第十四話  金羅真十

加巴理かはり。広い目を持ちなさい。

 九十六年前、おまえの高祖父こうそふは……、つまり、私の祖父は、十歳の時に国を失った。

 そして海を渡り、安住の地を求めてここまで来たのだ。

 この平和が当たり前と思うな。

 海を渡り、とうが攻めてくる事はない、と思うな。

 人々を守り、平和のいしずえを築け。

 いかに辛い事があろうと、天与てんよめいを果たせ。

 上野国かみつけのくにを見、秋津島を見、韓国からくにを見、遠く唐を見よ。」


 加巴理かはりの目に、ちらちらと木漏れ日が揺れた。


「天与のめい………。」

「そうだ。誰しも、天から定められた使命を持って生まれてきておる。

 ただの良民りょうみんの子ではない、大豪族の子なら、なおさら大きな使命を与えられておる筈じゃ。

 そしてちゃんと、やり遂げる力もここに持って生まれてきておる。」


 祖父は節くれだった指で、とんとん、と軽く加巴理の胸を叩いた。


「キンラーマァソ。」


 聞き慣れない言葉だ。


「なんですか?」

「澄みきったくがね金羅真十キンラーマァソ。誰にも汚されぬ輝き。磨きぬかれ、輝きを失わぬくがね。」


 祖父が、ぐ、と加巴理の胸を指で押した。


「お前のここには、金羅真十キンラーマァソが眠る。

 百済くだらの血をひく子よ。

 己を磨く努力を怠るな。

 そうすれば、お前の胸の金羅真十キンラーマァソが、輝く。

 お前を導く。何があっても、輝きを失わぬ。」

金羅真十キンラーマァソ……。」


 つぶやくと、祖父はしわだらけの手で頭を撫でてくれた。

 何度も、何度も。

 手から慈しみが胸にまで染み透るようだった。

 加巴理の目に差し込んでくる木漏れ日が強くなり、くしゃり、とほとんど泣きそうな顔で、加巴理は笑った。


「はい、おじいさま。……おじいさまの、胸にも、あるのですか?」

「もちろん。誰にも汚されぬ、金羅真十キンラーマァソが、今も、輝いておる。」


 そう祖父は自分の胸を、とん、と叩き、ぱちり、と片目をつむった。

 加巴理は頷いた。


「よく、わかりました。おじいさま。」


 祖父は、加巴理の顔を見下ろし、満足そうに頷いた。


「少し……、一人にしてもらえませんか。この景色を、よくよく目に焼き付けておきたいのです。」

「良いだろう。時間はたっぷりある。」


 祖父が道を引き返す。

 三虎は、加巴理の、一人、という言葉に反応し、すっと後ろに無言で下がり、離れた場所に控える。

 加巴理は傍のつきの幹に、身体をもたせかけた。


 韓級郷からしなのさとの美しいこの風景を、ゆっくり一人で味わいたい、と思った。


 濃い緑。

 夏の光あふれる空。

 家々から、かまどの煙が細くたなびく。

 畑仕事や、鍛冶かじに精を出す人々。

 土の匂い。




(お祖父様のお祖父様は、十歳で、住んでいた国を追われたという。

 どんなに心細く、悔しく、涙を流しただろう……。

 いや、私の御祖みおやなのだ。

 いつまでも涙を見せていたとは思えない。

 叶わぬことだが……、この地で、あなたの子孫は平和に、うまし地の実りと共に栄えていると、伝えてあげたい。)


 観音山くわんのんやまを降り、郷の道を歩いてゆく祖父の背中が、ここから良く見えた。

 郷人さとびとは皆、祖父に気がつくと、畑仕事の手を止めて、祖父に笑顔で挨拶をしている。

 祖父も足を止め、鷹揚おうようにこたえている。


(きっと、私の高祖父も、遥か昔、ここで同じように人々を守り、慕われていたはずだ。

 この道を歩いて、ここに立ち、韓級郷からしなのさとを見下ろしていたはずだ。

 胸に金羅真十キンラーマァソの輝きを持ち───。)


 ふっと、ある思いが胸に湧き上がった。


(父上の為でなく、母刀自ははとじの為に生きよう。


 母刀自の為だけでなく、この郷の為に生きよう。


 この郷の平和を守り、上野国かみつけのくにを守ろう。


 その為に、広く、広く、秋津島を見よう。


 遠く、遠く、韓国からくにや、とうを見よう。


 郷の良民りょうみんの子には出来ぬ事を、私はしよう。)


天地乎乞禱あまつちにこいのむ(天地の神に願い祈る)、加巴理はうけひする。

 私の御祖みおやよ。私が生きている限り、必ずこの郷を守ってみせます。」


 口からするりとうけひの言葉が出た。

 甘い夏風に言葉が溶け、木々のそよぎがいっそう豊かになったように思えた。

 この韓級郷からしなのさとの地にやすけく眠る御祖みおやに、うけひは届いたに違いない。


 西日が目をさして、温かい涙が加巴理の頬を伝う。

 この涙は、けして嫌なものではなかった。

 今まで、兄上に虐められて、さんざん泣かされてきた。

 朽葉くちば叢濃むらごの衣の武人を昏倒させた後も、悲しくて泣いた。

 その流してきた涙と、今の涙は、全然違うものだ。



(───父上にも、兄上にも、もう求めはせぬ。

 それが宿命なら、欲されるまま差し出そう。

 しかし今、胸に抱いた思いは、御祖みおやへのうけひは、私だけのものだ。

 兄上がどんなに奪おうとも、心のうちからは奪えない。

 私は、はがねのように、己を鍛えよう。

 誰にも汚されぬ、金羅真十キンラーマァソの輝きを胸に抱こう……。)


 涙は乾き、心も落ち着いた。


「行こうか。」


 加巴理は振り返り、離れて心配そうに見守っていた無二の友に微笑みかける。

 自然に頬がゆるみ、心から笑うことができた。

 三虎が、はっと息を呑み、


「はい!」


 これ以上ない、というほど、嬉しそうに破顔した。

 普段のムッツリした顔からは想像がつかないほど晴れやかな、良い笑顔だった。




 菅叢すがむらのや…… はれ……




 遠くから、透き通るような歌声が聞こえてきた。

 母刀自が唄いながら、秋萩児あきはぎこを伴い、夕陽の山道をゆっくり登ってくる。

 影が長く伸びる。




 小菅叢こすがむらのや むらのや 


 菅叢すがむらのや


 ば われこそ


 かいらめ………





(硬い草のすがが密集する菅叢すがむら、生えてきたら、あたくしが刈ってあげましょう。)



 茜色の背子はいしに、菜の花色の裳裾もすそくるぶしまでたっぷりある裳裾を手でたくしあげ、唄い、一歩、一歩、山道を歩く。

 裳裾は歩くたび軽く揺れ、白い領巾ひれがさらさらと風になびく。

 夕陽に染められ、母刀自は息を忘れるほど美しい。

 加巴理は大好きな母刀自を呼んだ。


「母刀自!」


 これだけ大きな声を出したのは久しぶりだ。

 加巴理の声の大きさに驚いた母刀自が、山道から、はっ、と顔をあげ、ゆるゆると微笑んだ。


「そこにいたのね。」


 母刀自は両手を裳裾もすそから離し、ふうわり、裳裾がおおきく揺れ、


加巴理かはり。」


 嬉しそうに、袖を振ってくれた。

 ひらひらと領巾ひれが大きく舞う。

 加巴理はぱっと駆け出し、三虎を横切り、木の根をぴょんと跳び越え、母刀自の側に行った。


「私は韓級郷からしなのさとへ来て良かったです!

 もっと人々の生活を見たい!」


 そう言って母刀自の両手を握る。母刀自は目を見開き、何回も頷き、


「ええ、ええ……。」


 みるみる涙が目にあふれ、こぼれ落ちた。


「ええ、本当に………。」


 それ以上は言葉にならず、母刀自と加巴理は固く手を握りあった。

 母刀自の流す涙に夕陽が映り、茜色のしずくを作っていた。





 

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