第七話 とうや欲あり
夏草が元気に茂る草原を、父上と二人で白馬を駆る。
「はいっ!」
「やあっ!」
馬を操る声が小気味よく野に渡り、父上と加巴理の愛馬が、ドドドッ、ドドドッ、と風を切る。
人馬が駆け抜けたあとには、野の草が舞い上がる。
野駆けを楽しみ、清涼な小川のほとりで馬を降り、休ませる。
加巴理の顔に、ぶふふふっ、と鼻を擦り寄せてくる白毛の馬──
気を良くしたのか、
「くっくっ、やめないか……。ミヲヴァータ!」
加巴理はさっと顔をずらし、汗をかいた愛馬の
ぽつんと離れたところでは、三虎と、三虎の父、
三虎は栗毛馬、
水を飲む馬を挟み、加巴理は父上と二人きりで河原に
父上に野駆けを誘われたのは初めてだ。
これだけ、二人きりでいるのも、初めてだ。
小川を渡る初夏の風は爽やかだが、二人は無言だった。
実の親と一緒にいるというのに、加巴理は不思議と居心地の悪さを感じる。
きっと、父上がいつも笑わないせいだ。
厳格な父上は、この晴れた日差しものと、野駆けを楽しんでいたって、笑顔にはならないのだ。
父上が口を開いた。
「
「……はい。」
学んだ。
しかし、全部暗記できているわけではない。
返事は少し弱々しいものとなる。
「
(先生
父上が唐突に言った。
(論語、
加巴理はぐっと背筋を伸ばし、続きを口にした。
「子曰わく、
(先生曰く、
父上が満足そうに、二回頷いた。
加巴理は、一気に全身の汗が噴き出た気がして、ゆっくり息を吐く。
「褒美をやろう。何が良い。」
父上が穏やかに言った。
微笑んだかもしれない。手入れの行き届いた口ひげに覆われた口元が、動いた気がする。
ぱっと嬉しくなり、加巴理は満開の笑顔になった。
「では、
「良いだろう。」
父上はあっさり頷いてくれた。
ふつふつと、喜びが腹から湧いてくる。
(
今なら、父上に
「父上は、母刀自のどこを愛しんでらっしゃるんですか?」
父上は真顔でこちらを見た。冷たい目。
「………。」
返事がすぐに返ってこないことに、背筋がヒヤリとする。
「父上、父上はなぜ、
父上が加巴理に向き直った。
「背が高かったからだ。」
あまりにそっけない返事だった。
たしかに母刀自は背が高い。
しかし、もう
「もっと、他には、ないのですか。」
(なんでも良い、心根が清らか、美しくてたまらない、特別な
「なんだ。住まいも衣も、何不自由なく与えているだろう。それ以上、何がいるというのだ?
加巴理も無言で、
(───叫び出したい。)
思い切り、大声をだして、父上をなじったら、気分がスッキリするだろうか。
しかし、できない。
きっと、今よりもっと、父上の心は加巴理から離れてしまう。
あまりにも簡単に。
そして加巴理は、修復する
母刀自が悲しむ。
(もっと、私の出来が良ければ……。
勉学ができる
違う気がする。博士には、
「八歳でここまで論語を修めることができるとは。素晴らしい才気でございますぞ。」
と満足そうに褒めてもらった。
(では武芸? それも違う。)
武芸の師である
「よしよし、
将来は、どこの
と弾けるような笑みで言ってもらった。これ以上、これ以上、何を。
(母刀自───。
母刀自は、下の者にも、優しく接するのよ、まわりに
私はそれに、はい、と返事をしましたが、胸中は違うんです。
母刀自。
まわりからは、愛がかえってくるかもしれません。でも、肝心のたった一人からは……。)
父上に悟られぬよう、澄ました顔をする加巴理の胸に、どうしようもできない苦しい想いが渦巻く。
(私は、
父上は、兄によく仕え、この家を守り、
ついさっきだって、褒美をくださると仰ったばかりじゃないか。
私は、私は、父上から───。)
愛されている、自分にそう言いきかせようとして、できなかった。
(───住まいも、衣も、何不自由無く与えているとおっしゃいますが、それは、義務なのですか父上?
───それ以上、何がいるというのだ? とおっしゃいますが、何不自由無く生活できていれば、それ以上は求めてはいけないのですか?)
何故か、
この日、今まで
(愛されていないのだ。
母刀自も。
……私も。
可哀想な母刀自───。
そして可哀想な───。)
馬を駆る八歳の
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