第十三話  観音山

 栲縄たくなはの  長きかげ踏む


 日のれに  観音山くわんのんやま


 越ゆる日は   


 たらちねの  母刀自ははとじそで


 さやにらしつ





 栲紲之たくなはの  長蔭履ながきかげふむ

 比能具礼尓ひのぐれに  観音夜麻乎くわんのんやまを

 古由流日波こゆるひは

 足千根乃たらちねの  母刀自我蘇提母ははとじがそでも

 佐夜尓布良思都さやにふらしつ





 長い影を踏む

 日暮れに  観音山くわんのんやま

 越える日は  たらちねの母刀自ははとじが袖を 

 はっきり見えるように振ってくれた





 ※栲縄たくなは……コウゾからとった白い繊維を、長く織ったもの。長いにかかる枕詞。

 ※たらちね……母にかかる枕詞。母に親しみや尊敬をこめて、という意味合いを持つ(はず。)





    *   *   *





加巴理かはり、しばらくあたくしの生家で静養しましょう。」


 母刀自ははとじの生家。

 ひな(田舎)の、のどかな郷だ。

 加巴理かはりは時々、母刀自と遊びに行った。しかし、泊まった事はない。


「はい。」


 加巴理かはりはそう返事をしながら、


(この上毛野君かみつけののきみの屋敷から出るのか。そしたら、人の噂を気にしないですむ。)


 と思った。

 噂を直接、聞いたわけではないが、あれだけ見物人がいたのだ。

 加巴理のことを、今も誰かがどこかで噂しているに違いない。



 ………あれが、兄に逆らった弟への仕打ちよ。

 打たれたのよ、ほこで───。



 そうささやいているのだ。


 考えても仕方ないことだというのに……。


(私は、どうしようもなく、弱いな。

 はっ、上毛野君かみつけののきみの血をひいているのに。なんて情けない。)


 母刀自と女官三人、加巴理と三虎、衛士二人。総勢八人で、馬に揺られ、母刀自の生家のある、多胡郡たごのこほり韓級郷からしなのさとへむかった。




 旅の最中も、加巴理の気は晴れない。


(私は兄から望まれたら、全て差し出すのか……。)


 胸に、真っ暗な思いが広がる。

 気のせいか、ほこで殴られて五日経つというのに、まだ右頬がズキズキと痛む気がする。


(では、私は、何のために……。)




 母刀自の生家は、ここの郷長さとおさの屋敷だ。

 韓級郷からしなのさとでは、風が甘い。

 川のせせらぎが聞こえる。

 初夏の日差し。

 比婆里ひばりが翔ぶ。

 上毛野君かみつけののきみの屋敷にいるよりも、心が広々とするようだった。


「来たな。」


 祖父であり、韓級郷からしなのさとの郷長、木羅もくらの宇都志うつじが屋敷の門で出迎えてくれた。

 祖父は、いかつい顔に深いしわが刻まれた、父上とはまた違った厳しさを感じさせる人だった。


「父上!」


 母刀自が笑って、馬から降りた。

 祖父と会えて、心から喜んでいる母刀自を見ていると、ここにしばらく滞在するのも悪くない、と思えた。


 昼餉を食し、屋敷内を案内され、荷ほどきをする。大人たちは何かと動いているが、加巴理と三虎は手持ち無沙汰になったさるの刻(午後3〜5時)。

 祖父から、


「ご案内したい場所があります。観音山くわんのんやまからの眺望は見事ですぞ。」


 と誘われた。


「いってらっしゃい。気が向いたら、あたくしも行くわ。」


 唐櫃からびつ(大きな物入れ)にしまう衣を選びながら、母刀自が微笑んで言う。



 祖父、加巴理、三虎、三人で連れ立って、韓級郷からしなのさとの、小石が多い道を歩く。


 六歳くらいのわらはが、


「郷長さま!」


 と声をかけて、とことこ側に駆け寄ってきた。

 祖父がいかつい顔に微笑みを浮かべ、頭をグリグリと撫でてやると、そのわらははキャッキャッと笑った。

 祖父の土器かわらけ色の衣の裾にまとわりつきながら、加巴理かはりの方を見て、


「だあれ?」


 と言った。祖父が老人らしい低い声で答えた。


「孫であり上毛野君かみつけののきみの広瀬ひろせさまのご子息、加巴理かはりさまだ。偉い方だからな。ちゃんと、をつけて呼ぶんだぞ。」

「はあい! カハリさま……。」


 わらはは、はにかみながらそう言った。

 加巴理が頷くと、目をキラキラさせながら、にこっと笑って、畦道あぜみちを走って行った。

 目が水精玉すいせいだま(水晶)のように輝いていた。

 心が健やかなのだろう。

 走った先には、父親と兄らしい人がいる。

 何か話し、兄が弟に小言こごとを言っていたが、二言三言かわし、すぐに笑顔になった。兄と弟はお互いを小突き合いながら父親にまとわりつき、父親に同時に頭をはたかれ、三人で笑いあった。


「郷長さま! たたらをや(良き日を、さようなら)!」


 父親が祖父に声をかけ、三人、ぺこりと頭をさげ、田へ戻っていく。


 加巴理はしばらく足を止めて、去りゆく親子の背中に見入っていたことに気がついた。

 祖父のあとにつき、無言で歩きだす。



(───うらやましい。

 私もあのような家族のもとに、生まれたかった。)


 親は選べない。

 食べ物も、衣も、比べ物にならないほど、加巴理の方が恵まれているだろう。

 遠く肥前国で流行りはじめているという、恐ろしいえやみがもし上野国かみつけのくにに届いたとしても、加巴理は最高の薬を飲むことができるだろう。



 それでも………。

 それら全てを手放しても、叶うことなら、あのような、仲の良い家族として生まれたかった。


 それだけで良かった。


(私は母刀自に温かく抱きしめられ、父上に愛され、母刀自は父上といる時でも、安心した笑顔を浮かべる。

 それが私の望みだ。

 それだけで良い。

 兄上だって、あんなに私を疎ましがらなくたって良いではないか。

 少なくとも、私は兄につっかかった事などない。

 少しで良い。

 兄が今より優しくなってくれたら……。)


 加巴理の心に、ぽっかり空いた、穴がある。


(兄上が望めば、何もかも差し出さねばならぬなら。

 ……私は、何のために生きているのだろう?)






 観音山くわんのんやまは、山、というより、小高い丘、と言ったほうがぴったりくる、可愛い山だった。

 だが、まわりの韓級郷からしなさとが平らかなので、眺望がとても良いと言う。


 小さい山とはいえ、立派な山道。

 急な勾配に、ふうっ、と息がもれ、初夏の風が、汗の浮いた額を撫でていく。

 木の葉のそよぎが心地良い。


 キョッ、キョッ、キョッ………。

 ぴょお、ぴょお、ぴょお………。


 山鳥が鳴く。


 カカカッ、カカカッ………。


 木をくちばしじる音が森に木霊こだまする。


 こぶしの白い花が、緑の木々の合間に揺れていた。

 三虎がぱっと藪を指差し、


「あっ、鹿いた!」


 と言ったので、三虎の指さした方向を急いで見た。

 たしかに、鹿の背中がぴょおん、と跳んで、ガザザ、と暗い森に消えた。


「いたな。」


 三虎と顔をあわせ、ふふ、と笑った。


「弓持ってくれば良かったなぁ。」


 三虎が両腕を頭の後ろに組んで言う。


「バカ言え。矢をつがえてる暇なんてなかったろ。」

「ちぇ。」


 いかにも残念だ、というように、三虎が鼻の下をこする。


 すぐに頂上についた。

 頂上からは、韓級郷からしなのさとを一気に見下ろす事ができた。

 広がる田畑。小さくなった人々。

 遠くに流れる鏑川かぶらがわ

 碓氷山、子持山、久路保くろほ山、赤見山……。険しくも美しい山々の峰。


 その美しさに言葉を失っていると、


「キンラーマァソ。」


 私の隣に立った祖父が、低い声で語りはじめた。

 




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