第十九話 恋者龍潭 〜れんじゃりょうたん〜
※
* * *
あれは、去年──
十ニ月。
大川さまと三虎が奈良に旅立ってしまった翌日。
「縁談があります。
「えっ。」
あたしは驚いた。
「母刀自、そんな急に……。」
郷の娘は十八歳まで、家柄の良い女官なら二十歳までに結婚する者がほとんどだ。
それは常識ではあるが、母刀自はあたしに今まで婚姻の話はしてこなかった……。
「大川さまは旅立ったわ。あたしが何もわかっていないと思うの? 日佐留売。」
あたしはたじろいだ。
何を、どこまで……?
「あなたは十七歳。お相手の
何より、向こうからの申し出なの。それでね、日佐留売。」
母刀自は強い眼差しであたしを見て、
「───この縁談で、婚姻なさい。」
「母刀自!」
「顔を見て、吐き気がするくらいだったら、言いなさい。
そうでなければ、すぐに
「そんな……、そんな……。」
泣き出しそうになる。
「母刀自を見なさい、日佐留売。
───それが必要な時があるのよ。どうしても。
あたしは悪いことを言ってないわ。
それがあなたにも、分かる時がいずれ来るわ。」
なぜ、大川さまに決別された、次の日なのだろう。
母刀自には、本当に何か見えているのかもしれない。
今まで母刀自の決断で、これは間違い、という事は一度もなかった。
あたしがもし、縁談なんてしたくない、と言ったら、父は……あたしの味方になってくれるかもしれない。
でも、うちの
……そして、あたしも逆らえない。
悲しみに身を浸しながら、あたしは
縁談で会った相手の方は、優しそうな方だった。
なんでも、
それからはもう、なんだか夢を見ているみたいに、話がどんどん進んでいき、気がつけば、十日もしないうちに、あたしは
そして、
十月。
母刀自が正しかったのだ、と思い知らされる機会が巡ってきた。
───意外な形で。
あたしは、二人の
一人は、あたしの子、
もう一人は……。
可哀想に、産まれてすぐ両親が病に伏して、名前をつけてもらえなかった
そしてもしかしたら……、比多米売と大川さまの
どちらかはわからない。比多米売は黄泉渡りしたのだから。
ひょっとしたら、本人も分からなかったかもしれない。
そして、大川さまは、あたしがこの秘密を知っている事を知らない、はずだ。
本当にあの夜、
「あたしは比多米売が何をしたのか、知っています。」
とか余計なことを口走らなくて良かった。
その点は、自分を褒めてやりたい。
心おきなく、知らんぷりして、子育てができる。
自分の子は、もちろん、可愛い。
そして……。
あたしはなんて幸せ者なのだろう!
母刀自は正しかったのだ。
母刀自の言葉に従ったから、今この時、あたしは乳が出る。
乳が出るから、この
まさか、この事態が見えていたわけでもないだろうに、時期を狙いすましたかのような母刀自の
同時に、人生は、何がどうなるかわからない、としみじみと思う。
恋うて、想いが届かなくて、そんな人の子かもしれない
腕に抱き、世話をするのはあたしだ。
なんて可愛い。
なんて愛おしい。
想いは叶わなかったのに……。
もしかしたら、秋津島一の、幸せ者かもしれない。そう思う。
あたしの長年積もらせた恋心が、人知れず深い淵となり、
あたしの秘密の
* * *
十月の末、薄曇りの日。
午四つの刻(昼の12:30)。
先触れもせず、大川さまと三虎が、
二人とも、随分疲労が濃い。
「すまない、姉上。先触れもせず。」
屋敷にあがった三虎が第一声で謝る。
「いいのよ。元気そうね。」
「
「大川さま。」
背の高い大川さまと目があう。
あの日以来だ……。
大川さまは、真面目な顔で、あたしをじっと見た。
切れ長の目は涼やかで、顔の全ては
あたしは、自分が自然な微笑みを浮かべられている事に安堵した。
「日佐留売……!」
いきなり、大川さまがあたしに礼の姿勢をとった。ありえない事に、あたしはぎょっとした。
「
日佐留売が
「まあ……!」
そんな事を言われては、泣いてしまう。
嬉しさに胸をじんわりと温かくしながら、
「あたしも第一子ですが、精一杯務めさせていただきます。
さ……、さ……、部屋のなかへ。
と、袖で目元をぬぐって、心から微笑みながら、二人をなかへ
あたしはまず、まだ名前のない
大川さまはこわごわ、
「や、柔らかい……!」
と口にしたが、すぐに
「うえ───ん。」
と泣き出したので、あたしが受け取り、抱きなおした。
次にあたしの子、
「可愛いなあ。」
と大川さまが相好を崩すが、すぐに、
「うあ───ん。」
と
大川さまは、果てしなく下を向いた。
部屋の奥から、
「ふぁ……、く……。」
と欠伸を噛み殺しながら、母刀自───
「大川さま。」
と笑顔で礼をとる。
「久しいな。鎌売。母刀自と一緒ではないのか?」
「ええ。日佐留売は第一子で経験が浅いので、あたしが
「そうか、それなら安心だな。」
と、母刀自が大川さまと話し始めたので、
(
いったん部屋を離れた。
「姉上。」
と弟が
「三虎。さっきも言ったけど、あなたも大川さまも、何事もなくて本当に良かったわ。もう、父上と
「はい。母刀自も姉上も、健やかにお過ごしで、ほっとしました。
父上、布多未にも、
三虎がゆるやかに笑ったが、すぐに顔を引き締めた。
「時間がなく、訊けなかったのですが、
「もう、誰もいないわ。
「そうですか……。」
あたしは一つ、頷いた。
意弥奈さまが黄泉渡りし、息子である広河さまも黄泉渡りしたあと、母刀自の行動は素早かった。
十日間の喪にふくしたあと、さっさと、意弥奈さまの連れてきた女官、
のみならず、意弥奈さま、広河さまに仕えていた女官まで、一人残らず
「今まで
と、青ざめた女官たちに、母刀自は喝破したそうだ。
あたしは産後だったので、秋間郷の屋敷で、それを後から知った。
三虎も、コクリと頷き、それから、
「姉上、その……。」
と言いにくそうにした。あたしはさっと口を開く。
「
「それはその、そうですが……。」
三虎が難しい顔をし、
「姉上は良かったんですか。だって姉上は……。」
と言った。
その額を指でビン、と弾いてやった。
「う。」
「あたしの
それで今、……助かってるでしょ? この姉に。」
「……はい。」
「それで良いのよ。心配しなくていいの。」
とあたしは晴れやかに笑った。
この、いつもムスッとした顔の弟は、優しい。
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