第四話  初乗り

 早朝。


 朝露を散らしながら、若草の香る春の野を駆け抜ける、二つの人馬があった。


「乗れた! 乗れたよ!」


 はしゃいだ声が六歳の加巴理かはりから出る。

 初めて一人で馬に乗れた。


「ええ、見ておりましたとも。」


 八十敷やそしきが馬で並走しながら、にこやかに声をかけてくれる。


下生したばえに気をつけて。」


 遠くで母刀自ははとじが心配そうな声を出す。

 思ったより縦に揺られない。

 安定した走りを馬は見せてくれた。

 頬が蒸気し、


「はは!」


 笑い声が漏れ、


「爽快だ!」


 爽やかな朝の風を一身に浴び、どんどん視界が開けてくる。



   *   *   *



「お父上にも、初乗りのご報告を致しませんとな。」


 自分が武芸を教えている、上毛野君かみつけののきみの次男、加巴理かはりさまの隣へ、馬を並走しながら石上部君八十敷いそのかみべのきみのやそしきは声をかけた。


「きっと喜んでくださるでしょう。」


 男童おのわらはの弾けるような笑顔が消える。


「あまり、父上は顔を見せてはくださらない。」

「忙しくてあらせられる。気になさいますな。加巴理かはりさまが稽古に励んでらっしゃる事は、常々お喜びですぞ。」

「そうだろうか。」


 それから黙りこんでしまった。

 八十敷やそしきは心のなかで、哀れみの情を禁じえない。

 加巴理さまは、見た目も愛らしい。

 それだけでなく、真面目に稽古にとりくみ、素直に技を真似できる。

 技をモノにできるまで、粘り強く稽古しよう、という意志を感じられた。


 聞けば、勉学の方も、才が光っているという。

 普段はおとなしい子だが、初めての剣──といっても、棒だが──の稽古の時も、棒を持たせてすぐに、怯まず八十敷やそしきに向かってくることができた。

 顔には恐れが浮かんでいたが、胆力も見込みがある、と八十敷やそしきは踏んでいた。


 己が父親だったら、溺愛してしまうだろう。

 しかし、実の父親の広瀬さまは、溺愛はしていない。

 辛くあたるわけではない。

 しかし。

 温かい親の情というか、加巴理さまに接する時、熱を感じなかった。


 加巴理さまには、「お父上はお喜びです。」と伝えてはいるが、稽古が順調である報告をしても、広瀬さまは、


「そうか。」


 というそっけない返事であった。

 母親が良民りょうみんだから?

 それにしては、大豪族出身の母を持つ竹麻呂さまに対しても、砂をすくいあげるように、乾いた対応なのであった。


 加巴理さまは、大豪族の次男として、六歳のわらはに望む素養は全て持っている。

 これ以上ないほど良くできた子供。

 その陰には、本人の努力が少なからずある。

 それなのに、時々、その瞳に淋しさのかげがよぎるのは、哀れであった。



   *   *   *


 


 加巴理は母刀自の部屋へ急ぐ。

 母刀自がおのこと喋ってる声が聞こえてきていた。

 父上だ!

 簀子すのこをもどかしく急ぎ足で歩き、


「父上! 来てくださったの。」


 妻戸つまと(出入り口)を抜けると、倚子に座り、鷹揚おうように頷く父の姿があった。

 その膝に飛び込む。

 藤色の衣のかたさと、かすかな龍脳りゅうのうのジンと沈んだ匂いが鼻をくすぐる。


「ははは。大きくなったな。」


 父は会うと、二回に一回はこう言う。

 まるでどこか遠くに旅していたように。


「八十敷から、馬の初乗りをしたと訊いたぞ。良くやったな。」

「はい!」


 嬉しくなって、大きく返事をする。


「これは褒美だ。豆菓子だ。」


 父が机から、露草つゆくさ色の木綿の袋を手渡してくれた。


「ありがとうございます!」


(やった! これは嬉しい。)


 豆に、貴重な甘葛汁あまかずらじるをまぶして、乾燥させた、豆菓子。めったに食べれるお菓子ではない。カリカリ豆の感触が、食べると楽しく、上品で飽きのこない甘さなのだ。

 加巴理がニコニコしているのを見て、父は頷き、底冷えのする目で、


ちょうじては、兄によくつかえ、この家を守り、上野国かみつけののくにを富ませよ。」


 と唐突に厳しく言った。


「はい。」


 加巴理は、わらはらしい笑顔を、真面目な顔に引き戻し、神妙に頷く。


(この豆菓子は、三虎と明日、食べよう。)


 心に、明日の楽しい予定をひとつ、刻む。


 父が来てくれるのは、月二回ほど。

 一緒に夕餉をいただく。


 とても嬉しい日だった。そして、不思議と緊張する日だった。

 母刀自が、いつもピンと気を張り詰めているからだ。

 父が気を悪くしないように。

 嫌われないように。

 精一杯笑顔を浮かべて、あちこちに細心の注意を配る。

 その、「嫌われてはいけない。」という無言の圧が、自分にもずしりとのしかかるようだからだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る