第8話 あの頃には戻れない
なんでいるのよ!!
口元までせり上がった叫び声を気合いで飲み込む。
だが動揺するのも仕方ない。なにせシルヴァ王子が私の部屋にいるのだから。それも椅子に腰掛けた状態で窓の外を眺めている。
まるで私が窓から帰ってくることを知っているかのように。
だが私は今、ジェシカの作った隠密ローブを着ているのだ。見破れるはずがない。実際、私の目でも彼の姿が見える位置まで来ても彼の視線は私を捕らえていない。
見えてはいないはずだ。このまま他の場所から城に入り、荷物をどこかに隠してからドアから入るのが一番。服装だけならなんとでも言い訳が効く。
だが辺りを見回しても全て窓が閉まっている。少し雲行きが怪しくなってきたため、早めに窓を閉めたのだろう。なんとも優秀な使用人達である。今の私には全く嬉しくないけれど。
シルヴァ王子が去るまで待つのも手だが、雨が振ってきて閉められでもしたら最悪だ。一階から戻らなければならない。人質がそんなところをうろうろしていればまず何かあったと疑われる。かといってローブを着て隠れたところで匂いを辿られる可能性がある。
私が城から抜け出せているのはあくまで風の流れに乗っているから。通常時ならまず見破られる。
どうしたものか……。悩んでいると、王子が立ち上がった。
「聖女ラナ。帰ってきているなら早く姿を見せろ。今なら話を聞いてやる」
見えている訳ではないが、彼は私がしばらく部屋を留守にしていたことを知っている。いつからこの部屋にいたのか。留守に気付いたのも今回が初めてではないかもしれない。
ここで隠れ続けても良い事なんてない。腹を括って窓に近づく。
トンッと音を立てて、部屋へと足を降ろした。そしてゆっくりと隠密ローブを脱ぐ。手に引っかけた状態で、深々と腰を折る。
「ただいま戻りました」
「本当に帰ってくるとはな……。見逃しているのだから逃げればいいものを。なぜ君は毎回帰ってくるのだ」
「なぜと言われましても……」
何が模範解答なのか。
人質だから、と答えれば逃げ出すなと言われるに違いない。嫁入りしたから、も同じ。
美味しいご飯が食べられるから・良い生活を送らせてもらえるからと素直に答えればふざけるなと怒られるかもしれない。
右に傾けた首を今度は左に捻ってみる。だが彼が求めている答えが浮かんでこない。
王子妃として第一王子や第二王子をサポートする想定はしてきたし、知識面で助けられるように努力してきた。マナーも常に模範的であれと心がけてきた。地味顔のおかげで平民にもすぐに馴染める。
だが人質として生きる想定はしていなかった。さらに言えば全く接触してこなかったシルヴァ王子がここに来て私に与えた部屋で待っているとも思わなかった。
天気や災害、魔物のことなら予想外でも対応出来るのに。
人間は慣れていない予想外には対応が遅れるようだ。
答えに悩んでいると、シルヴァ王子の眉間にぎゅぎゅっと皺が寄っていく。
「普通は自分を『人質』と呼ぶ相手がいる場所には戻ってこないものだ」
「陛下は人質であると同時に王子の妻としても認めてくださいました」
「口だけだろう。君がされた待遇を思い出せ。どれも王子妃相手にするようなものではない。……ぬるくなったスープに溶けたジェラート、極めつけは三日も放置されたパンだ!」
酷いものだろうと拳を固めて熱弁する彼には悪いが、どれも美味しく頂かせてもらった。
全く堪えていないどころかこの生活を満喫させてもらっている。不便が全くない訳ではないけれど、衣食住に加えて命の危険もない。逃げ出すなんてとんでもない。私は今の自分の住処がこの部屋だと認識しており、だからこそ毎回帰ってきている。
だがシルヴァ王子はそんなことは全くもって想像もしていないようだ。
ギィランガ王国の食生活を知ったら確実に卒倒する。嫁入りしたのが自国の王子ではなく、ビストニア王家で良かった。
なにせ人質が定期的に城から外出していると知っても見逃し続けてくれる人なのだ。
今までちゃんと話す機会はなかったが、いい人であることはヒシヒシと伝わってくる。
何と伝えるべきか。先ほどとはまた違う意味で悩んでしまう。
するとシルヴァ王子は何か勘違いをしたらしい。口を覆い、涙ぐんでしまった。
「声も出ないか。可哀想に……」
「いえ、あの。王子が言うほど悲惨な食事ではなくてですね」
「いいんだ。罪悪感に耐えかねた料理長が教えてくれた。君はそれでも毎日完食してくれるのだと」
情報の出所が予想外すぎる。メイド長もまさか料理長に大ダメージを与えているとは思わなかったのだろう。私の食事を用意してくれていたのは料理長だったのか、と二重の意味でびっくりだ。
だがよく考えてほしい。
何度も外に抜け出すくせ、毎回ご飯前に帰ってきているのだと。
抜け出したことがばれないように、と思ってのことではあるが、冷静に考えるとかなり食い意地の張った行為である。
「だが城下町に繰り出していると知ってから、量も足りなかったことに気付いた」
「え……」
「今日は何を食べてきたんだ?」
「どこまで知っているんですか……」
「城下町に行く日は必ず弱い風が吹いていることと、薬を作って売りに行っていること。それから何か食べて帰ってくること、くらいだな。君が来て少し経った頃から聞こえるようになった音が聞こえなくなる日があることに気付いたんだ。初めは偶然だと思った。実際、初めに確認した際は部屋に姿があった」
私がこの部屋を使うようになってからシルヴァ王子がやってきたのは今日が初めてのはず。少なくとも私が起きている時には一度だって来ていない。
だが『確認』という言葉を使った彼は獣人だ。調薬時の音が聞こえていたことといい、私が何か食べて帰ってきていることに気付いていることといい、私は獣人の五感を甘く見ていたのかも知れない。
「規則性に気付いたのは先月のことだ。帰ってきた君からは果実のような甘さとピリ付くのような香辛料の香りと小麦の香りがした。……外で食べる食事は美味しいか?」
「それはもう!」
自分の立場を忘れ、返事には力が入った。
自分の言葉を耳にして、自分の声の大きさに驚いた。シルヴァ王子も目を丸くしている。
だが前回の外出時に私が食べたラム肉サンドはそれはもう美味しかった。
南方で採れた果物の果汁と同じ地方で育てられている数種類のスパイスに一晩漬け込み、カリッと焼いたものを採れたて野菜と共にサンドしたものだ。
使われているパン生地も店主のこだわりがある。ビストニアで多く使われている小麦はふわっと感と小麦の甘さが特徴的で、城で出るパンも城下町のパン屋さんで売っているパンもふっくらとしたパンが多い。
だがこの店で使われている小麦は大陸北部の領で作られてる小麦で、膨らみは弱いがもちっと感が出る。
元々この地域は米の生産がメインで、小麦の生産を始めたのはごくごく最近のこと。今でも小麦の生産量は限られている。非常にレアな小麦だ。
さらにさらにそのパンをクルミを練り込んで、フライパンで薄めに焼くのである。店に近づくに連れてスパイスの香りが鼻をくすぐり、食べてくれと私の胃に訴えてきていた。
しかも店があったのは西門付近の市場。日替わりで貸し出されている場所である。つまりいつでも食べられる訳ではない。
店主の話ではいろんな国で店を出しているそうで、今回を逃せば次はいつか分からない。夕食前にも関わらず三つも食べてしまった。
もちろん一緒に売っていたスパイスティも一緒に。
スパイスの香りがついたかもと思い、帰る前に風魔法で香りを落としたつもりだった。だがまさかここまで的確に当ててしまうとは……。
ああ、思い出したらまた食べたくなってきた。今の自分の立場よりもそちらに意識が持っていかれてしまう。
ラム肉も柔らかくて、食べやすかった。初めて食べたのでどこの地域で育てられている羊なのかまでは判断出来なかった。
ビストニアでは魔獣肉を食べる習慣もあるので、私の知識だけではなかなか判断を下すのは難しい。牛・豚・鶏までなら大体の地域と餌までは分かるのだが……。
「屋台での食事も良いが、本当の城の食事は美味しいんだ。君にも分かって欲しい」
城の食事の美味しさはもう十分伝わっている。美味しくなければサンドを三つも食べた後に、満腹の腹に一食分を無理矢理詰め込んだりしない。
この先、人質解放もとい離縁されたとしても自国にだけは戻りたくない。全力で逃げ出す。
聖女の仕事自体は良い。働くのは嫌いではない。心なしか最近神聖力も回復してきたような気がするので、以前よりも役に立てるはずだ。
だが私の腹はもうメシマズ時代には戻れない。他のものを我慢しても食事だけは無理なのだ。だが今から一気にランクを下げたくないのであって、これ以上を求めている訳ではない。
「これ以上君に我慢させないよう、今日から俺は隣の部屋で過ごすことにした。すでに荷物の運び込みは済んでいる。食事も一緒に摂ろう」
逃げ出せばいいのに、と言った人と同じセリフだとは思えない。いや、帰ってくるだろうと思っていたから部屋で待っていたのか。彼の行動の意図がよく分からない。だが彼の尻尾は小さく揺れていて、何かを楽しんでいることだけは分かった。
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