第十二話  蘭契

 時に手をたづさへて江河かうがほとり曠望くわうぼうし、

 酒をとぶらひてはるかに野客やかくいへよきる。

 すでにして琴罇きんそんせいて、

 蘭契らんけいひかりやはらぐ。




 手に手をとって、郊外の川べりをはるかに眺め、

 酒を求めて遠く隠者の家を訪れる。

 弾琴だんきんと飲酒に生来せいらいの心にたち戻る事ができ、

 親しく君子くんしの交わりを叶える。




    万葉集  大伴宿称池主おおとものすくねいけぬし 

    巻第十七





 ※蘭契らんけい───蘭のように美しくかんばしい交わり。君子、親友の交わりを言う。


 




   *   *   *




 うまの刻(午前11時〜午後1時)


 三虎は、上毛野君かみつけののきみの屋敷の敷地内、桑の木立を、一人、考え事をしながら歩いていた。


(これじゃ足りない………。)


 入魂の泥だんごが玉砕した。

 泥だんごでは、駄目なのだ。


加巴理かはりさまをもとに戻す為に、オレに何ができるだろう。)


 思いあぐねていると、


「おやこれは。全部差し出す加巴理かはりさまの従者じゃないか。」


 ばったり、魚顔のわらはに出くわした。

 竹麻呂たけまろさまの従者、伊可麻呂いかまろだ。


 三虎は、ぎり、と奥歯を噛み締めてから、声を張った。


「オレはお前ともう喧嘩しない!」


 伊可麻呂いかまろは、おやっ、と眉を上にあげた。

 三虎はぐいと胸をそらし、


「殴りたいなら、殴れ。さあ!」


 と言った。伊可麻呂は舌なめずりしながら、桑の木をぬい、原っぱを歩いてくる。


「だが今日だけだ。忘れるなよ。お前もオレも上野国かみつけのくにだぞ。」


 はっ、と伊可麻呂は笑った。


「だから手心を加えろってぇ?」

「違う。いくさがあったら同じ場所だ。やりすぎるなら、背中に気をつけろ!」


 去年の七月、奈良を中心に大きな嵐が吹き荒れた。

 正四位下参議さんぎでいました橘奈良麻呂たちばなのならまろが謀反をおこし、四百名を超える者が捕らえられ、罰をうけ、流された。 

 天皇の血につらなる方々でさえ、杖刑じょうけい(杖で全身を打たれる)で黄泉へとくだった。


 古くからの大豪族、大伴宿禰古麻呂おおとものすくねのこまろは捕らえられたまま、黄泉へくだり、陸奥───何だっけ、陸奥国みちのくのくに鎮守将軍ちんじゅしょうぐんだった、大豪族の佐伯宿禰全成さえきのすくねのまたなりは、陸奥国みちのくのくにで厳しく怒られ、みずから黄泉にくだった。


上毛野君かみつけののきみの者は、誰も捕らえられていないわ。安心なさい。」


 と母刀自はしっかり言ってくれたが、大人たちの、不安そうな顔を見ていれば、わかる。

 いつ、何が。

 いくさがおこり、今は平和な上野国かみつけのくにが巻き込まれる事が、無い、なんて言い切れないのだ。

 大人は黙っていても、わらはってな、分るんだぞ。

 それは、この魚顔の伊可麻呂だって、そうだろう。


「そういう口を………。」


 眼の前に来た伊可麻呂が、歯をむき出して拳を振り上げる。


「きけないようにしてやる!」


 全く防御しないで拳を受けたので、一発で身体が浮き、桑の梢ごしに晴れ渡った初夏の空が見えた。





   *   *   *


 



 乎呼理尓ををりに 乎呼里ををり………


 乎呼理尓ををりに 乎呼里ををり………





 うぐひすが鳴いている。


「チッ………。」


 鼻の奥に血のかたまりを感じて不快だ。

 三虎は仰向けのまま横をむいて、鼻に手をあてて、ぶっ、と血のかたまりを勢い良く外にだした。


「バカスカ殴りやがって………。」


 気が済むまで三虎に馬乗りになっていた伊可麻呂は、もう去った。

 静かだ。

 大怪我はないが、顔といわず、身体といわず、あちこち痛かった。

 身体に力が入らない。

 しばらくここで一人、仰向けに休む必要があった。


 ふと横を見ると、菜の花の茎に、天道虫てんとうむしが止まっているのが見えた。

 天道虫は、茎をのろのろと天に向かって登り、黄色い花までたどり着かず、また、地に向け、のろのろと降りる。

 天に。地に。

 紅い小さな虫は、何回もそれを繰り返した。


「……何やってんだよ。それじゃ、意味ないだろ。どこにも、いけないぞ。」


 三虎はつぶやいた。

 菜の花が春風に揺れる。


「オレは悔しくない……。」


 三虎は誰にともなく、つぶやいた。


「オレは惨めか……?」


 いいや。一回は殴られてやらないと、伊可麻呂はしつこく喧嘩をふっかけてくるだろう。

 だから必要なことだ。

 上毛野君かみつけののきみの生まれなのに、見世物のように見物人に囲まれ、ほこで打たれた加巴理さまの、味わった屈辱に比べれば。


「こんなのでもねぇ……。」


(オレは、加巴理さまを守りたい。

 いつもの加巴理さまを取り戻したい。

 宇都売さまでも出来ないなら、オレがどうにかする。)


 手を握りしめる。

 手に力が入るようになった。

 あと少ししたら、顔を洗って血と泥を流し、衣も汚くなりすぎていたら替えよう。


 そして、加巴理さまの様子をもう一度そっと確認してから、碓氷郡秋間郷うすいのこほりあきまのさとへ、愛馬、香足火射箭かあひいやを走らせよう。

 姉の日佐留売ひさるめ智慧ちえを借りよう。



 菜の花をのろのろ降っていた天道虫は、ぱっ、と思い立ったように青空にむかい飛んでいった。




   *   *   *




 夕刻。


 加巴理かはりさまは、宇都売うつめさまの部屋で、倚子に腰掛け、夕餉になるのを、ぼんやりと待っている。

 三虎は部屋の妻戸つまと(入り口)をくぐり、加巴理さまにズンズンと近づいた。


 加巴理さまが気がついて、こちらに目を向ける。

 三虎は麑囊げいなう(こじかの皮で作った、白い革のふくろ)に手をつっこみ、日佐留売ひさるめと三虎の血と汗の賜物たまものを、一気に引き抜いた。


 花かんむり。


 白、紫、桃色、黄色。形も大きさもいろいろな花を、緑の茎で編み込み、立派なかんむりとなっている。


「加巴理さま、ん!」


 三虎はぐいっ、と花かんむりを加巴理さまの胸に押し付けた。


「オレも、姉上も、心配してる。元気出せ!」


 ぱちぱち、と加巴理さまはまばたきをした。花かんむりを受け取り、


「三虎の姉上が作ってくれたのか。」


 と、すまなそうにうつむいた。


「違う。それは、オレが作った。」


 高らかに言った。

 花かんむりは、女童めのわらはが作るものだ。男童おのわらはの遊びではない。


「は………。」


 加巴理さまが目を丸くし、


「え………。」

「ええ……。」

「おぅ……。」

「まあぁ……。」


 母刀自と宇都売さまと女官二人が何か言葉をもらした。


「姉上に教わって、一から、オレが作った。」


 堂々と言うと、


「………ぷっ。」


 加巴理さまが、ふいた。

 久しぶりの、小さな、笑顔。

 つられて三虎も笑うと、加巴理さまが、カタン、と倚子を立った。


「こんなの作って、どうするつもりだ。」


 苦笑しながら、花かんむりを自分で頭にのせて見せた。ふっ、と照れたように笑った加巴理さまは、もともと玉のような美貌だから、花かんむりが半蔀はじとみ(釣り上げ窓)から差す夕焼けに照り映えて、茜色に可愛くなった。

 そして空いた両腕で、三虎をぎゅっと抱きしめた。


「………ありがとう三虎。」

「おうっ! 元気をだせ、加巴理さま!」

「うん。」


 素直に返事をした加巴理さまは、身体を離し、早業で、さっと花かんむりを自分の頭から、背丈の変わらない三虎の頭に移し替えた。


「あっ!!」


(加巴理さまには花かんむりが似合っても、オレには似合わねぇ! 

 絶対、絶対、似合わねぇ!!)


「かっ、勘弁してくれ!」


 慌ててとろうとすると、


「とっちゃ駄目! あははは! 

 私だけにかぶらせて、自分がまぬがれると思うなよ、三虎! 

 うん、似合ってるぞ。」


 と楽しそうに加巴理さまが言った。

 その、本当に久しぶりの加巴理さまの花咲くような笑顔に、心底嬉しい、と思いつつ、


「くそぉ。」


 恥ずかしさで顔が歪む。

 加巴理さまの笑い声に、おみな四人の、ほほほ、という実に上品な笑い声が部屋を満たす。


(こんなはずでは……。)


 ただ、ビックリさせて、三虎も姉上も心配してる、と伝えて、元気を出してもらえば良かった。


「きっとね、とても良いと思うわ………。」


 と何か含みのある笑顔で言った、二歳年上の姉の顔を思い出す。


(まさか、こうなると予想していたわけじゃないだろうな、姉上!)








 三虎は、顔がアザだらけで、母刀自に叱られかけた。だが、


「手は出さなかった、一方的に殴らせてやっただけだ。」


 と堂々と言ったら、母刀自はぐっと言葉につまり、悔しそうに口を引き結び、黙って三虎を抱き寄せた。

 加巴理さまは、


「三虎。」


 と、ただ名を呼び、瑠璃るりのような澄んだ瞳に哀しみの色を浮かべ、母刀自に医務室へ連れられていく三虎を、じっと、見ていた。

 





 その日から、少し、加巴理さまに笑顔が見られるようになったが、まだ、いつもの加巴理さまの明るさは、戻らなかった。












 ↓挿絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093085415610818

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