第十八話  ヒグラシは嘒嘒と鳴く

 夕影ゆふかげに  来鳴きなくひぐらし


 ここだくも   ごとに聞けど


 かぬこゑかも




 暮影ゆふかげに  来鳴日晩之きなくひぐらし

 幾許ここだくも  毎日聞跡ひごとにきけど

 不足音可聞あかぬこゑかも



 日が暮れるとやって来て、鳴いているヒグラシの声。

 こんなに毎日聞いているのに、飽きることがない。





  

     万葉集 作者不詳





    *   *   *






 遠くの国のえやみはみるみる広がってきている。

 大人があちこちで、そんな不吉な話をささやいていた。




 嘒嘒嘒嘒嘒けいけいけいけいけい……  嘒嘒嘒嘒嘒けいけいけいけいけい……




 日晩ひぐらし(栗褐色の蝉)があちこちで鳴いている。

 じりじりと、強い日差しが肌を焼く。

 夏が過ぎてゆく。


「このままずっと、ここに居られたらな……。」


 小川に足をひたし、一緒に遊ぶ十七人のわらはとちの実の団子を食べる午後。

 加巴理かはりは、隣に座った三虎に、ぽつりともらす。


「オレは、どこまでも加巴理さまにお供します。」


 三虎は、なんでも無い事のように言う。


 息をするのも気だるくなるような、もわっとした夏の暑さを、小川を渡る風が吹き飛ばしていく。


「ふ……。」


 三虎は、これまで、いつも一緒にいてくれた。これからも、そうだ。いてくれる。疑ったことなどない。

 笑みがもれる。

 足をぱしゃん、と動かし、冷たい水しぶきを楽しむ。

 

 ここでの暮らしは、いろんな発見があった。

 夜、いかにかへるがうるさく鳴くか。

 畑仕事が、いかに体力を奪うか。

 女の手仕事でさえ、いかに身体を使うか。

 人々が、いかに生き生きと笑って、毎日を暮らしているか。

 同じ年頃のわらは達と遊ぶのが、どんなに楽しいことか。



 優しい人達に囲まれて、のどかな郷に、このまま、ずっといられたら。



 だが、そういうわけにはいかない。


上毛野君かみつけののきみの屋敷に、夏が終わったら、帰ろう。

 上毛野君かみつけののきみの血、そして、遠く百済くだらの血を引く私のいるべき場所は、あそこなのだ。

 逃げない。)


「夏が終わったら。帰ろう。」


 加巴理は静かに三虎に告げる。


「は……!」


 三虎が目を見開き、後ろにいた布多未が、


「わかりました。加巴理さま。オレ……。」


 と加巴理の隣りに腰掛けた。

 団子を竹串からぱくんと口に入れ、ぺいっ、と竹串を小川に放り、ちゃぷん、と竹串は小川に落ちた。

 布多未はキラキラ光る川の流れを見つめた。


「オレ……、考えていたんです。

 悔しくて。

 オレは、もっと強くなる。

 絶対、誰にも、負けないようになります。

 その為には、父上に鍛えてもらうのが、一番良いんだ。

 だから、帰るのが、オレは嬉しいです。」

「うん。期待してる、布多未。」


 加巴理は微笑む。


「よおぉ───っし! 帰るぞ!!」


 布多未が立ち上がり、大声を出した。

 

「え───、帰っちゃうのかよ、団子の加巴理さま!」


 耳聡みみさとく聞きつけた葉加西はかせが大声を出した。


 そして、加巴理さまから少し離れて立つ老麻呂おゆまろのところに、河原をズンズン歩き、


「なあ、オレも連れてってくれよ。

 オレも衛士になりたい。

 綺麗なおみなと酒呑み放題なんだろ?!」


 と懇願した。老麻呂は驚いて一歩後ろに引き、


「そんな話を誰に……! 

 オレ達は、ちゃんと警邏して、ろくをもらって、そのろくで、……まあ、綺麗なおみなのいる店で酒を呑む。

 呑み放題ではない。」


 と困ったように言った。


「それに、衛士団は十五歳から入団、と決まっておる。」

「そんなあ〜。オレまだ十四歳……。」


 葉加西はかせはがっくりうなだれた。


「おまえ、十五歳になったら、上毛野かみつけのの衛士団えじだんに来いっ! 」


 ぱっと葉加西はかせに駆け寄った布多未が、がしっ、と葉加西はかせに抱きついた。

 葉加西はかせは目を白黒させている。


「オレは酉団とりのだんをいずれ、任されるんだ。

 おまえは、オレの団で貰い受けるっ! また、相撲、やろう!」

「本当かよ、布多未……。

 おまえ良いヤツだ!!」


 ぺちゃんこの鼻を赤くして、目をうるませた葉加西はかせは、布多未を抱きしめた。

 老麻呂が、


「本当さ。オレが大人だから、オレの方に来たんだろうが、実際、オレより、その布多未の言葉の方が重いのさ。

 そいつは、上毛野衛士団長かみつけののえじだんちょうの長男だからな。

 ただ、入団の試しはあるぞ。腕を磨いておけよ。」


 と、落ち着いた口調で言った。目の光は、温かい。

 小川に足をつけた三虎が、腰をひねり、後ろをむき、葉加西はかせにむかって、


「けっ、入団の試しに受かると良いな!」


 憎まれ口をたたく。その後、


「……オレが任される卯団うのだんでも良かったんだぞ……。」


 ぽつりと、ちょっとだけ、寂しそうに言った。

 

「オレが衛士になれたら、三虎も、相撲やろうぜ!」


 布多未から身体を離した葉加西はかせが、三虎ににっこり笑って言った。


「うん!」


 三虎がぱっと笑った。


「可愛いなーコイツ!」


 大股でこちらに歩いてきた葉加西はかせが、わっしわっし、と三虎の頭を撫でた。


「やめろっ!」


 不機嫌顔で三虎が手を払う。ちょっと顔が赤くなってる。

 

「そうなんだよ、あはは! 悪いな三虎、オレが葉加西はかせを貰って。」


 布多未も側に来て、ばしん、と三虎の肩を叩いた。


「ぐっ……!」


 三虎がうめき、


「そう! 可愛いんだよ!」


 私もくすくす笑いながら、三虎の背中を元気よく叩いた。


「かっ、加巴理さまっ……!」


 情けなさそうな顔でこっちを振り向いた三虎が、名を呼ぶ。


 葉加西はかせは笑いながら、天に向かって大きく伸びをした。

 かか、と布多未は笑う。

 加巴理は、くすくすと笑う。


 こういうところ、本当に三虎は可愛いと思う。


 


 嘒嘒嘒嘒嘒けいけいけいけいけい……  嘒嘒嘒嘒嘒けいけいけいけいけい……



  


 加巴理は、夏の終わりまで、多胡郡韓級郷たごのこほりからしなのさとで過ごした。


 忘れえぬ、八歳の夏だった。




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