第三話  淡水香と山奈

 柳色の衣をきた加巴理かはりは、勉強部屋から、自分がいつもいる部屋──母刀自ははとじの部屋に、簀子すのこ(廊下)を急ぐ。


 部屋からは、三虎の泣く声と、乳母ちおも鎌売かまめの叱る声がする。


「おまえって子は!」


 高らかにお尻をぶたれてる音がする。


「ぎゃ───ん。うっ、うっ、うっ……、オレは加巴理さまの一番の従者だ! 当然の事をしたまでだ! ぎゃ───ん。」


 己の大事な乳兄弟ちのとが、泣き声の合間に、はっきりと大声で言い切ったのが聞こえてきた。


(鎌売に、もう止めて、とお願いしなければ。)


 私は開け放たれた妻戸つまと(出入り口の扉)へ急ぐ。

 だが部屋に入る前に、母刀自が助け舟をだした。


「もうそれぐらいで良いでしょう。意弥奈いやなさまも、これで安心なさるはず。

 そう、そう、竹麻呂たけまろさまに、これをお渡ししてね……。」


 妻戸つまとから部屋をうかがうと、背中を向けた意弥奈いやなさまの女官に、母刀自が包みを──おそらくお菓子が入ってる──渡したのが見えた。


 女官は無言で母刀自に礼をとると、退去の挨拶も述べず、くるりと妻戸の方を向いた。


 妻戸の外に立つ加巴理かはりと目があう。


 女官は顔に高慢な侮蔑をかすかに見せ、加巴理には目もくれず、部屋を出ていった。


 意弥奈いやなさまの女官は、皆、母刀自と加巴理に、そういう顔をする。もう慣れっこだ。

 だが、その女官が立ち去った後も、なんとなく、足が簀子すのこに吸い付いたような気持ちになり、私はその場に立ったまま、そっと、うつむいてしまう。


(慣れっこだろ……。)


 室内では、三虎が奥の壁を向き、赤いお尻をまるだしにして、木床にうつ伏せになっている。


「いてぇ、チクショー。」


 腕でぐいっと目から涙をぬぐう仕草をしたのが見えた。ブツブツ元気に悪態をついている。


鎌売かまめ。お尻を冷やしてあげたほうが良いわ。

 薬草を──大黄だいおう白芷びゃくしを浸すお湯をもらってきてちょうだい。」


 母刀自が鎌売に優しく言う。

 鎌売は、はい、と頷き、礼をした後、パンと三虎の頭を殴り、三虎に「痛ぇ。」と声をあげさせてから、妻戸つまとの方を向いた。


「まあ、加巴理さま。」


 と鎌売は厳しい顔立ちに満面の笑みを浮かべて、こちらに礼の姿勢をとり、私とすれ違いで部屋を出ていった。

 私を見た母刀自は、ぱっと明るく笑い、


「加巴理。あたくしの加巴理。入ってらっしゃい。おいで。」


 と、両腕を広げてくれた。

 母刀自はいつも優しい。

 私は、ぱっと駆け出した。

 無言で母刀自の、紅梅こうばい色の背子はいし(ベスト)に飛び込む。

 温かいかいなに抱きしめられる。

 柔らかい衣擦れの音がし、ふわふわとした心地よさで、胸までいっぱいになる。

 淡水香たんすいこう山奈やまな(防虫の薬草)の、甘く奥深く、少しスンとした匂いがした。


「母刀自は良い匂い。」


 ふふ、と母刀自が笑って、腕をといた。


「額を見せて。」


 しゃがみこみ、私の額をじっと見つめる。


「ああ、擦り傷ね。傷まない? 薬草を塗ってあげましょうか?」


 私はニッコリしながら言う。


「大丈夫です。こんなの、薬草なんていりません。博士に拭いてもらいましたから。」


 母刀自に心配をかけたくない。


「三虎のお尻のほうがよっぽどです。」


 三虎はまだ、お尻まるだしでうつぶせだ。私は近寄って、ひょいと隣にしゃがみこむ。


「大丈夫?」

「お尻がだぜ。」


 三虎は淡々と言う。

 全然懲りてない。


「いつもありがとう。でもあんな事しないでよ。

 三虎の方が結局、酷い目にあってるじゃないか。」


 三虎はムッとした顔で──でもいつもそんな顔なんだけど、


「やられっぱなしは、しょうに合わない。」


 と壁を向いたまま、ぶっきらぼうに言った。


「私は全然気にしてない。それに、今日は落ち着いて博士の話が聴けて良かった。

 怖い顔で睨みつけてくる人が、早めにいなくなってくれたから。」


 肩をすくめて言うと、三虎が両手を木床について、ガバっと上半身を起こし、私を見た。


「そんなんじゃ駄目だ! やられっぱなしじゃ……。強くなれよ!」

「またそんな口を!」


 お湯を炊屋かしきやからもらってきた鎌売が、お湯の入った土師器はじきを机にダンと置き、電光石火、三虎のお尻をピシャリと叩いた。


「てェ───────!」


 びくんっ、と身体をねさせ、三虎は大きな声を出した。


「おまえなんかに、高価な大黄たいそう白芷びゃくしなんて、もったいない話ですよ! まったく懲りない! もう何回目なんだい!」

「何回目なんて知るか! 何回だってやってやらぁ! 悪いのはアイツだ──!」

「ああ態度がふてぶてしい! どうしてこう可愛げがないんだいおまえは!」


 三虎と鎌売は、そのまま母子で口喧嘩を始めてしまった。


(鎌売は、私には優しいんだけどな……。)


 そう思っていると、母刀自がふわりと白い領巾ひれを床に滑らせて、近くに来た。

 紅梅こうばい色の背子はいし(ベスト)

 黄色のくん(ブラウス)

 青の裳裾もすそ(スカート)

 だいだいの帯。

 髪は二髻にけいを頭上に二つ、高く作り、先端はツンと小気味よくとんがっている。

 母刀自お気に入りの紅縞錦石べにしまにしきいし──紅色の石に白や黒の線が幾重にも走り、複雜な縞模様が美しい貴石──をあしらったかんざし、首飾り、耳飾りをしている。


 もちろん、母刀自自身が一番綺麗だ。


「母刀自。」


 つんつんと青の裳裾もすそをひっぱり、


「お腹すいた。」


 ワガママを言ってみる。


「あらあら。もう少しで、昼餉ひるげの時間でしょう?」

「お腹すいたよぅ〜。」


 腰にぎゅっと抱きつく。


「昼餉がきたら、いっぱい食べましょうね。」


 母刀自は優しく言うが、


「むぅ〜。」


 私は唇を尖らせて、母刀自を見上げる。


「あらあら、あたくしの加巴理はにわとりね。可愛いくちばしがあるようだわ。」


 唇をキュッとつままれる。


「むっ!」


 ぶんぶん、と顔を振って母刀自の指を唇から外し、顔を母刀自の腹に埋める。


「あらあら……。」


 母刀自は優しく、抱きついた私ごと身を揺らす。

 右に。

 左に。

 私はわざとむーむー言いながら、優しい揺らぎに心地よく身を任せ続けた。



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