第31話 ボクの為に、死んでくれるかい?
俺の頭ン中にあった考えは、「黄泉比良坂にいる者たちは、光に弱いのではないか」というものだった。
佳弥が一体この黒い靄の中でどんな状態なのか、その手からだけでは分からない。しかしどう見ても危険であることに変わりはなく――今にも『谷底』へと引きずり込まれようとしている。
俺が突き刺してしまった剣が、佳弥をどれくらい傷つけてしまったのか。それもまずはコイツを追い払ってからだろう。
ある種の賭けではあったのだが、中の佳弥に当たらないよう、出来るだけ『かすめる』ように松明を黒い靄に向けてふるう。
果せるかな、黒い靄は松明の火に触れた部分が削られるように消えた。二度、三度と松明を振る。すると、黒い靄は、悲鳴を上げて佳弥から離れた。
甲高い金切り声――魂を凍らせるようなぞっとする音が、俺の耳にこびりつく。女の声、だ。
その黒い靄に向けてもう一度松明を振る。黒い靄は、その身を引きずるように崖下へと消えた。崖から下を覗き込み、いまだ漂う黒い靄に向けて松明を投げつける。すると、それがくねるように身もだえながら、谷底へと落ちて行った。
「か、佳弥!」
ぐったりしたまま倒れている佳弥を抱き起す。そのあまりの痛々しい姿に、俺は思わず息をのんだ。
腹に俺の剣が刺さってしまったのだろう。そこから鮮血が未だふきだしている。服はびりびりに引き裂かれたように破れている。その隙間からは、不思議と破られずに綺麗なままの上下の下着と、それが覆っていない肌の部分がむき出しになっていたが、その肌はまるで酸か何かに溶かされたかのようにただれてしまっている。
「お、おい、佳弥、しっかりしろ」
激痛に襲われているのだろう。うめくような声だけが佳弥の口からこぼれている。
まだ息はある。しかし、このままでは――
『扉』を使えるのは佳弥だけだ。俺にはできない。かといって馬で村へと連れて帰るには距離がありすぎる。村に着く前に、息絶えてしまいそうだ。
それを意識した瞬間、体に震えが襲ってくる。佳弥の死は、俺の本当の死も意味するのだ。
「ど、どうすればいい。俺はどうしたら」
これほどに佳弥がもろいとは、そして自分が無力だとは思わなかった。
顔も左半分がただれ落ち、血に染まっている。
このままでは――
と、毒にやられたときの話を思い出した。佳弥はキスをしろと言っていた。毒を俺に移せるのだという。
なら、怪我もそれができるのだろうか?
「佳弥、こうか?」
苦し気な吐息を吐くために口を開けている佳弥に、俺はキスをした。
なぜ自分はさっさと外へ出てしまったのか。後悔だけが襲ってくる。しかしあの状況で、佳弥が襲われるなんて誰が思うだろうか――
佳弥から顔を離す。しかし佳弥は口を弱弱しく動かすだけで、怪我が俺に移るというようなことは起こらなかった。
「だめなのか」
それができるのは毒だけということか。いや、きっと自分の怪我の治療ならできるのだろう。しかし今はもう佳弥は手を動かすことすらできない。
佳弥を襲ったやつ――黒い靄の塊。谷から崖を上ってきたのだろうが、あんなものはいなかったはずだ。
佳弥を谷底へと引きずり込もうとしていた――なぜ? いや、そんなことを考えるのは後だ。
崖を見る。このまま俺が谷へと身を投げれば、死ねる。
佳弥が死んでしまう前に俺が死ねば、最悪の事態は――佳弥が死んでしまい、俺も二度と復活できなくなり腐り果てていくのを待つばかりになる――回避できるのだ。
崖からは一度落ちている。それが二度になるだけだ。あの時は……どうだったか覚えていない。痛みを感じたのか、いやそもそも谷底があったのか、それも思い出せない。
気が付いたら、佳弥とキスをしていた。今回だって、あの崖から飛び降りれば、そうなるに違いない。
そう……そうだよな?
佳弥を地面に横たえる。もう一刻も猶予はない。早く、早く……
立ち上がり、崖から下をのぞく。真っ暗な闇が広がっている。ひとつ、つばを飲み込んだ。
突き落とされるのとは訳が違った。これほどに恐怖を感じるものなのか……
ふと、疑念が腹の奥底から湧き上がってくる。
ほんとに、ほんとに俺が死ねば、越鬼神社へと戻り、佳弥が俺を復活させられるんだろうか。
これまでとは違う。俺は自分で死のうとしている。
そうだ、魂はどうなる? 奪われたままだ。前は『腐ってきた』から佳弥が復活の儀式をしてくれた。
今は? 本当に大丈夫なのか?
繰り返される自問自答。もちろん答えは出ない。しかし自問自答の回数が増えれば増える程に、それに比例して恐怖心が肥大していく。
足がすくんで動かなくなった。
こわい……こわい、いやだ、飛び降りたくなんかない。
その場にしゃがみ、崖に背を向ける。その視線の先で、痛々しい姿のまま横たわる佳弥が、俺を見つめていた。
『ご、め、ん……』
唇が音のない声を発し、佳弥の瞳から雫が零れる。
「佳弥……待ってろ、今、助けてやる」
俺は立ち上がり、そしてそのまま、後ろへと身を投げた。
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