第三話  蛾羽 〜ひむしば〜

 とほしとふ  比多伐ひたば白嶺しらね


 いはの  こごしき道ゆ


 なげきつつ  が行く道の  


 いや遠長とほながき道


 蛾羽ひむしばの  衣破きぬやぶれぬれば


 ぎつつも  またもふといへ


 たまの  えぬれば


 くくりつつ  またも合ふといへ


 またもわぬものは  


 にしありけり




(遠いという  

 比多伐ひたばの山の白いみねの、

 岩がごつごつと出た道。

 嘆きながらあたしが行く道は、

 なんと遠く長い道だろう。


 はねの衣が破れれば、

 いで再びうと言うけれど、

 玉の糸が切れたら、

 むすんで再び合うと言うけれど、


 二度と会えないものは、

 だったのね。)





    *   *   *




 乙巳きのとみの年(765年)。


 十二月。


っ……!)


 比多米売ひたらめは顔をしかめた。


 今、ひしおの壺をしまうためにしゃがみこんだ時、ふくらはぎのあざに腿で触れてしまった。


 ジクジクと傷んだ。


 今朝、桜色のほう(ブラウス)の袖で、水瓶すいびょうをうっかり倒してしまい、罰として、ふくらはぎを棒でしたたかに打たれた。


 その水瓶は、乾燥させた宇万良うまら(野いばら)を、昨日の夜から浮かべ、今朝、花びらをし取り、香りを移した水が入っていて、宇都売うつめさまへお届けする特別な水であった。

 

「罰です。───八回。後ろをむいて、ふくらはぎを出しなさい。」


 いつもは女官を取り仕切る女嬬にょじゅ鎌売かまめに打たれる事が多いが、今日は鎌売かまめの娘、日佐留売ひさるめが回数を決め、あたしを打った。


(あのおみな……!)


 あたしより一つ年下の十七歳のくせに。

 いつも、取り澄ました顔をして、あたしは上品な上級女官です、百姓ひゃくせい出身のあなたとは違うのよ、という顔をしやがって……。

 大嫌いだ。


 日佐留売ひさるめは、名家、石上部君いそのかみべのきみの血筋であり、母刀自ははとじである鎌売かまめは、大川さまの乳母ちおもだ。


 日佐留売ひさるめとあたしは、そもそも本当に、立っている場所が違う。


 十四歳からもう三年も女官として経験のある日佐留売ひさるめが、まだ二月ふたつきほどしか女官として務めていないあたしを折檻せっかんするのは、当たり前のことではあった。


 でも、あの、田の稲刈りも、我が身を市で売り買いされる苦しみも、一生縁がないであろうあのおみなのおっとりした顔が、あたしはどうしても鼻につく……。




 ここは上毛野君かみつけののきみの屋敷の炊屋かしきや

 火を使うため、屋敷から離れたところに作られた部屋だ。

 沢山のお湯を沸かすので、もうもうと湯気がたちこめ、五つ並んだ大きなかまどではバチバチとたきぎが爆ぜ、米が炊かれる良い匂いが、ぷんとする。

 忙しく昼餉の用意をする。


 あたしはきびきびと動きながら、一人こんな事を考える。


(……いっそのこと、遊浮島うかれうきしまに買われれば良かったのに。)


 おみなにとって、この世で最も苦しく、命も心もすり減らす務めだと聞いたことがあるが、成功すれば、国司こくしさまともお相手できるほどの栄華が手にできる。

 そこまではいかなくても、おのこたちを相手にして、富をしぼり取り、おみな達のなかでのし上がっていくくらいの自信は、ある。


 それに比べ、大豪族の屋敷の女官は、おしとやかに上品に万事やらなければならないし、普通に働いてるだけでは、一生、あたしの目的は果たせない。


 あたしの為すべき事。


 私出挙しすいこを払えず下人に落とされ、市で散り散りに買われていった家族を、必ず救い出すのだ。

 必ず……!

 そう……、この今の境遇でも、一つだけ、それを果たせる道がある。

 あたしはもう、その道を見つけている。


 上毛野君かみつけののきみの次男、大川さまをのだ。


 大川さまは十五歳。

 匂い立つような美しい若者で、いつも女官達が群がっているが、大川さまは誰も相手にしようとしない。


 大川さまが十歳のとき、卜部うらべに、


「秋津島に妻はおらず。」


 と言われたとか、かまびすしい女官達のあいだで耳にしたことがあるが、それを気にしてだろうか?


 あれは絶対……初心うぶだ。


 なぜ皆放っておくのだろう?

 あたしから言わせれば、隙だらけだ。

 あとは、近づく機会があれば良い。

 そう思っているが、新人の女官は、炊屋かしきやで働かされ、配膳など、大川さまの近くに行ける機会が来ない。


 とくに、あのおみな日佐留売ひさるめが、いつもぽーっとした目で大川さまを見つめているのが、良い。

 遠くから見ているだけだが、あれは大川さまを恋うてる。

 気付かないあたしではない。


 ───どうなるか、見ててごらん。


 あたしは必ず、大川さまの吾妹子あぎもこ(愛人)になって、あたしの家族を救い出させてやるんだ。





 はたして、機会はやってきた。


 さるの刻。(午後3〜5時)


 大川さま付きのり目の女官が、山橘やまたちばなを腕いっぱいにかかえて、宇都売うつめさまの部屋に来たのだ。

 たまたま宇都売さまは留守だった。


「山橘の半分を、これから大川さまの部屋に飾ります。」


 と聞いた時、妻戸つまと(入り口)近くにいたあたしは、さっと動いた。


「ではあたしが! もう少し花を摘んでまいります!」


 と吊り目の女官にせまり、山橘を半分もぎとると、あっという間に部屋を出た。

 あたしの足は早い。


「はぁ───っ?!」

比多米売ひたらめ、ずるいわよ!」


 部屋のなかから、女官たちの非難の声が聴こえた。



 もう、夜まで帰らない。

 夕餉ゆうげを食べ損ねるが、かまわない。


 あたしは、あえて屋敷から遠めの庭を狙い、十二月の寒さを耐え、山橘を探し回りながら歩いた。




 いぬはじめの刻。(夜7時)



 あたしはたっぷりの山橘と、少しの檜葉ひばを両腕に抱え、微笑みながら、大川さまの部屋を訪れる……。




    *   *   *




「田植えはないけど、耘耔うんし(雑草とり)はした事がある。」


 玉のように美しい大川さまが、明るい笑顔であたしを見ている。

 軽い会話をして、すっかり心がほぐれたようだ。


「へえ……。」


 あたしは心のなかで舌なめずりをした。


(頃合いね。)


 大川さまの手が触れそうなほど、近くに身を寄せ、じっと大川さまを見あげる。


「でも、山の上の歌垣うたがきは知らないでしょう?」


 おのこから笑顔が消え、驚き、口ごもった。

 やはり初心うぶ



 行ったことはなくても、知識としては知ってるでしょう?

 歌垣うたがきでは何をするか。

 興味はあるでしょう?

 大豪族の若さまだって。

 ……おのこだもの。


牛田郷うしだのさとでは、十一月、秋の実りの祭りの夜、比多伐山ひたばやまの上、歌垣うたがきが開かれます。

 ご馳走で腹を満たし、浄酒きよさけで上機嫌になったおみな達が、こう歌うんです……。



 ぐさの  やは手枕たまくら  やはらかに  


 ねやなるや  霜結しもゆ檜葉ひば


 たれかは手折たおりし


 れる月夜つきよや。」


 あたしは朗々と歌いあげて、とびきり魅惑的に微笑む。


(……あたしを手折っても、良いのよ。)





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