第十九話  飾り池の夕陽

 上毛野君かみつけののきみの竹麻呂たけまろ、十歳。

 上毛野君かみつけののきみの屋敷の、意弥奈いやなの部屋。


「ほほほほ……。」


 母刀自ははとじ───意弥奈いやなは機嫌が良い。


論語ろんご上論じょうろんを修めたのね。それで良いのですよ。あのいやも生まれ郷に逃げ帰ったまま。ほほ……、気分が良い。来なさい。」


 母刀自に招かれ、抱きしめられた。


「あたくしの竹麻呂。こんなにも立派になって、母刀自は嬉しく思います。」


 母刀自は腕をほどき、しゃがみこみ、私の頭を撫でた。


「あなたが、この上毛野君かみつけののきみの跡取りなのです。あんないやの子供、杖刑じょうけいにしてやれば良い。

 竹麻呂、あなたこそ、立派に皆の尊崇そんすうを集め、垂功名于竹帛こうみょうをちくはくにたる(史上に誉れある名を残す)のよ。」

「はい。」


 母刀自は立ち上がり、女官の方をむきながら、


「広瀬さまも良くおわかりになったでしょう。ええ、今宵こそはお渡りがあるはず。きっと、そう。

 酒肴しゅこうは用意できてるわね? 川魚の蒸し物が良いわ……。ひしおもたっぷり添えてね……。」


 そこに妻戸つまとから女官が部屋に入ってきて、礼をした。その指先が細かく震えているのを、竹麻呂は見逃さなかった。

 女官は目を伏せて言葉を口にした。


「広瀬さまは本日忙しく、こられない、と……。」


 母刀自の顔がみるみる真っ赤に膨れ上がった。キィ、と叫び、


「なんですって。どうしてよ! どうして、こんなにもお渡りがないのっ!」


 母刀自が腕を振り上げ、恐ろしい力で一気に机の上を薙ぎ払った。

 白い須恵器すえき水瓶すいびょうはいが勢い良く床に飛んでいき、ガチャガチャガチャン、と水飛沫みずしぶきをぶちまけながら割れた。


「は……、母刀自……。」


 おそるおそる、竹麻呂は声をかけようとするが、なおも全身で暴れ続ける意弥奈の耳には、もう、届かない。

 いつもの事だ……。

 五人の女官が、


「お鎮まりあれ。」


 と意弥奈に群がった。

 意弥奈はそれのことごとくを力まかせに振り払う。


「あれぇ。」

「ひぃ。」


 意弥奈は鬼のような形相で、すずりであれ、花瓶であれ、目についたものを床に、怒りのまま力いっぱい叩きつける。

 土師器はじきの、ぱん、と割れる音がする。


「キィ。あたくしの……。」


 女官たちが、顔を恐怖に引きつらせながらも、繰り返し、意弥奈にすがりつく。


「お鎮まりあれ。」


 ぱん、ぱん。


「あたくしの、何が……!」

「お鎮まりあれぇ……。」


 ぱん……。


 呆然と立ち尽くす私の腕を、ぐい、と強く引く者があった。伊可麻呂いかまろだ。


「竹麻呂さま。行きましょう。」

「………。」


 やるせない気持ちで、無言でその場をあとにする。

 こうなっては、もう手がつけられない。

 時間が経ち、意弥奈が鎮まるのを待つしかなかった。





 伊可麻呂と、庭の大岩に腰掛け、庭の松と、飾り池をぼんやりと眺める。


 己の顔から、腑抜けか、というほど、表情が抜け落ちているのを感じる。


 まだ、遠く、意弥奈の猛り狂う声が聞こえてくる。


(私の声は、母刀自の耳に届かないのに、母刀自の声は良く響いて、聞こえてくるものだ。)



 意弥奈は、時々、父上のお渡りがない、と言いだし、月の満ち欠けがけして滞ることがないように、定期的に暴れる。


 しょうがない。

 父上は、月に二回しか顔を出さないのだから。


 母刀自は息子から見ても、美しく、大豪族の娘らしい品格を備えている。

 だが、……父上がうるわしみ思ふ(寵愛する)性格ではないのだろう。


 意弥奈は気難しい。

 息子である自分は、それが分かってる。

 そして、父上も。


 月二回、この部屋に来て夕餉を饗する時は、私の話しかける言葉に鷹揚に頷いてくださるが、父上の言葉数は少なく、表情からは、何を考えているのか、良くわからない。


(はは……、実の父上なのにな。)


 論語の上論を修めたと、博士から父へ報告をさせても、直接褒めに来てくださらず、翌日、博士から、


「お父上はお喜びでしたぞ。」


 と言われても、


(舐めてるのか。)


 と、ふつふつとした細かな怒りしか湧いてこない。


 加巴理かはりに負けたからか。

 私は十歳だ。この歳で修めるのだって、


「すこぶる優秀ですぞ。」


 と博士に言わしめた。

 そうだ。その通りだ。


 ……母刀自は、加巴理かはりに勉学や武芸で劣っている、と噂を耳にするだけでも暴れる。


 実際に劣ってなどいない!


 しかし、加巴理は、生意気なことに、勉学も武芸も出来が良く、さらには、見ている者に、「才が光っている」と思わせる事にけている。


(愚鈍なヤツなら良かったのだ……!)


「加巴理が憎い。」


 ぽつりと漏らす。


「ええ、そうです、あの母子がいけないんです。」


 伊可麻呂がすぐに答えてくれる。

 いつもの、お決まりの問答だった。


「さあ、釣りでもしましょう、竹麻呂さま!」

「……道具をとってこい。」


 明るい伊可麻呂の声に、力なく微笑し、私は提案に乗ってやった。


 陽が沈みかけている。

 飾り池の水面に、遠慮がちな茜色の夕陽が映り込む。

 ゆっくりと、昼間の暑さが和らぎ、幾ばくかは、過ごしやすい風が吹いてきた。

 


 夏が終わる。







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