第二十話  鎌売、雪降りはお断り

 天霧あまぎらひ  雪降ゆきふらめやも

  

 今さらに


 我家あがへ狭野方さのかた  花と散らすな




 天霧相あまぎらひ   雪零目八方ゆきふらめやも

 今更いまさらに

 吾宅之狭野方あがへのさのかた  花尓令落莫はなとちらすな 





 曇り空となり、雪が降って来ないで下さい。


 今さらです。


 あたしの屋敷の庭に咲いた、狭野方さのかたの花を散らさないで下さい。




   *   *   *




 鎌売かまめはまだ名前のない御子おこを抱き、小刻みに身体を揺らす。

 軽くではない。

 膝を使い、その場で足踏みし、自分の身体をしっかり上下に揺らし続ける。


 緑兒みどりこ(赤ちゃん)は、どっしり木の幹のように胸に抱く。

 緑兒みどりこを抱く大人は、りつ(リズム)良く揺れる。


 御子おこ鎌売かまめの顔を見上げて、


「あうう、あ。」


 楽しいよ、と語りかけるかのように笑う。

 安心させる為に、鎌売かまめは笑顔を見せる。

 これも大事なこと……。


 緑兒みどりこの機嫌をとる作業を甘く見てはいけない。

 身体をりつ良く揺らし続けるのは、地味に疲れる。大人の忍耐が必要だ。

 おざなりにすると、緑兒みどりこはそれがわかり、機嫌を損ねるものだ……。




 鎌売は大川おおかわさまに視線を移した。

 大川さまは、全身から悲壮な、哀しみの気配を漂わせている。

 当然だ。

 兄上を亡くしたのだから……。

 これで、この十六歳の若者は、一人でこの先、上毛野君かみつけののきみを背負って行かねばならなくなった……。



 それに、この緑兒みどりこは……。



 心のなかの嵐はいかほどか。

 鎌売かまめには推しはかれぬ。



「さあ、大川さま、御覧くださいまし。あたしの孫、浄足きよたりです。」


 と、大川さまに緑兒みどりこ用の寝床ねどこに寝そべる孫を見るよう促す。


「ね……、顔はまだ、くしゃっとして、日佐留売ひさるめに似ているか、分からないでしょう?

 血は続くのです。

 成長すれば、ちゃんと日佐留売ひさるめと、父親の浄嶋きよしまに似てくるものです。

 日佐留売も、布多未ふたみも、三虎も、そうでした。

 緑兒みどりこでは分からなくても、成長して、親子並べば、血が続いていると、誰の目にも明らかになるものです……。」


 大川さまが、あどけない浄足きよたりを見下ろし、ふっと微笑んだ。

 

 その顔。

 切れ長の目。

 雪白の肌。

 墨で並びなき線を描いたかのような、すっきりと色気ある眉。

 整った鼻梁びりょう

 端正な口元。

 軽く微笑んだだけで、憂いと、優美さが際立つ。


 はちすが咲くのを見ているかのようであった。


 大川さまが、ぽつりと言った。


「そうなのかな……。

 たしかに、鎌売と日佐留売ひさるめが並んでると、親子だなあ、と思うな。」

「ええ、そういうものです。

 さ、ご自分の胸にぴったりと御子おこをくっつけるようにお抱きください。」


 鎌売かまめは、大川さまに緑兒みどりこの抱き方を教えながら、さらに大川さまの顔を観察した。


日佐留売ひさるめへの気まずさはない。おみなとしての興味もない。瞳にあるのは、乳母ちおもとしての感謝と、尊重だけ……。

 とことん、興味がないのだわ。 

 あたしの娘も可哀想に。)


 と内心、嘆息たんそくしつつ、……これで良かった、と思った。

 

 さっき、大川さまを見た娘の顔も良く観察したが、未練や、動揺は見られなかった。

 女官、乳母ちおもとしての、柔らかい微笑みを浮かべていた。

 娘は、浄嶋きよしまと安泰の夫婦生活を送り、幸せになれるだろう。










 娘を大川さま付きの女官にしなかったのは、他の女官のやっかみを考慮してのことだった。


 大川さまは美しいおのこ


 始めから日佐留売を大川さま付きにして、大川さまの御手おてがついたら、特別扱いだと、どれほど女官たちからやっかみを受けることになるやら、想像がつかなかった。


 娘には、将来、立派に宇都売うつめさま、大川さまを支える女嬬にょじゅとなってもらう必要があった。

 無用なやっかみは避けるべき。

 だから、宇都売さま付きにして、鎌売が直接、いろいろ教えてきた。


 いずれ、大川さまのねやに呼ばれるぶんには、かまわない。


 もし、大川さまが娘をいもとする、と宣言するなら、それはそれで良い。


 娘が、上毛野君かみつけののきみの屋敷に女官としてあがってから、ずっと、大川さまを陰ながら恋い慕っていたのは、気がついていた。


(あたしも母刀自なのだ。

 できるなら、娘の恋を叶えてやりたい───。)


 そう思い、見守っていたが、去年──乙巳きのとみの年(765年)。

 大川さまが奈良へ行く前の日。


 朝から、娘の様子がおかしかった。

 笑顔を取り繕ってはいたが、気配が嘆きにあふれ、瞳には傷ついたかげがありありと見えた。


 大川さまは、感情を押し込めた顔をして、何事もないように振る舞っていたが、瞳には、やはり傷ついた悲しみと、悲憤がちらちらと見え隠れし……、昼餉をさげる為、側によった娘の顔を、故意に見ないようにしていた。


(日佐留売はあたしの娘。

 大川さまは、あたしの乳を飲んだ御子おこ

 あたしに分からないはずがない。

 何かあった。

 二人の間の雰囲気がおかしい。)

 

 娘が大川さまに、多分……、想いを打ち明けた。

 そして、大川さまは……。


 駄目だったのだわ……。


 娘が自分から動いたのは、大川さまが奈良に行くからか。

 比多米売ひたらめ所業しょぎょうのせいか。


 比多米売ひたらめのことは、鎌売は娘に何も言わなかったが、大川さまが比多米売ひたらめさらわれたと知って血相を変えた昼、……娘は勘づいたのかもしれない。

 鎌売だって、あれを見て、わかったのだから……。


 ともかく、娘の恋は破れた。

 ……このまま、叶わぬ想いをいつまでも引きずらせるわけにはいかない。

 何も生み出さないからだ。


 実は、その何日か前に、有馬君浄嶋ありまのきみのきよしまから、正式な手順を踏んで、日佐留売と婚姻したい、と申し出があった。

 その時は、良い話だ、と思いつつも、


(……だが、日佐留売にとっては、大川さまの御手おてがつくのと、どちらが良い話だろう……?)


 と、正直、日佐留売にどちらをすすめるか、鎌売は迷っていた。


 だが、こうなったら、道は一つだ。


 そうして、鎌売は、日佐留売に婚姻をさせた。


 今、大川さまも、娘も、顔が落ち着いて、穏やかな雰囲気……、主と女官だ。

 これで良い。




 ……娘の心のうちまでは、分からないけれど……。


 それは、血を分けた娘とはいえ、もう、鎌売の領分りょうぶんではない。






 意弥奈いやなさまの女官は、もう一掃した。

 娘が上毛野君かみつけののきみの屋敷に帰還したら、女嬬にょじゅとする。


(立派に、堂々と、女嬬としての道を歩きなさい。

 時には、あたしの良き手助けとなりなさい。

 そして、家に帰れば、つまに愛され、おみなに生まれた幸せにとっぷり浸かりなりなさい。)


 女嬬は、厳しい務め。

 家に帰れば、その疲れを癒やすことが絶対に必要だ。


 おみな率寝ゐねする相手は、誰でも良いというわけではない。

 若いおみなには分からないかもしれないが、顔が良ければ良い、というわけでもない。

 

 おのこが真実、そのおみなを恋うて抱くかだ。

 そうであってこそ、おみなとろけて幸せになれる。


(あたしがこの年でも、愛子夫いとこせに愛され、羽ぐくまれ、安心してその胸で眠っているように……。

 あたしの娘には、おみなの幸せのなかで、人生を歩いて行ってほしい……。)





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