


「だから、何がおかしいんだよ」

「いや、だって、キミは本当に鈍いんだね」

「はあ? 俺のどこが鈍いって言うんだよ」

「虎守くんは、バレンタインにチョコをもらったこと、あるかな」

「は?」


 なんで今その話なんだよ……


「も、もちろんあるに決まってんだろ。それがどうかしたのかよ」


 一個だけだけどな!


「小学校の時、キミにチョコを上げた女の子がいただろう。そのまま転校してしまった子が」

「お、おう、いたぞ。というか、なんで知ってるんだよ」

「それ、ボクだよ」


 ……こいつは何を言ってるんだ。


「は?」


 俺がもらった唯一のバレンタイン。ヨッシーからもらったもの。男の格好をしていたから、いつもいじめられていた。


「だから、キミにチョコをあげた子は、ボク、なんだよ」


 理解が追いつかない。佳弥が発した言葉を一つ一つイメージにかえていく。そして得られた結論。


 おい、ちょっと待て……


「お、お前、ヨッシーなのか?」

「うん、そうだよ。キミと同じ班だった。小三の冬に転校しなければいけなくなって、ボクはとても悲しかった」

「でも、お前は『かや』だろう。それに苗字も月岬なんてものじゃなかった」

「小学生の時は、『よしや』って名乗ってた。苗字は父方の『寺崎』だったしね。あの時はここに住んでたから」


 ……なんてことだろう。


 頭の中でくわんくわんという鐘の音が――といってもお寺にあるようなあのでっかいやつの方だが――響いている。


 そうだったのか……そうだったのか!


「ヨッシー、お前」

「うん」

「男だったのか! てっきり女の子だと思ってた。そっか、俺、男からチョコをもらってたのか……」


 バレンタインのチョコカウンターが1から0に戻っちまったな。ははは……


「虎守くん」

「ふぁ? な、なんだよ」

「……なぜそうなる」


 ろうそくが消えた部屋の中、薄闇に浮かぶ佳弥の顔が、すごく、それはもう、ものすごーく、まるで世界中の『ものすごく』を集めてきたかのようにものすごーく、びっみょーに歪んでいた。

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