第六話  凍らせてでも。

 名を呼ばれた気がした。


 ピクリと意識が動く。

 わらの匂いがする。

 人が藁を踏み歩いてくる、サクサクという足音がし、影がさし、


「さあ、吾妹子あぎもこ、起きて。もう行くよ。支度したくをおし。」


 と優しくあたしの耳にささやおのこの声がした。


広河ひろかわさまだわ……。

 昨日、たくさんあたしを愛した、広河さまの声だわ……。)


 目を開けると、夜明けが近い、薄暗い小屋のなか、間近に微笑む広河さまの整った顔があった。

 比多米売ひたらめもうっとりと微笑み、両腕を親しく広河さまの首にからめ、抱きついた。


 その途端とたん、絶叫が……。


 魂をくような凄まじい絶叫が小屋の外から聞こえた。

 あたしの頭がはっきり目覚める。

 後ろを振り返ると、赤土の壁の上、明かり取りの外に、木に登った大川さまと目があった。


(そんな……!)


 大川さまは、木の枝をつかみミシミシと揺らし、鬼のような顔で凄まじい声をあげているが、言ってる言葉は分からない。

 

 あたしは己の口を手で抑えて、目を見開いた。

 それ以上、何も言えず、何も動けない。

 身体がふるふると震えた。


(見られた。)


 どうしてここに、と思い、いや違う。仕組まれた、これを広河さまは待っていたんだ、と思い当たる。

 弟へののために、あたしは利用された。


(見られた……!)


 どんなにか傷つけたろう。

 大川さまの元を去るのは、もうどうしようもない事とはいえ、


(こんなところ、見せたくなかった……!)


 明かり取りの向こう、大川さまの姿はすぐに消え、叫び声が小屋の入り口のほうに向かっている。

 この姿のままでは、外に出られない。

 とにかく、すぐに身支度をすませなければ。

 髪は……。

 ええい! 髪型をなおす時間はない。

 とにかく衣を着よう。


「…………。」


 なんだこのボロボロのほう(ブラウス)はぁぁぁ!

 袖と背中は無事だが、腹と胸の箇所がびりびりに破られて、これでは隠せない。

 同じく破られた背子はいしはどこにもない。きっと汚れた藁と一緒に処分されたに違いない……。

 あの下衆男げすおのこッ!

 明日から何を着て歩けと言うのかッ!

 高価な衣を遠慮なく破いてくれやがって、この……。


 はっ、こんな事にかまけている場合ではなかった。


 あたしが最大限の身支度をすませ、開け放たれた小屋の入り口を見ると、広河さまはあたしに背をむけて立っていた。


「う、わ、あ、あ、あ───!」


 小屋の外の大川さまが絶叫し、とうとう剣を抜いた。


「いけない、大川さま、斬っては駄目だ───!」


 ここから見えぬ外から、おのこの制止の声がするが、剣を構えたまま、大川さまは広河さまに、じりじりと近づく。


「斬れるのか。」


 あろうことか、広河さまは逃げも構えもせず、腕を組んで、ゆったりと入り口の扉にもたれかかり……。


(バカじゃないの。なんで逃げようとしないの。)

(大川さま、斬っては駄目。)

(大川さまに、あたしのこの姿を見せたくない。)

(大川さま、そのおのこ、あたしを大川さまから盗ったのよ、酷い奴。)

(大川さま、その胸に飛び込めたら、どんなにか……。)

(バカじゃないの。なんで……。)


 瞬時に自分のなかに、あまりにも多くの想いが膨れあがり、駆け去っていったので、くらりとした。

 あたしは、自分の心を測りかねた。

 しかし、今すぐ決断せねば。

 時間はない。

 心を……。

 凍らせてでも……。


 あたしは決断し、すぐさま走りだした。

 広河さまを背にかばい、まさに剣を振り下ろそうとする大川さまとの間に滑りこむ。


(斬られる。)


 と思ったが、大川さまは剣を止めてくれた。

 みるみる大川さまの美しい顔が苦しそうに歪み。

 悲しみとも───。

 憎しみとも───。

 恋しさとも───、分からぬ色になり、


比多米売ひたらめ……!」


 名を呼ばれた。

 胸が……苦しい。


「どけ……!」


 まっすぐ大川さまと目があう。

 心を凍らせようとも、涙は……。

 涙は止めることができない。

 泣きながら、


「どけません……!」


 あたしは本当にどかない。

 大川さまが剣を納めるまで。


「どけ……!!」


 大川さまの目からも、涙があふれている。

 大川さまの涙があたしにこぼれかかり、


「どけません!」


 大声が出た。

 それ以上の言葉を言えようか。

 一昨日、大川さまを誘い、さ寝し、昨日、兄の広河さまとさ寝し、今、広河さまを選んだおみなが、何を言っても。


「うあ……!」


 大川さまが剣を振りかぶる。

 斬られる。

 目をつぶる。

 脂汗が吹き出る。



 ……仕方なかったことなのよ、なんて言っても。

 あたしだったら、鼻で笑っちゃうわ……。



「なぜだ!」


 大川さまは叫び、ざん、と近くの地面に剣が振り下ろされた音がした。

 土が飛ぶ。

 目を開けると、


「なぜだ──────ッ!」


 大川さまが絶叫し、剣から手を離し、膝をつき、手を地面についたのが見えた。


 その声を聞いて……。


 あたしの胸のなかで、縛り付け、凍らせようとしている心が、それでも身悶えし、苦しみと悲しみの声をあげているのに気がついた。


 あたしはゴクリと唾を呑みこみ、もっと自分の心をきりきり締め上げた。

 何も感じないように……。


 自分の心に注力してるゆえに、動けない。


しまいか。」


 広河さまが静かに言い、優しく、すい、とあたしを抱き上げた。

 あたしは腕を広河さまの首にまわし、顔を広い肩にうずめた。


「女官を一人貰いうける。あとで相応の品を宇都売さまに届けよう。」


 と広河さまは歩き出し、ふと足を止め、


「他のおみなまでは望まない。安心しろ。

 このおみないもだと言うのなら、今生こんじょうの縁はなかったものと諦めろ。」


 と重ねて言い、その場をあとにした。









 それが大川さまとの別れになった。








 すでに、小屋の裏の木立に、馬が二頭、用意されていた。

 伊可麻呂いかまろは一人で。

 あたしは広河さまと同じ馬に乗った。

 広河さまの腕のなか、同じ鞍にのり、馬に揺られ……、限界がきた。


「ふっ……、うっ……。」


 涙がせきを切ってあふれだした。

 もう止まらない。

 もう意志で止められない。

 とめどなく泣いた。

 こんなに泣いては広河さまに愛想を尽かされてしまうかもしれない。

 それでも止められない。


(あんな事、したくなかった……!)


 弟に兄を斬らせるわけにはいかなかった。

 あたしの目的の為に。

 それでも、大川さまを傷つける形で、あんな事、したくはなかった……!


「ふぅ───っ、うぅ───っ!」


 抑えた泣き声をもらし続けていると、ばさり、と頭の上から、毛皮を被せられ、片腕で抱きしめられた。

 広河さまの着ていた、滑らかな毛皮の外套がいとうだ。

 軽くて、温かい。

 ……大川さまより、もっと鋭い、清涼感のある香木の匂いがした。

 広河さまは、


「……許す。」


 と一言だけ言った。


(許す? 何を? 何をだろう……?)


 と思ったが、顔を毛皮の外套がいとうで隠されてる安心から、


「あ……、あ……!」


 涙がもっと盛大に溢れてきた。


「広河さま。これを。」

「ああ。」


 と伊可麻呂いかまろの声がしたから、広河さまは伊可麻呂から、葡萄えび色の上衣うわごろもを受け取ったのだろう。

 しゅ、と衣擦れの音がして、一瞬広河さまの左腕が離れ、またすぐ、強く片腕で抱かれた。

 大声で泣きながら、これだけ泣いていても、広河さまはあたしを抱いてくれているし、怒らない、と思った。


(……泣くのを許す、なのかな?)


 そうなのかしら。

 大豪族の考えていることは分からない。


「ああ……! ああん……!」


 今は泣きたい。

 沢山泣きたい。

 それを許してくれる、なら……。



 ……あたし、この人を愛せるわ。



 そう思い、ずっとあたしは泣き続けた。




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