2・3
アルフォンスの見張りバイトは今日、下校したらだという。私は毎日居酒屋の皿洗いがあって、時間がかぶる。
当然、居酒屋優先――なんだけど、あのアルフォンスが本気でお兄さんを心配しているし、プライドを捨てて正直に『ひとりじゃ怖い』と言ってきた。
帰ったらお店に謝って、変わりのバイトを探す。急病のときに助け合う仲間が何人かいるから端から声をかければ、たぶんなんとかなる。私はまだ一度も頼んだことはないし、快く引き受けてもらえるだろう。
そんなことを考えながら祓魔庁の建物を走り出た、その瞬間にビシャリと頭から水をかぶった。クスクス笑いが聞こえる。見上げると二階の窓から数人の生徒が私を見て笑っていた。木桶を持っているヤツもいる。
思いの外、大っぴらにかましてきたな。
くるりと背を向け、
「幼稚だなぁっ!!」と叫ぶ。
王宮の敷地内を行き交うひとたちがこちらを見る。ずぶ濡れ庶民を気遣うような優しいひとはいないけど、エリート貴族の子弟の意地悪さに眉をひそめる常識人くらいはいるかもしれない。
それからもう一度ヤツらを見てフンッとアゴを上げてやった。
走ると逃げているように思われそうだから、堂々と歩く。
――でも帰ったらお祖母ちゃんになんて言い訳をしよう。すぐに忘れるとはいえ、余計な心配をさせたくない。
雫が顔を伝い髪の先からポタポタと垂れる。
「ユベール! どうしたんだ!」
王宮の庭に響く声。
あれ。また見つかった。
振り返るとフォルタン様が慌てた様子で駆けてくる。
「びしょ濡れじゃないか」
「……噴水に突っ込みました」
いや、私ってば嘘が下手すぎ。自分でもがっかりしてしまう。祓魔庁の周囲に噴水はないもの。
「着替えて帰りなさい。手配するから」と優しいフォルタン様が心配そうな顔で言ってくれる。
「お気持ちだけで結構です。早く帰らなくちゃいけないんで」
「……そう。だけどちょっと待って」
フォルタン様は手にしていた書類を脇に挟むと、手早くクラヴァットを外した。それで丁寧に私の顔を拭い、終えると頭をわしゃわしゃと拭いてくれた。
「陛下に報告するからね」
「いいえ」私は首を横に振った。「陛下のご決定には間違いはないものなのでしょう?」
国王の裁定はすべて正しく絶対的。そういうもののはずだ。私の入学が失敗だったとなったら、陛下の反対勢力がそれ見たことかと調子づくだろう。
一度しかお目見えしたことはないけどそのとき陛下は、お祖父ちゃんへの感謝と他界への哀悼を丁寧に伝えてくれた。だから足を引っ張りたくない。
「失礼します」
ぺこりと頭を下げて走って逃げる。
陛下に報告されたくないというのもあるけど、フォルタン様にカッコ悪い姿を見せたくもなかった。
◇◇
無事に代わりのバイトがみつかり、居酒屋の店主も『公爵令息の無茶振りなら仕方ない。可哀想に』と言ってくれた。
ごめん、アルフォンス。ちょっとだけ話を作って君に悪者になってもらった。いいよね、今まで私をいじめてきたんだから。
「庶民の服です、公爵令息様」
わざとらしく大仰に言って、うちに入ってきたばかりのアルフォンスに渡す。
「あとお釣り」
服の上に小銭を乗せる。
「ユベール、水を掛けられたんだって?」
「まあね。耳に入ったんだ」
「教えてくれたヤツがいた」
気まずそうな表情をするアルフォンス。
「クラス全員がお前をいじめているわけじゃない」
「僕にとってはみんな同じ」
「黙っているヤツらはとばっちりが怖いんだ」
「わかってるよ。でも味方じゃないなら敵なの」
アルフォンスは顔をこわばらせたけど、なにも言わなかった。
「早く着替えな。僕はお祖母ちゃんと話してくる」
「ユベール」
「なんだよ」
「その」アルフォンスの目が泳ぐ。「……ひとりで着替えたことがない」
「は? まさか僕に手伝えと?」
「……バイト料を払う」
「バッカじゃないの! どんだけお坊っちゃまなんだよ」
とはいえ、元伯爵令嬢のお祖母ちゃんもそうだもんな。ひとりじゃ着替えられないから、寝巻きのままでいることが多い。学校のせいで私が手伝えなくなったからね。
「ほら、さっさと脱ぐ」
令息様の上着を剥ぎ取り、ベストを脱がし、ブラウスのボタンを首元から外していく。
「見張りを今日以外もするつもりなら、着替えの練習をしておいて」
「そうする」
「きもっ! 素直すぎ」
半分ほどボタンを外し、ブラウスがはだけて下着が見えたところでハッとした。
アルフォンスは男だ。
私、男の人の下着姿なんて見たことない。
急激に羞恥心が湧き上がる。
「ユベール?」
手が止まった私に、アルフォンスが不思議そうに声をかける。
「なんでもない」
気にするな、私。私の戸籍は男だ。アルフォンスと同性!
「また具合が悪いか?」
「違う」
「……無理はしなくていい」
「無理をしないと生きてこれなかったけど?」
焦っているせいか、ポロリと本音がこぼれる。
「今は無理してない。いいから早く――」
ボタンを外す指にアルフォンスの指が重なった。
「汚い」
「悪かったね!」
ヤツのお美しい手を払いのける。
毎日皿洗いをしている私の手はボロボロだ。
「文句があるなら――」
「これは痛くないのか」
「痛いに決まっているでしょ。でも慣れた」
「逞しいな」
「は?」
アルフォンスの顔を見上げる。
「褒めている」
「キモい」
ボタンを最後まで外すと後ろにまわってブラウスを脱がせる。
「でも、まあ、ありがと。水を掛けられるよりはいいかな」
アルフォンスは黙ってうなずいた。
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