第十九話 飾り池の夕陽
「ほほほほ……。」
「
母刀自に招かれ、抱きしめられた。
「あたくしの竹麻呂。こんなにも立派になって、母刀自は嬉しく思います。」
母刀自は腕をほどき、しゃがみこみ、私の頭を撫でた。
「あなたが、この
竹麻呂、あなたこそ、立派に皆の
「はい。」
母刀自は立ち上がり、女官の方をむきながら、
「広瀬さまも良くおわかりになったでしょう。ええ、今宵こそはお渡りがあるはず。きっと、そう。
そこに
女官は目を伏せて言葉を口にした。
「広瀬さまは本日忙しく、こられない、と……。」
母刀自の顔がみるみる真っ赤に膨れ上がった。キィ、と叫び、
「なんですって。どうしてよ! どうして、こんなにもお渡りがないのっ!」
母刀自が腕を振り上げ、恐ろしい力で一気に机の上を薙ぎ払った。
白い
「は……、母刀自……。」
おそるおそる、竹麻呂は声をかけようとするが、なおも全身で暴れ続ける意弥奈の耳には、もう、届かない。
いつもの事だ……。
五人の女官が、
「お鎮まりあれ。」
と意弥奈に群がった。
意弥奈はそれのことごとくを力まかせに振り払う。
「あれぇ。」
「ひぃ。」
意弥奈は鬼のような形相で、
「キィ。あたくしの……。」
女官たちが、顔を恐怖に引きつらせながらも、繰り返し、意弥奈にすがりつく。
「お鎮まりあれ。」
ぱん、ぱん。
「あたくしの、何が……!」
「お鎮まりあれぇ……。」
ぱん……。
呆然と立ち尽くす私の腕を、ぐい、と強く引く者があった。
「竹麻呂さま。行きましょう。」
「………。」
やるせない気持ちで、無言でその場をあとにする。
こうなっては、もう手がつけられない。
時間が経ち、意弥奈が鎮まるのを待つしかなかった。
伊可麻呂と、庭の大岩に腰掛け、庭の松と、飾り池をぼんやりと眺める。
己の顔から、腑抜けか、というほど、表情が抜け落ちているのを感じる。
まだ、遠く、意弥奈の猛り狂う声が聞こえてくる。
(私の声は、母刀自の耳に届かないのに、母刀自の声は良く響いて、聞こえてくるものだ。)
意弥奈は、時々、父上のお渡りがない、と言いだし、月の満ち欠けがけして滞ることがないように、定期的に暴れる。
しょうがない。
父上は、月に二回しか顔を出さないのだから。
母刀自は息子から見ても、美しく、大豪族の娘らしい品格を備えている。
だが、……父上がうるわしみ思ふ(寵愛する)性格ではないのだろう。
意弥奈は気難しい。
息子である自分は、それが分かってる。
そして、父上も。
月二回、この部屋に来て夕餉を饗する時は、私の話しかける言葉に鷹揚に頷いてくださるが、父上の言葉数は少なく、表情からは、何を考えているのか、良くわからない。
(はは……、実の父上なのにな。)
論語の上論を修めたと、博士から父へ報告をさせても、直接褒めに来てくださらず、翌日、博士から、
「お父上はお喜びでしたぞ。」
と言われても、
(舐めてるのか。)
と、ふつふつとした細かな怒りしか湧いてこない。
私は十歳だ。この歳で修めるのだって、
「すこぶる優秀ですぞ。」
と博士に言わしめた。
そうだ。その通りだ。
……母刀自は、
実際に劣ってなどいない!
しかし、加巴理は、生意気なことに、勉学も武芸も出来が良く、さらには、見ている者に、「才が光っている」と思わせる事に
(愚鈍なヤツなら良かったのだ……!)
「加巴理が憎い。」
ぽつりと漏らす。
「ええ、そうです、あの母子がいけないんです。」
伊可麻呂がすぐに答えてくれる。
いつもの、お決まりの問答だった。
「さあ、釣りでもしましょう、竹麻呂さま!」
「……道具をとってこい。」
明るい伊可麻呂の声に、力なく微笑し、私は提案に乗ってやった。
陽が沈みかけている。
飾り池の水面に、遠慮がちな茜色の夕陽が映り込む。
ゆっくりと、昼間の暑さが和らぎ、幾ばくかは、過ごしやすい風が吹いてきた。
夏が終わる。
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