第十九話  恋者龍潭 〜れんじゃりょうたん〜

 ※龍潭りょうたん……深いふち




     *   *   *




 あれは、去年──乙巳きのとみの年(765年)。


 十ニ月。


 大川さまと三虎が奈良に旅立ってしまった翌日。

 日佐留売ひさるめは、母刀自──鎌売かまめに呼ばれた。


「縁談があります。有馬君ありまのきみの息子よ。」

「えっ。」


 あたしは驚いた。


「母刀自、そんな急に……。」


 郷の娘は十八歳まで、家柄の良い女官なら二十歳までに結婚する者がほとんどだ。

 それは常識ではあるが、母刀自はあたしに今まで婚姻の話はしてこなかった……。


「大川さまは旅立ったわ。あたしが何もわかっていないと思うの? 日佐留売。」


 あたしはたじろいだ。

 何を、どこまで……?


「あなたは十七歳。お相手の有馬君浄嶋ありまのきみのきよしまは、家柄も年齢も釣り合ってるわ。

 何より、向こうからの申し出なの。それでね、日佐留売。」


 母刀自は強い眼差しであたしを見て、


「───この縁談で、婚姻なさい。」

「母刀自!」

「顔を見て、吐き気がするくらいだったら、言いなさい。

 そうでなければ、すぐにつまとしなさい。」

「そんな……、そんな……。」


 泣き出しそうになる。


「母刀自を見なさい、日佐留売。

 おみなには、自分が恋うていなくても、向こうが恋うてくれているなら、それを受け入れて、己をその方の妹とする。

 ───それが必要な時があるのよ。どうしても。

 あたしは悪いことを言ってないわ。

 それがあなたにも、分かる時がいずれ来るわ。」


 なぜ、大川さまに決別された、次の日なのだろう。

 母刀自には、本当に何か見えているのかもしれない。

 今まで母刀自の決断で、これは間違い、という事は一度もなかった。


 あたしがもし、縁談なんてしたくない、と言ったら、父は……あたしの味方になってくれるかもしれない。

 でも、うちのおのこどもは母刀自に頭が上がらない。

 ……そして、あたしも逆らえない。


 悲しみに身を浸しながら、日佐留売はあきらめた。


 縁談で会った相手の方は、優しそうな方だった。

 なんでも、務司まつりごとのつかさで務めていて、たまたま上毛野君かみつけののきみの屋敷で見かけたあたしに、恋をしてしまったそうだ。


 それからはもう、なんだか夢を見ているみたいに、話がどんどん進んでいき、気がつけば、十日もしないうちに、あたしはつまを得ていたのだった。









 そして、丙午ひのえうまの年。(766年)


 十月。


 母刀自が正しかったのだ、と思い知らされる機会が巡ってきた。

 ───意外な形で。


 


 

 あたしは、二人の緑兒みどりこ(赤ちゃん)をお世話する。

 

 一人は、あたしの子、浄足きよたり

 もう一人は……。

 可哀想に、産まれてすぐ両親が病に伏して、名前をつけてもらえなかった緑兒みどりこ(赤ちゃん)。

 比多米売ひたらめと、上毛野君かみつけののきみ広河ひろかわさまの御子おこ


 そしてもしかしたら……、比多米売と大川さまの御子おこ


 どちらかはわからない。比多米売は黄泉渡りしたのだから。

 ひょっとしたら、本人も分からなかったかもしれない。

 そして、大川さまは、あたしがこの秘密を知っている事を知らない、はずだ。

 本当にあの夜、


「あたしは比多米売が何をしたのか、知っています。」


 とか余計なことを口走らなくて良かった。

 その点は、自分を褒めてやりたい。

 心おきなく、知らんぷりして、子育てができる。

 自分の子は、もちろん、可愛い。

 そして……。


 あたしはなんて幸せ者なのだろう!


 母刀自は正しかったのだ。

 母刀自の言葉に従ったから、今この時、あたしは乳が出る。

 乳が出るから、この緑兒みどりこを託された。

 まさか、この事態が見えていたわけでもないだろうに、時期を狙いすましたかのような母刀自の慧眼けいがんに驚くばかりだ。

 同時に、人生は、何がどうなるかわからない、としみじみと思う。



 恋うて、想いが届かなくて、そんな人の子かもしれない緑兒みどりこに、自分の乳を飲ませる事ができる。

 腕に抱き、世話をするのはあたしだ。

 なんて可愛い。

 なんて愛おしい。

 想いは叶わなかったのに……。

 もしかしたら、秋津島一の、幸せ者かもしれない。そう思う。


 あたしの長年積もらせた恋心が、人知れず深い淵となり、緑兒みどりこをお世話するたび、澄んだ水が喜びに波打ち、豊かに水が注ぎ込まれ、恋の龍潭りょうたんが深まっていくかのようだ。



 あたしの秘密の龍潭りょうたん……。





   *   *   *




 丙午ひのえうまの年。(766年)


 十月の末、薄曇りの日。


 午四つの刻(昼の12:30)。


 先触れもせず、大川さまと三虎が、秋間郷あきまのさとの屋敷に訪れた。

 二人とも、随分疲労が濃い。


「すまない、姉上。先触れもせず。」


 屋敷にあがった三虎が第一声で謝る。


「いいのよ。元気そうね。」

日佐留売ひさるめ。」

「大川さま。」


 背の高い大川さまと目があう。

 あの日以来だ……。

 大川さまは、真面目な顔で、あたしをじっと見た。

 切れ長の目は涼やかで、顔の全てはうるわしかった。

 あたしは、自分が自然な微笑みを浮かべられている事に安堵した。


「日佐留売……!」


 いきなり、大川さまがあたしに礼の姿勢をとった。ありえない事に、あたしはぎょっとした。


乳母ちおもも一人がえやみ、予備としていた者も、あまりのことに乳が出なくなってしまったと聞いた。

 日佐留売が乳母ちおもとなってくれて、本当に……、本当に……。感謝する。」

「まあ……!」


 そんな事を言われては、泣いてしまう。

 嬉しさに胸をじんわりと温かくしながら、


「あたしも第一子ですが、精一杯務めさせていただきます。

 さ……、さ……、部屋のなかへ。緑兒みどりこを抱いてくださいまし。」


 と、袖で目元をぬぐって、心から微笑みながら、二人をなかへいざなった。



 あたしはまず、まだ名前のない御子おこ緑兒みどりこ用の寝床ねどこから抱き上げ、大川おおかわさまの腕に移しかえた。


 大川さまはこわごわ、覚束おぼつかない手付きで抱き、


「や、柔らかい……!」


 と口にしたが、すぐに緑兒みどりこが、


「うえ───ん。」


 と泣き出したので、あたしが受け取り、抱きなおした。

 次にあたしの子、浄足きよたりを抱いてくれた。


「可愛いなあ。」


 と大川さまが相好を崩すが、すぐに、


「うあ───ん。」


 と浄足きよたりが泣き出したので、御子おこ緑兒みどりこ用の寝床に移し、あたしが浄足きよたりを抱き直した。

 大川さまは、果てしなく下を向いた。


 部屋の奥から、


「ふぁ……、く……。」


 と欠伸を噛み殺しながら、母刀自───鎌売かまめが出てきた。


「大川さま。」


 と笑顔で礼をとる。


「久しいな。鎌売。母刀自と一緒ではないのか?」

「ええ。日佐留売は第一子で経験が浅いので、あたしが宇都売うつめさまに無理を言ったんですよ。」

「そうか、それなら安心だな。」


 と、母刀自が大川さまと話し始めたので、


炊屋かしきやへ昼餉の指示をしてこよう……。)


 いったん部屋を離れた。


 

 





「姉上。」


 と弟が簀子すのこ(廊下)を追いかけてきた。


「三虎。さっきも言ったけど、あなたも大川さまも、何事もなくて本当に良かったわ。もう、父上と布多未ふたみには会った?」

「はい。母刀自も姉上も、健やかにお過ごしで、ほっとしました。

 父上、布多未にも、上毛野君かみつけののきみの屋敷で会いました。元気でした。」


 三虎がゆるやかに笑ったが、すぐに顔を引き締めた。


「時間がなく、訊けなかったのですが、意弥奈いやなさまの女官達は……。」

「もう、誰もいないわ。朽葉くちば叢濃むらごの衣の武人も、一人残らず。」

「そうですか……。」


 あたしは一つ、頷いた。

 意弥奈さまが黄泉渡りし、息子である広河さまも黄泉渡りしたあと、母刀自の行動は素早かった。


 十日間の喪にふくしたあと、さっさと、意弥奈さまの連れてきた女官、朽葉くちば叢濃むらごの衣の武人全員を、相模国さがむのくにに返した。

 のみならず、意弥奈さま、広河さまに仕えていた女官まで、一人残らず放逐ほうちくした。


「今まで宇都売うつめさまにしてきた仕打ち、忘れたと言わせぬ!

 上毛野君かみつけののきみの屋敷に居場所があると思うな。去れ!」


 と、青ざめた女官たちに、母刀自は喝破したそうだ。

 あたしは産後だったので、秋間郷の屋敷で、それを後から知った。


 三虎も、コクリと頷き、それから、


「姉上、その……。」


 と言いにくそうにした。あたしはさっと口を開く。


上野国かみつけののくにを離れて一年もたたないうちに、姉がつまを持ち、緑兒みどりこまでいるんで、吃驚びっくりしたでしょう。」

「それはその、そうですが……。」


 三虎が難しい顔をし、


「姉上は良かったんですか。だって姉上は……。」


 と言った。

 その額を指でビン、と弾いてやった。


「う。」

「あたしのつまからの申し込みで、母刀自が受けろと言ったのよ。

 それで今、……助かってるでしょ? この姉に。」

「……はい。」

「それで良いのよ。心配しなくていいの。」


 とあたしは晴れやかに笑った。

 この、いつもムスッとした顔の弟は、優しい。





   

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