第七話  とうや欲あり

 戊戌つちのえいぬの年。(758年)


 加巴理かはり八歳の初夏。


 夏草が元気に茂る草原を、父上と二人で白馬を駆る。

 上毛野君かみつけののきみの屋敷を出て、東に大路を行き、なだらかな丘陵きゅうりょう、馬を走らせるのにちょうど良い草原だ。


「はいっ!」

「やあっ!」


 馬を操る声が小気味よく野に渡り、父上と加巴理の愛馬が、ドドドッ、ドドドッ、と風を切る。

 人馬が駆け抜けたあとには、野の草が舞い上がる。

 野駆けを楽しみ、清涼な小川のほとりで馬を降り、休ませる。


 加巴理の顔に、ぶふふふっ、と鼻を擦り寄せてくる白毛の馬──水雄婆閼多みをゔぁあたが愛らしく、加巴理はくすくす笑う。

 気を良くしたのか、水雄婆閼多みをゔぁあたは尻尾をぶるん、ぶるん、と揺らしながら、加巴理の目刺めざし(前髪)をもうとする。


「くっくっ、やめないか……。ミヲヴァータ!」


 加巴理はさっと顔をずらし、汗をかいた愛馬のくびを優しく撫でてやる。


 ぽつんと離れたところでは、三虎と、三虎の父、八十敷やそしきが馬に乗ったまま控えている。

 三虎は栗毛馬、香足火射箭かあひいやまたがっている。


 水を飲む馬を挟み、加巴理は父上と二人きりで河原にたたずむ。


 父上に野駆けを誘われたのは初めてだ。

 これだけ、二人きりでいるのも、初めてだ。

 小川を渡る初夏の風は爽やかだが、二人は無言だった。

 実の親と一緒にいるというのに、加巴理は不思議と居心地の悪さを感じる。

 きっと、父上がいつも笑わないせいだ。

 厳格な父上は、この晴れた日差しものと、野駆けを楽しんでいたって、笑顔にはならないのだ。

 父上が口を開いた。


論語ろんご上論じょうろん(前半部の十編)までおさめたか。」

「……はい。」


 学んだ。

 しかし、全部暗記できているわけではない。

 返事は少し弱々しいものとなる。


いはく、いま剛者ごうしゃを見ず。

 るひとこたえて曰く、申棖しんとうと。

(先生いわく、私はまだ剛健ごうけんな者を見たことがない。ある人が答えて曰く、申棖しんとうがおります、と。)」


 父上が唐突に言った。


(論語、公治長こうやちょう、第五、だ。……大丈夫。)


 加巴理はぐっと背筋を伸ばし、続きを口にした。


「子曰わく、とうよくあり。いずくんぞ剛なることをん。

(先生曰く、とうには欲がある。どうして剛健だと言えよう。)」


 父上が満足そうに、二回頷いた。

 加巴理は、一気に全身の汗が噴き出た気がして、ゆっくり息を吐く。


「褒美をやろう。何が良い。」


 父上が穏やかに言った。

 微笑んだかもしれない。手入れの行き届いた口ひげに覆われた口元が、動いた気がする。

 ぱっと嬉しくなり、加巴理は満開の笑顔になった。


「では、三島木綿みしまゆう(伊豆の三島から産する木綿。質が良い。)を!」

「良いだろう。」


 父上はあっさり頷いてくれた。

 ふつふつと、喜びが腹から湧いてくる。


三島木綿みしまゆうを頂戴したら、母刀自に捧げよう。きっと、母刀自はたくさん喜んでくれるだろう。)


 今なら、父上にける気がした。


「父上は、母刀自のどこを愛しんでらっしゃるんですか?」


 父上は真顔でこちらを見た。冷たい目。


「………。」


 返事がすぐに返ってこないことに、背筋がヒヤリとする。


「父上、父上はなぜ、母刀自ははとじを妻に選んだのですか?」


 父上が加巴理に向き直った。


「背が高かったからだ。」


 あまりにそっけない返事だった。

 たしかに母刀自は背が高い。

 しかし、もう夫婦めおととなって十年経つ両親なのだ。


「もっと、他には、ないのですか。」


(なんでも良い、心根が清らか、美しくてたまらない、特別なおみなだと、もっと、母刀自でなければならなかった、と、そういった言葉はないのか。)


「なんだ。住まいも衣も、何不自由なく与えているだろう。それ以上、何がいるというのだ? 

 貪瞋痴とんじんち(仏教において自分の好むものをむさぼ貪欲どんよく、自分の嫌いなものを憎む瞋恚しんい、物事に的確な判断ができずまど愚痴ぐち、の悪徳を言う。)はつつしめ。」


 鬱陶うっとうしい、そういった口調で言い放った父上は、さっさと馬にまたがった。

 加巴理も無言で、水雄婆閼多みをゔぁあたに跨る。


(───叫び出したい。)


 思い切り、大声をだして、父上をなじったら、気分がスッキリするだろうか。

 しかし、できない。

 きっと、今よりもっと、父上の心は加巴理から離れてしまう。

 あまりにも簡単に。

 そして加巴理は、修復するすべを知らない。

 母刀自が悲しむ。


(もっと、私の出来が良ければ……。

 勉学ができるわらはだったら良かったのか?)


 違う気がする。博士には、


「八歳でここまで論語を修めることができるとは。素晴らしい才気でございますぞ。」


 と満足そうに褒めてもらった。


(では武芸? それも違う。)


 武芸の師である八十敷やそしきには、


「よしよし、加巴理かはりさまは筋が良いですぞ! 

 将来は、どこの戰場いくさばに立っても恥ずかしくない、堂々とした武人とおなりになるでしょう!」


 と弾けるような笑みで言ってもらった。これ以上、これ以上、何を。


(母刀自───。

 母刀自は、下の者にも、優しく接するのよ、まわりにいつくしみを持って接していれば、いずれ、愛がかえってくるのよ、と、私の髪を優しくでつけながら、教えてくれました。

 私はそれに、はい、と返事をしましたが、胸中は違うんです。

 母刀自。

 まわりからは、愛がかえってくるかもしれません。でも、肝心のたった一人からは……。)


 父上に悟られぬよう、澄ました顔をする加巴理の胸に、どうしようもできない苦しい想いが渦巻く。


(私は、上毛野君かみつけののきみの次男じゃないか。

 父上は、兄によく仕え、この家を守り、上野国かみつけのくにを富ませよ、とおっしゃった。

 ついさっきだって、褒美をくださると仰ったばかりじゃないか。

 私は、私は、父上から───。)



 愛されている、自分にそう言いきかせようとして、できなかった。



(───住まいも、衣も、何不自由無く与えているとおっしゃいますが、それは、義務なのですか父上?

 ───それ以上、何がいるというのだ? とおっしゃいますが、何不自由無く生活できていれば、それ以上は求めてはいけないのですか?)



 何故か、豪奢ごうしゃ鶏舎けいしゃでただ餌を与えられ続けるだけの、二羽のにわとりの母子が、加巴理の頭に浮かんだ。



 この日、今までくすぶっていた思いは確信となった。


(愛されていないのだ。

 母刀自も。

 ……私も。

 可哀想な母刀自───。

 そして可哀想な───。)




 馬を駆る八歳の男童おのわらはの胸に、墨をたらしたような悲しみが広がっていった。




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