第32話 うれしい……うれしい……

 落下の感覚と激突の衝撃。


 一度目は感じなかったはずのものが、俺の魂に刻まれる。唯一幸いと言えるものがあるとすれば、辺りが暗すぎて死の瞬間が突然やってきたことだろうか。


 その直前、暗闇の奥に深紅に光る眼を見たような気がした。それがなんなのか、もちろん俺には分からなかった……


 口の中に広がる、柑橘系の香り。それがまた俺を『この世』に引き戻す。いや、戻ったように錯覚しているだけなのだろう。何せこれは、『仮初め』の魂なのだから。


 これまでと違っていたこと、それは目が覚めても、俺の体の上にのしかかる質量がいつまでたっても離れる気配がないことだろうか。


 そこに感じる熱量は、梅雨の真っただ中に感じる重苦しいほどの蒸し暑さとは全く違うもの――いつもは冷たくも儚げで、抱きしめれば折れてしまうのではないかと思うくらいに華奢な体から発せられる湿りきった感情が持つものに違いない。


「佳弥、傷は大丈夫か」


 そう声を掛ける。

 焼けただれたような肌と、剣にえぐられた傷。相当に痛みを伴うものだっただろう。

 佳弥は今、かんなぎ装束を着ている。顔は俺の肩と頬に当てられていて俺からは見えないが、今は傷もなさそうだ。

 

「神話世界で負う傷は精神的なものだから」


 言葉と一緒に出た熱い吐息が俺の耳にかかる。


 佳弥が言うことはつまり、肉体的に傷はないが、精神的ダメージは大きかったということか。

 でも『死に目』に合っている俺は、それほど精神にダメージを受けてはいないような気がするんだが。


「こっちの世界に戻れば回復するのか」

「……キミはね。いや、正確に言えば『全てを置いてくる』から、回復したように見えるだけ、かな」

「もしかして、あの谷底まで魂を取り戻しに行かなきゃいけないのか?」

「キミの魂は、キミを最初に殺したものが持っている。今回谷底に置いてきたのは、ボクがあげた『仮初めの魂』。取り戻しに行く必要は無いよ」

「そうか、それは安心した」


 体を起こそうとしたが、佳弥は俺の上から離れようとしない。


「おい、これじゃ起き上がれないぞ。俺の魂、取り返しに行かなきゃ」


 そう言って佳弥の背中を軽くたたいたが、佳弥に動く気配は無かった。


 もう随分と見慣れた社殿の中は、四本のろうそくの火だけが明りになっていて、その頼りないオレンジ色の光が揺れるたびに部屋に映る影が淡く揺らめく。


 もう夜になってしまっているようだ。


「今日はもう無理だと思う。少し休まなきゃ。キミも、ボクも」

「そっか。うちに連絡しないと。さすがに夜になっているのはヤバいな」


 スマホの位置情報で、母親には俺が越鬼神社にいることは分かるだろう。そこが佳弥の家であることも知っているのだから、『行方不明』ではないだろうが、連絡してないだけにどやされそうだ。


「そう、だね。ほんと、ごめん」

「謝るな。俺が油断した。でも、あの黒い靄は何だったんだ?」


 その問いかけには、しかし佳弥は返事をしなかった。


 なぜだろう。自分でも分からない。ふと気が付くと、俺は佳弥を抱きしめ返していた。


 かわいそうに思ったからか? いや、そうじゃない。そんな風には思わない。

 とりあえず佳弥が無事で安心したからか? そうかもしれない。それは確実にそうだ。


 でも、それ以上の何かを感じた。それは、佳弥を失うことの恐怖だったのかもしれない。

 佳弥を失えば、俺は腐りゆく存在でしかなくなる――


 いや、そうじゃない。それはまだ実感していない恐怖だ。理屈上の恐怖でしかなく、それは本当の恐怖ではない。


 なぜだろう。会ってそんなに日も経っていない。しかも男だ。

 にもかかわらず、俺は佳弥がいなくなることに恐怖を感じたのだ。


「あっ……」


 佳弥が声を漏らす。その声が俺を我に返した。


「す、すまん」


 慌てて手を離す。


「離さないで。ボクを、抱きしめて」


 コン、コンと、何かが部屋を叩いた。それがだんだんと激しさを増し、やがてザーッという雨音に変わる。


 俺はそっと佳弥を抱きしめた。


 雨音にすら消されるほどに小さな声が耳にかかる。俺は強引に佳弥と体を入れ替えると、そのまま佳弥の唇を奪った。

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